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3.11のこと

3.11から、13年。
毎年この日は僅かな金額でも寄付をするようにしています。

13年前のあの日、私は東京に住んで共働きをしており、ちょうど営業先に出かけていました。
営業途中で、少し時間ができたので、
なぜ、本屋さんに入ったのかもうあまり覚えていないのですが、
とある駅の1階に入っている本屋さんに入って数分後。
急にがたがたと揺れを感じました。
徐々に大きくなる揺れ。
小さな駅中の本屋さんは、天井近くまで本が積みあがっています。

「すぐに外に出てください!!」
店員さんが叫び、本屋さんにいたお客さんたち数人と一緒に外に出ました。

駅は外資系などが多く入る頑丈なタワーオフィスが直結している比較的新しい地下鉄の駅。
その駅が波打つように横揺れをしていて、ビジネスマンたちもかなり不安そうな表情で揺れが収まるのを待っていました。
揺れが止まったとたん、
「火事です、火事です」のアナウンスとともにスプリンクラーが回り始めました。
煙は感じなかったので、おそらく誤作動だったと思うのですが
みるみる地下鉄の駅入り口に水が溜まっていきました。

地下鉄は止まり、駅直結のタワーオフィスの社員の方々がヘルメットをかぶって避難を始めました。
私は外出先だったので、ひとまず落ち着くために駅中のタリーズコーヒーに入りました。今思うとずいぶんのんきなことをしているのですが、この後の仕事をどうしよう、どうやって家に帰ろう、少し気持ちの整理をしたくてコーヒーを飲みました。
この時、スプリンクラーの水が店内まで入っていましたが、その水をかき出しながらコーヒーを入れてくれたタリーズコーヒーの店員さん。
店員さんたちも帰りたい、どうしようと思ったはずなのですが元気にサービスをしてくださり、本当に心が落ち着いたものです。

その後、電車再開のめどが立たないというアナウンスを聞いて、
バスの利用に切り替えようと地上に出たのですが、同じような考えの人でバスはあふれていました。
何台か待ったのちに乗り損ねそうになったバスの中から、
男性の方が「あなた一人なら乗れるから乗りなさい!」と声をかけてくれて、扉ぎりぎりの場所に乗ることができました。
一人での外出中、本当に不安だったのですがこういう時に日本人というものは協力し合えたり、譲り合えたりする。本当に素晴らしい国民性だと思います。

バスも結局途中で全員降ろされ(細かい理由はわからないのですが、おそらくこれ以上の乗車ができない、パニックを避けるためだったように思います)、途中からは徒歩で移動を始めました。
夕方、多分17時半ころになっていたと思います。
途中のコンビニで携帯の充電器と、甘いもの、温かい飲み物を買って自宅の沿線駅(自宅までは電車さえ動けば20分ほど)を目指しました。
30分ほど歩いてようやく沿線駅に到着しましたが、そこはいわゆる帰宅難民であふれていました。

その駅に着いた頃、初めて母と電話がつながりました。
夫とは運よく地震直後に会話ができ「大丈夫やな?」と声を聴けていたのですが、母とはずっとうまくつながらず。。メールを送っていたのですがそれもうまく、届いていなかったようです。
母は第一声で私の名前を叫んでいました。母の声を聴いたとたん、私も涙。
とにかく寒さをしのげる場所に移動しなさい、
電車が動くまで待ちなさいと言われました。今思うとすごく的確なアドバイスで、あのまま駅で何時間も過ごしていたら(あの日の東京は寒かった)、かなり体力消耗していたと思います。

母のアドバイスをもとに、沿線駅にある営業支社に駆け込みました。
そこには同じように駆け込んできたほかの部署の人たちに会うことができ、本当にほっとしたことを覚えています。

3.11はいつも、あの日の母の第一声が耳元で聞こえるような気がします。
本当に私のことを心から心配している人にしか出せない声。
その後の東京の生活は、余震や契約停電など大変なこともたくさんありましたが、それでもあの日、母の声が聞けて、家族全員無事だった私には想像もしえない災害状況に、何年たっても胸が痛みます。

息子が一人で出かけた時に災害があったら。
多分この気持ちがずっと、私の子育ての根っこにあり、
長時間の留守番や子供一人の外出がいくつになっても、簡単にさせられないでいます。
でも忘れられない経験が、今まで息子を守ることができたなら・・・。

すべての被災者の方に祈りを。

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