
自然界について、陰陽の法則からなる森羅万象 前編1 第2章 陰陽の法則 第3節
第3節 陰陽
陰陽の法則を理解するにはまずこの基礎となる陰陽とは何かについて知らなければなりません、然し一般読者には興味の持てない問題だと思いますが、努めてこの基礎知識を習得するべきです、さて陰陽とは吾々が日常遭遇する事物、例えば空間、星、太陽、遊星、月、地球、海陸、昼夜、生物、無生物、土、植物、動物、人間、生死、寒暖、戦争、平和、善悪、優劣、大小、美醜、甘苦、強弱、高低、破壊、建設、黒白、貧富等々一切の名称は我々人間が名付けたものでありまして、自然はこれらすべてを唯、陰と陽の二つに分けるだけであります、而して陰とは大体においてくらい、不明瞭、もしくは低い、冷たい、などを意味し、陽とはそれと全く反対の明るい、明瞭、もしくは高い、暖かいなどを意味します
例えば遊星は黒い暗い星で低温であるから陰、太陽は輝く明るい温度の高い星であるから陽であります、人が死亡してお葬式の時などは陰気だといい、子供の生まれてお祝いの時は陽気だというように死は陰で生は陽であります
春は温暖で地上の万物は寒い冬の眠りから覚め、花は笑い、鳥は唄う陽の季節ですが、秋は万物枯れる陰の季節です、勿論暗い夜は陰、明るい昼は陽である等々
即ち自然は遊星、死亡、秋季、夜間等を陰・・・太陽、出生、春季、昼間等を陽と同視するのでありましてその他の現象について同様であります
以下に事物の陰陽を列記し、これを解説しましょう但し千様万態の全事物について述べるなどという事は到底不可能でありますから、これを理解する上に最も重要と考えられる問題のみに止め、それによって読者に要領を修得せしめ、他の諸問題に付いては読者が修得した習得した要領で研究し、自ら解決することを望みます
平和(陰) 外(陰)
戦争(陽) 内(陽)
番号、陰 番号、陽
1 天 1 地
2 遊星 2 太陽
3 月 3 地球
4 海 4 陸
5 海水 5 淡水
6 無生物 6 生物
7 植物 7 動物
8 動植物 8 人間
9 男性 9 女性
10 雄蜂 10 女王蜂
11 働き蜂 11 雄蜂
12 雄蕊 12 雌蕊
13 国民 13 指導者
14 濃漁山村14 都市
15 静 15 動
16 横 16 縦
17 小 17 大
18 左 18 右
19 開く 19 閉じる
20 無 20 有
21 平和 21 戦争
1 天(陰) 地(陽)
天が陰で地が陽といいますと読者の中には或いは「天には日月が輝いているではないか?これらの輝く天を陰とは何の事か?」と疑問を起こすものもあるかも知れませんが、日月は天ではありません、仮に天にある日月星辰をひとつ残らず天より除去したと考えてみても天はやはり天です、即ち日月星辰を包む空間を天と称するのであります
例えば空間に地球ひとつだけと考えて見てもこれを包む空間が天であり、地球は地です、更に太陽や月にしても又、水・金・火・木・土等の遊星やその他あらゆる恒星、彗星、流星等に付ても同様、空間、即ち天に抱擁される星々が地なのです、空間は暗く温度も低く具体的な何物も見えず不明瞭ですから陰ー具体的な星々は明瞭で明るく、温度も高いから陽であります。
2 遊星(陰) 太陽(陽)
陰と陽とは絶対的なものではなく相対的なものであってその相手によって陰陽は変わります、何故変わるかと言いますと自然界は陰から陽へと幾階かの階段になっているからでありますが、詳細は先へ行って陰陽の法則八カ條の内の「第4条 自然界の階段性」というところで説明いたしますけれども、とにかく陰陽は変化します、空間に対して陽であった地球も太陽に対しては陰となるのです、太陽対地球では太陽はその名の示すように明るく輝く星で陽性、遊星は自己発光しない黒い星で陰星です、そして太陽に対して陰星となるのは単に地球ばかりでなく太陽系内におけるほかのあらゆる遊星や衛星もまた同様であります。
3 月(陰) 地球(陽)
陰陽は相対的に変化するという事をすぐ前に述べました、太陽に対して陰となる地球も、月に対するときは陽となります、即ち月の表面には空気も水もなく従って生物の生成も四季の変化も無く至って寂寞たる暗い世界です、この倉石のような月の世界に比較すれば地球の表面には空気も水もあり、生物は生成し四季折々の変化ありで誠に賑やかな明るい世界と言わなければなりません。
4 海(陰) 陸地(陽)
海は低く、陸地は高い、低いところは暗く、高いところは明るい、晴れた月夜に見える月面の黒い部分は月の海であり、明るい部分は陸地です、海は陸地と対照して変化は少なく、陸地は変化が多い、春は花が咲き、鳥は唄い、夏は青葉に、秋の紅葉に、冬は雪というように四季折々の変化に富み、特に人類によって陸地は如何に賑やかな世界でしょう。
5 海水(陰) 淡水(陽)
海は変化に乏しく、陸地は変化に富むという事は要するに海水は海との相対関係によって変化に乏しいという事であり、淡水は陸地との相対関係によって変化に富むという事です、即ち海水は地表の最も低い場所(陰)に位置している為に、それ以下低い対象の場所がなく従って海水は流れる場所がないから余り変化を示すことが出来ないのですが、淡水は高い場所(陽)に位置しているから低い場所へ流れることが可能であり、従って変化に富むことになるのです、海水のあまり変化を示さないのに対して、淡水はまず大地を潤して萬の生物を生成し、山々の峯を割り、谷を削って下流へ流し瀑布となり、タービンを回し、電流を起こして人類に文化を与え、川を挟む両岸の崖を削って変化を与え、土砂を海に流しだして海を陸地に、平野に変えるなどの様々な変化を起こします
このように海水対淡水では海水は陰で淡水は陽となります、またこれを変わった角度から観察しても、万象は陰陽の法則によって生起するのですから、海と陸地との相対関係によって生起する流水の現象とて例外は無く、これを「陰より陽を生じ、陽は陰に還元する」という陰陽の法則より観れば「低い暗い海(陰)より余り変化のない海水(陰)が、熱を吸収して水蒸気となり雨となって、高い明るい陸地(陽)へ流れると変化に富む淡水(陽)に生まれ変わり、生まれ変わった淡水(陽)はまた、元の海(陰)に還って海水(陰)に還元する」となります
要するに万象は陰陽の法則によって、暗い場所(陰)に位置する不明瞭な物(陰)が明るい場所(陽)流れ込むと、明らかな物(陽)に生まれ変わった明らかな物(陽)は又、元の暗い場所(陰)に還って不明瞭な物(陰)に還元するのですから・・・つまり陰の場所から陰が、陽の場所へ移動すれば陽に変化し、そして、それが陰の場所へ帰ればそれ自体また陰に還元するのですから、従って陰の場所に位置するものは陰で、陽の場所に位置するものは陽だという事になります、これ故に、海という低い暗い場所(陰)に位置する海水という事になり、陸地という高い明るい場所に(陽)に位置する淡水は陽という事になります
6無生物(陰) 生物(陽)
無生物とは土、水、空気等をいい(地球を無生物と考えてもよい)生物とはあらゆる動植物をいいます、植物は春来れば目を出し、夏至れば花開き、秋至れば実を結び、冬来れば落葉する等の変化に富む・・・また動物に至っては意思及び行動の自由を有し、寒ければ暖を取り、厚ければ涼を入れ、飢えれば食し、渇すれば飲み、また音声を以って自己の意思を相手方に伝えるなど自由であります、さらに人類に至って言外であります、これら動植物、即ち生物と土、水、空気等の余り変化を示さない無生物と対象して両者の陰陽は自ずから明瞭でありましょう
7 植物(陰) 動物(陽)
陰陽は絶対的なものでなく、相手によって変化するという事は前に繰り返し述べましたが、無生物に対して陽の地位にあった植物も動物に対しては陰となるのです、即ち植物は無生物と対象するときはあまり変化を示さないのに対して、四季折々の変化を示すけれども動物のように意思及び行動の自由は無く、風が吹こうと雨が降ろうと植えられた位置から動くことは不可能で飢えればとて他より肥料分を運ぶなどという自由もありません、これに反して動物は意思及び行動の自由を有し、自己の欲するところに遊び、雨が降り風が吹けばこれを避け暖を取り、涼を入れる等自由であることは前に述べましたが、さらに弱者(陰)対強者(陽)の関係もあって植物は動物に食べられるのです
8 動植物(陰) 人間(陽)
ここでもまた陰陽は変化します、人間対動植物では、人間は陽の地位にあり、動植物は陰の地位にある…このことは文化を持った生物中最高の生活をする人間と野生そのままの生活をする動植物との地位の陰陽関係は論ずるまでもないでありましょう
9 男性(陰) 女性(陽)
男性と女性とはその実質肉体を比較すれば、陰陽はおのずから明瞭だと思います、女性は一般に色白く、肉体豊満で又艶麗優美にして柔らかく温かくして感じもまた明るく、女性の代名詞として女性を一般に美人と称する所以も実にここにあります、これに反して男性は一般に色黒く、肉硬く、女性に比較して何となく体温も冷やかに感じられましてまた、何となく暗い冷たい感じがします、このことは男女混浴の温泉で我々は最もよくこれを経験することが出来ます、白い女神の彫像のような若い女性の美しい肉体と筋骨隆々たる男性の黒い肉体を対象して眺めるとき、両性の陰陽関係を考えれば、誰でも判断がつくでありましょう、更にこの絶対的な照明は陰陽の法則8か条の内「第2条 陰陽の地位・・・陰は外・・・陽は内」の法則のよってあらゆる現象が位置しているのであってその逆という事は絶対に無いのです
即ち女性(陽)は家庭組織の内に位置して働き、男性(陰)は外に出て働くという事、同様に太陽(陽)は太陽系組織の中心(注、中心は内の極、即ち中心より内は無いから中心は内の極)に位置し、黒い星、遊星(陰)や衛星(大陰)は外側に位置するという事、その他仕事の分担、変化の有無、動く方向、原因と結果等によって証明することが可能なのですがこれは先へ行ってそれを取り扱う機会に述べましょう
10 雄蜂(陰) 女王蜂(陽)
一つの巣箱は中に一匹の女王蜂を中心としてその周囲を数十匹の雄蜂が取り巻き、数万匹の働きバチは、巣箱の外で数キロも飛び回って勤勉に花蜜を巣箱の中へ運ぶ組織によって構成された一群のミツバチの家庭であります、この三種の蜜蜂のうち、中心に位置する嬢王は、王でありますから勿論陽であります、それ故、もしも女王蜂が、巣箱の内から外へ出ていくようなことがあれば、女王蜂の家来のような雄蜂や数万匹の働き蜂は、女王蜂の行くところへは何処までも追随して、木でも地面でも、人家の軒でも、女王蜂の止まった場所で女王蜂を中心として雄蜂や働き蜂はこの周囲に一囲となって停止し、女王蜂の動くまでは、いつまでもそこに止まっています、こうした事実でもわかるように女王蜂は陽、雄蜂は陰でありますまた前項で述べた、女性(陽)対男性(陰)の関係によっても判ると思います
11 働き蜂(陰) 雄蜂(陽)
自然界は階段をなしていますから、一番下の陰と、一番上の陽との両極は変わらないけれないども、中段に位置するものは上と下の相手によって自己の引用は変わるのです、例えば太陽系の組織においては、太陽は陽極で、それより以上陽の対象は無いから陽の地位は不変であり、また衛星より以下の陰の対象は無いから衛星の陰の地位は不変でありますが、遊星は太陽陽極と衛生陰極との中間に位置していますから、太陽に対するときは陰となり、衛星に対するときは陽となるのです
同様に三種の蜜蜂のうち、女王蜂は陽極でそれ以上陽の対象は無いから陽の地位は不変であり働き蜂はそれ以下陰の対象は無いから陰の地位は不変であるが、中間に位する雄蜂は女王蜂に対する時は陰となり働き蜂に対するときは陽となるのです、これ故に働き蜂対雄蜂では働き蜂は陰、雄蜂は陽となるのですが、これは前に述べましたように働き蜂は巣箱の外数キロも飛び回って花蜜を集めたり、巣箱の中を綺麗に掃除したりして、せっせと働きますが雄蜂は働き蜂の集めた花蜜を舐めて唯、女王蜂と性行為を営むだけでありますから、労働に勤しむ働き蜂に比較すれば、何と恵まれた明るい陽の地位に
ある事でしょう、これに反して働き蜂は雨風があろうと懸命に次から次と花を訪ねて数キロも飛び廻って花蜜を集め、または女王蜂と雄蜂との性行為によって生まれた小蜂の糞を外へ運び出したりして、巣箱の中を掃除するなど、働き蜂は何と恵まれない暗い陰の地位にある事でしょう
蜜蜂の組織と太陽系の組織とを対照して考えれば、蜜蜂の組織の中心に位置する女王蜂に太陽系組織の中心に位置する太陽に相当し、女王蜂のすぐ外側に位置する雄蜂は、太陽系組織の最外側に位置する衛星に相当します、陰陽の法則より観れば太陽系の組織も蜜蜂の組織もまた同様なのです、即ち太陽系の組織は、太陽(陽)遊星(陰)衛星(太陰)の三者によって構成された、星の家庭であり、同様に蜜蜂の組織は女王蜂(陽)雄蜂(陰)働き蜂(太陰)の三者によって構成された蜜蜂の家庭でありそして太陽系なのです
この事は陰陽の法則8か条の内「第2条、陰陽の地位・・・陰は外」及び「第3条、自然界の階段性」の2か条を研究すれば判明するのですが、先へ行って述べましょう
尚太陽系の最外側に位置する星は衛星であると述べたことについて、衛星ではなく冥王星ではないか?・・この他の疑義があると思いますがこの事も先へ行って解説しましょう
12雄蕊(陰) 雌蕊(陽)
梅、桜、桃などの花の一つを取って、その組織を調べますと、中心に一本の雌蕊が位置し、その周囲に多数のおしべが位置することによって構成されています、この両者の陰陽関係は「第9項、男性(陰)、女性(陽)」及び「第10項、雄蜂(陰)女王蜂(陽)」の引用関係によって判断すれば理解されると思います、然し植物同士の陰陽関係は動物同士の陰陽関係ほど明瞭ではありませんが陰陽の法則によって太陽系のように内部程陽であり、外程陰でありまして、その逆という事は絶対にありえませんから、それによって判断すれば大体判ると思います
又外に位置する陰が内部もしくは中心に位置する陽はこの力を受けて動かされる受動でありますから、この主導と受動の関係からも理解されましょう、
又外に位置する陰は内に位置する陽に先ず原料(陰)を供給し、うちに位置する陽はこの原料を受け取って、それを製品(陽)に作り替える事からも両者の陰陽関係を判断することが出来ます,更に又、外に位置する陰は外から内の方向へ動くのに、内に位置する陽は内から外の方向へ動きますからこの事からも両者の陰陽関係を判断することが出来ます、この他にも外に位置する陰はあまり変化を示さないのに内に位置する陽は変化を示しますから、この変化の有無によっても両者の陰陽を知ることが出来ます
以上述べました、五つの事柄は陰陽の法則、八か条の内「第一条、陰陽絶対反対性」及び「第二条、陰陽の地位・主と従、主動と受動、原因と結果」異状三つの法則を研究すれば判明するのですが、陰陽の地位や主導と受動、陰陽の変化、動く方向、変化の有無など全く反対でありますが、これを繰り返しますと
1 陰陽の地位・・・陰は外に、陽は内に位置する
2 主導と受動・・・外に位置する陰は必ず先ず内に位置する陽に働きかける
3 陰陽の変化・・・外に位置する陰は内に位置する陽に先ず原料(陰)を供給し、内に位置する陽はこの原料(陰)を受け取って製品(陽)に作り替える、つまり陰の手から陰の事物が陽の手に渡ると、陽の受け取った陰の事物が陽の事物に変化するという事です
4 動く方向・・・陰は外に位置しているから、従って外から内の方向へ動き、反対に陽は内に位置しているから従って内から外の方向へ動く
5 変化の有無・・・外側に位置する陰は余り変化を示さないのに、内に位置する陽は変化に富む
以上5つの法則から雄蕊(陰)と雌蕊(陽)との陰陽関係を観察しますと
1 陰陽の地位・・・陰は外、陽は内
雄蕊(陰)は外側に位置し雌蕊(陽)は中心に位置する
2 主動と受動・・・陰は主動、陽は受動
外側に位置する雄蕊(陰)は、中心に位置する雌蕊(陽)に必ず花粉を流して働きかける主動であり、先ず中心に位置する雌蕊(陽)はこの花粉を受け取る受動である
3 陰陽の変化・・・外に位置する陰は原料供給業者、内に位置する陽は物品製造業者
外に位置する雄蕊(陰)は中心に位置する雌蕊(陽)に必ず先ず花粉という原料(陰)を供給し、中心に位置する雌蕊(陽)はこの原料を受け取って種子(陽)という製品に作り替える
4 動く方向・・・陰は外より内の方向へ、陽は内より外の方向へ
外に位置する雄蕊(陰)は中心に位置する雌蕊(陽)に必ず先ず働きかける時、外から内の方向へ花粉を流すのに、中心に位置する雌蕊(陽)は子房が膨張して種子が成熟するとこの種子を内から外の方向へ散布する
5 変化の有無・・・陰はあまり変化を示さず、陽は変化に富む
外側に位置する雄蕊(陰)は何の変化も示さないのに、中心に位置する雌蕊(陽)は子房が次第に膨張する変化を示すこと
以上5つの法則は単に植物ばかりではなく動物に悉く適用される大法則ですから、我々人間の生活にもそのまま当てはまるのです、即ち・・・
1 陰陽の地位 陰は外、陽は内
家庭組織は女性(陽)は家庭内に位置して働き、男性(陰)は家庭外に位置して働く
2 主動と受動 陰は主動、陽は受動
家庭外に位置する男性(陰)はすべての行為において家庭内に位置する女性(陽)に必ず先ず働きかける主動であり、女性は必ず男性の働きかける行為を受けて行動する受動である
3 陰陽の変化・・・陰は原料供給業者、陽は物品製造業者
家庭外に位置する男性(陰)は、家庭内に位置する女性(陽)に必ず先ず働きかけて穀物、野菜、肉、調味料、布等の原料(陰)を家庭外より家庭内に持ち込んで女性(陽)に渡し、女性(陽)はこの原料(陰)を受け取って料理又は衣類という製品(陽)に作り替える、この場合男性は直接穀物、野菜、肉、調味料、布等の原料を女性に渡さないでこれらの原料の代わりに通貨を女性に渡し、女性はこの金でこれらの原料を購入して家庭内へ持ち込むにしても、男性が家庭外で働いて得た金を渡すことによって女性はこれら原料の購入が可能になるのであり、金はこれら原料の代用ですから従って、男性が家庭外から家庭内にこれらを持ち込むと同様であります
また性の営みについても同様に、男性(陰)は必ず先ず女性(陽)に原料(陰)を供給し、女性(陽)はこの原料(陰)を受け取って赤ん坊という製品に作り替える
4 動く方向・・・陰は外から内の方向へ動き、陽は内から外の方向へ動く
家庭外に働く男性(陰)は家庭外から穀物、蔬菜、肉、調味料等の原料(陰)を家庭内に持ち込む、という事は要するに男性(陰)は家庭外から家庭内の方向、即ち外から内へ動くという事であり、又男性(陰)に持ち込まれるこれら原料(陰)自体も男性(陰)を通じて家庭外から家庭内へと動くのであります、そして男性(陰)の持ち込んだこれらの原料(陰)を女性(陽)によって料理(陽)に作り替えられ、この料理を両性が食べることによって男女陰陽の性の営みが可能になり、この営みを通じて、穀物、蔬菜、魚、鳥、牛馬豚などの動植物(陰)が、女性(陽)の肉体を通じて、赤ん坊という人間(陽)に作り替えられ、そしてこの赤ん坊は成長して20数年後には嫁として、もしくは婿として家庭外へと出ていくのです
要するに女性(陽)によって生み出された子供が軈て嫁として、もしくは婿として家庭内から家庭外へ出ていくのですから、女性(陽)は内から外の方向へ動くのであり、また女性(陽)によって生み出された人間(陽)自体も嫁として、もしくは婿として家庭内から家庭外へ、つまり内から外の方向へ動くのだという事になるのです
5 変化の有無・・・陰はあまり変化を示さないのに、陽は変化に富む
男性(陰)の肉体は余り変化を示さないのに、女性(陽)の肉体は胸部が隆起したり、腹部が膨張したり収縮したり赤ん坊を生み出したり、母乳が出たり生理があったりして変化に富む
以上の説明にて雄蕊は陰、雌蕊は陽であるという事が理解された事と思います
13 国民(陰) 指導者(陽)
低い所は暗いから陰、高い所は明るいから陽であるという事は「海対陸地」の項に於いて述べましたが、これは単に物証について観られるばかりでなく、事象もまた同様でありまして、我々人間の地位も又高い程明るく、低い程暗いのです、例えば現在世界政界のアイゼンハウアー米大統領、ダレス米国務長官,ブルガーニンソ連首相、フルシチョフソ連第1書記、マクミラン英首相、周恩来中国首相、ネールインド首相、ナセルエジプト大統領等々、また国内では岸総理大臣始め各大臣及び政府関係高官等の高い地位にある指導者(陽)は高い地位は明るいこれらの人々は毎日のように、新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、映画等の報道、娯楽機関によって我々の耳に聴こえ、眼に映って参ります、これに反して世界どの国でも、一般国民(陰)、特に貧困者など最も低い地位にいるものほど無視されて、何処の国の都市、農漁山村に何という貧困者が居るかというような事は一切不明です、また一度高い地位にあって、毎日のように我々の前に現れた人でも、その地位を退いて低い地位に下ると、低い地位は暗いからもう我々の前に現れてこないのです
例えばトルーマン前米大統領や元英首相チャーチル氏など国内では前総理大臣石橋氏や元総理大臣鳩山氏や吉田氏などいずれも指導者として在任中は高い地位にあった為、高い地位は明るいから、毎日のように、新聞やラジオ等の報道機関によってその動静が我々の前に明らかにされたけれども、辞任して元の国民(陰)に還ってからは国民の地位は低く暗いから、これらの人々は現在では何処で何をしているか一切不明です、ここで注意しなければならないことは地位の高低は決して山や谷のような高低を言うのではなく、自然は内(うち)、外(そと)を高低と規定するのです
即ち地位は内程高く、外程低いのです、中心は内の極ですから最も高い事になります、従って最も高い中心に位置する大統領、総理大臣、国王党の指導者は最も明るく次にそれら指導者を取り巻く側近者、政府高官、知事、市町村長というように中心より外の方向へ次第に暗くなってまいります、そして最外側に位置する一般国民はもっとも暗いことになります
以上で国民対指導者、即ち国家組織もまた、太陽系の組織と全く同様に陽が中心に位置し、その外側に陰が位置することによって構成されていることによく注意しなければなりません、即ち陰陽の法則8か条の内「第二条・・・陰陽の地位・・・陰は外、陽は内」の法則によって国家組織、又、太陽系などのです、それならば何故に自然は陰が外に、陽は内に位置しなければならないのであろうか?何故にそう位置するのであろうか?という本質的な問題については先へ行ってそれを取り扱う機会に述べましょう
【昭和32年8月四日記】
14 農漁山村(陰) 都市(陽)
巨大な煙突の林立する工場街、天を摩すテレビの塔、豪壮なビルの立ち並ぶ繁華街、右往左往する人、人、人の洪水、車の波、きしむ電車の響音、自動車の警笛、客を呼ぶ映画館の音楽、キャバレーの電飾、夜も真昼を欺くライトの輝き、淡い夢のような色とりどりのネオンの光・・・こうした動的な明るい陽気な都市に比較する時、農漁山村のなんと静寂な暗い陰気な事であろう・・・辺地では現在なお都市の人たちの創造の及ばない電灯の無い、暗いランプ生活の部落もあります、部落村もあって病気に罹った時2,30キロも行かないと医師の診察を受けられない多数の人達が居るのです、交通機関の発達完備した都市なら何でもないのですが、丘陵の起伏する悪路を徒歩又は荷馬車に揺られるのですから急病人など到底危急が間に合わないのです、このような農漁山村対都市の陰陽は自ずからから明瞭でありましょう、しかしここで我々が特に注意しなければならない重要な事は、ここでもまた太陽系や国家、家庭組織のように、明るい都市(陽)が中心に位置し、暗い農業山村(陰)はこの周囲の外側に位置しているという事と、外側の暗い場所に位置する農業山村が原因で、内側の明るい場所に位置する都市は結果によって生じたものであるという事に付いてです
原因と結果・・・陰が原因で陽は結果・・・これは陰陽の法則8か条の内「第4条、自然現象の相対性・・・主と従、主動と受動、原因と結果」の法則によって明らかに規定されているのですが、農業山村(陰)という原因のない以前に、都市(陽)という結果は絶対にあり得ないのです、何故なら原因である農業山村(陰)から穀物、蔬菜、魚、肉、綿、石炭、この他に金属、鉱石、木材などの原材料を結果である都市(陽)に流し、都市(陽)はこれらを受け取ってこれを製品にして、自らも使用し、また農業山村(陰)へ還元するのが役目だからで、従って原材料を供給する原因の農業山村(陰)が無ければ物品製造業者である結果の都市(陽)はありえないからです、つまりまず農業山村が生じて原材料を生産したのが原因でこの原材料を加工して製品化する必要性から結果的に生じたのが都市だというのです、それ故に結果によって生じた都市(陽)がなくなっても原因である農業山村(陰)は決してなくなりません、何故なら農業山村(陰)は文化生活を度外視すれば自給自足が可能だからです
なおこうした原因と結果の関係は何も農業山村(陰)と都市(陽)との関係について見られるばかりでなく、陰陽の法則は事物万象悉くに適用される大法則ですから、勿論今まで述べた本設各項総てに付いて同様であります、すぐ前の項に述べました国家組織において、国民(陰)と指導者(陽)との関係に付いても同様に、国家組織の外側に位置する国民(陰)が原因であり、中心に位置する指導者(陰)は結果で国民あっての指導者ですから、原因である国民(陰)を無くすれば結果によって生じた指導者(陽)も無くなって終います何故なら国民の無い指導者はあり得ないからです、しかし、結果によって生じた指導者をなくしても、原因である国民は決して無くなる事はありません、又地表の組織も「陰は外、陽は内」の法則によって太陽系と同様に、陸地(陽)は内側に位置し、海(陰)は陸地(陽)を取り巻いて、その外側に位置することによって構成されてるのですが、地表に海陸の出現するその始めは、元、地球の表面は灼熱した岩石や金属の溶液の海に覆われていたのですが、まず地殻の表面から次第に冷却して固体化して収縮する表面は一層冷却して収縮して重くなりますから、内部の高温で膨張して軽い方へ沈んで行って海となり、その高圧力で内部の軽い部分を押し上げて陸地としたものでありますから、海(陰)の生じたのが原因で陸地(陽)はこの結果によって生じたものでありますが、その時沈んでいった重い海の部分の岩石は、内部の高温度の場所へ沈むことによって、今度は熱せられて膨張して軽くなりますと、他方陸地の部分は反対に冷却されて収縮し重くなりますから、今度は重い陸地の部分が沈んで海となり、その高圧力で海の低圧の部分を押し上げて陸地にするというような事を幾度か繰り返して現在のような安定した海陸の形となったものであるという事を、筆者は陰陽の法則を研究することによって断言することが出来るのですが、兎に角、何れにしても海(陰)の生じたのが原因で陸地(陽)はその結果によって生じたものである事は間違いありません
このことは海という低い部分から引いて加えなければ高い陸地は絶対にありえないからです、又、海陸陰陽相対関係によって起こる流水の現象にしましても、海が原因であり、海(陰)から海水(陰)が水蒸気となり降雨となって、陸地となって、陸地(陽)に運ばれて淡水(陽)となり次にこの淡水(陽)は高い陸地(陽)から流れて元の低い海(陰)へ還る循環を絶えず繰り返すから、陸地には絶えず流水の現象がみられるのですが、もしも海(陰)から海水(陰)が、水蒸気、降雨などの過程を得て陸地(陽)へ運ばれて淡水(陽)に余れ変わる原因が立たれたならば、結果によって生じた陸地にある淡水が全部海に流れ尽くしてしまった後には陸地には一滴の水も無くなり、陸地には最早流水の現象は見られないばかりでなく、生物もまた、動植物は勿論のこと、我々人間も全く絶滅して、陸地には一本の草も無くなって終うでしょう、然し海(陰)及び海水(陰)は原因ですから結果によって生じた陸地(陽)及び淡水(陽)が無くなっても決して無くなることはありません
以上今あげた例の内、農漁山村(陰)対都市(陽)・・・国民(陰)対指導者(陽)の2つは我々の意思によって作る事象であり、海(陰)対陸地(陽)の関係は物理的に自然に起こる物象ですが今観察したように、事象も物象も陰陽の法則によって各々の地位や原因と結果、主動と受動、動く方向などの関係は全く同様であるという事に我々は深く注意しなければなりません
15 静(陰) 動(陽)
静止して動かない土地、家屋、家具などの無生物対動く生物では、無生物は陰、生物は陽であるという事は前に述べましたからこの事からも静は陰、動は陽という事がわかりますが、もし自然界の万物が悉く静止して動かなかったならば、光も無く、音響を発することも無く、熱も怒らないで自然界は唯、暗黒寒冷な死の世界と化し、万物はあってもその意義を失って無に等しくなるでしょう、また動くの能力を持った生物でも機械でも静止すれば仕事も出来ず変化も起こらないで唯、夜のようにひっそりします、それ故又生物は居ても動かないのですから無生物に等しく、機械は有っても無いと同じになって終います
これに反して動く事になると自然界は有意義となり、発電機やモーターは呻り、光を発し、熱を起こし、雨が降り、水は流れ、波動が起こり、生物の生成活動等自然界は真に賑やかな明るい世界となります
16 横(陰) 縦(陽)
横は静的で縦は動的です、横は地面の相を表し、縦は地上に生成活動する生物の相を表しています、一切の生物は死ぬと地面に向かって横たわり、生まれると天に向かって伸びます・・・天に向かって伸びるという事は縦になるという事です、住家、倉庫、病院、学校、工場、事務所等一切の建物は縦に立っている時にこそ生物同様建物としての本領を発揮して人間をしてこれが活用を可能にしますが、倒れて地上に横たわると生物の死と同様建物としての本領を失い、我々人間の活用を不能にし、従って人間の出入りも無くなり、この付近は寂しくなって終います、このようなことから横は陰、縦は陽という事が判るでしょう
一切の動物が横に行動するのに、なぜに人間だけが縦(直立)に行動するのであろうか?という疑問に対する答えは『人間だけが縦に行動するのは動物中、最も明るい陽の地位にあることの象徴である』と、つまり横に行動する一切の動物は陰であり、縦に行動する人間だけは陽だというのです
そして動物以外の無生物や植物に対する人間の地位の陰陽は論ずる迄もありません、それ故人間は万物中最も明るい陽の地位にある筈であります、「人間は万物の霊長」の諺の意味もここにあるのでしょう
17 小(陰) 大(陽)
大きいものはよく見えて明らかであるから陽であり、小さいものは不明瞭であるから陰であります、同一受光面では照度が大きいほど明るく、小さい程暗い、太陽の光は燭光が大きいから明るいが、蝋燭の火は小さいから暗い、大砲の音は大きいから遠く広く伝播するが、小銃の音は小さいから近く狭い地域だけしか伝播しない
ナイアガラの大瀑布は大きいから大電力を起こして、照明、通信、交通、産業などに利用し広い地域を明るくすることが出来るが、小川の流れは小さいから自家発電によって、一戸もしくは数戸の照灯しか可能でない等々、然し、ここで我々が特に注意しなければならない重要なことは、小さいものほど見にくいから勿論不明瞭ではあるがまた余り大き過ぎても不明瞭になるという付いてです
例えば水の一滴は未だ吾々には見えるけれでも水を噴霧器に入れて空中へ噴霧するとき、この霧は不明瞭で一粒毎の識別は困難である、更に湯沸かし器の口から蒸発していく水蒸気が空中へ融け込むと最早全く我々の目に見ることは不可能になる、これは水が熱の為に個々の分子に分解される為であります、一個の水の分子の直径は1センチメートルの1憶分の1くらいといわれるからこれは到底我々の肉眼は勿論の事、現在の顕微鏡の最高峰、電子顕微鏡さえ直接見る事は出来ません
然しまた反対に大きい方の宇宙空間も大きすぎて不明瞭になります、この方は直接には我々肉眼の視界に入ってくる位が限度であって山の向こう側、隣村、さらに飛躍して海の彼方の国々、地球の大きさ、太陽系、といったように大きくなるにしたがって不明瞭になります・・・が、太陽系までの宇宙の大きさはまず想像によって知ることが出来ましょう、然し太陽系を離れて恒星宇宙へ入るともう全く不明瞭になります
晴れた夏の夜に天空を仰ぐと天球の裏側には無数の星々が輝いて見えます、吾々の足場とするこの地球から彼方に光る星々までの距離は一体どのくらいあるのでしょう
吾々の地球に最も近い恒星、ケンタウルス座α性の微光伴星プロクシマまでの距離は427光年と言われます、1光年の距離は1秒間に30万キロ走る光が1か年かかって到達する距離であるという事は前に述べましたが、30万キロと言えば地球の赤道4万キロを7回半廻る距離ですが、この速く走る光が1秒間の休みも無く、4ヶ年と3ヶ月以上走り続けてしばらく到達する距離にある星が我々の地球に最も近い恒星だというのです、427光年の距離はメートルに換算して約40兆キロメートルあります、とはいっても我々の心には何の具体的な観念も、何の感動も起こらない遠い不明瞭な距離です、これもこの40兆キロメートルの距離にある恒星であるという事を考えなければなりません、アンドロメダ座大星雲M31は68万光年の距離の彼方にあるというのです、従って現在この星雲から地球に届きつつある光は68万年前に同星雲を発した光です
天文学者は宇宙空間の広がりはその半径が、12億光年とか20億光年とか述べていますが、これには未だあまり明確な根拠は無いようですがもし何れかが真実ならば、我々が宇宙空間を一方の端から他方の端へ横切るのに光の速度で旅行しても24億光年乃至40億光年かかる筈であります、然しこの場合でも我々には疑問が起こる、果たして宇宙空間の半径が12億光年ないし20億光年と宇宙空間の容積が限定されるならば、限定された宇宙空間の壁は何であろうか?という事であります
陰陽の法則はこの疑問に対して極めて明確な答えを与えてくれます、この事は第1章第3節に於いて結論的に述べておきましたけれでも現在世界に於いて誰がこれに答え得る者があるのでしょうか?とにかくこのように小さいもの程暗く不明瞭でありますが逆に大き過ぎても暗く不明瞭になるのです、何故に?・・・これは陰陽の法則8か条の内「第8条陰陽両極は一致する」の法則によって小さな陰極と大きな陽極との両極が一致するからであります、然し読者は陰陽両極が一致するのが法則ならば、小の極と大の極が一致して必ずしも暗く不明瞭(陰)にならないで明るく明瞭(陽)になってもよいではないか?と疑問が起こるはずですが、それは前にも述べたように陰が原因で陽は結果だからでありまして陰陽の法則は「原因の陰から結果によって陽が生じ、結果によって生じた陽の行きつく果ては又、原因の陰に還元する」のですから、従って始めと終わりの両極が陰となる筈であります
例えば前にも述べましたが生死の現象ではまず原因の土という陰極(注、地球上に於いては土より以下の暗い陰の対象は無いから土は陰極)から結果によって生物という陽が生じ、次第に成長して青年期から今度は下り坂となり、明るい現世の行きつく果て…生命の極・・・つまり陽の極から土という原因の陰極へ還元するのです
から暗い土という陰極と、明るい生命の行きつく果て陽極との両極が一致して暗くなるというように、万象悉く陰陽の法則の適用を受けますから大小両極が一致して暗く、不明瞭(陰)になるという事も決して例外ではないのです詳細は先へ行って、それを取り扱う機会に述べましょう
18 左(陰) 右(陽)
左が陰で右が陽だという事は、左利きの者でない限り自らの感覚によって判る筈です、吾々が手で総ての動作をする時、例えば字を書くときペンを持つ右手、ピンポン玉を弾く右手、本のページをめくる右手、野球のボールを投げる右手、テニスのラケットを握る右手、やり投げや円盤投げの右手、碁石を打つ右手や将棋の駒を動かす右手、麻雀牌を動かす右手、パチンコ玉を弾く右手、料理の包丁を握る手、医師のメスを持つ右手、注射筒を持つ右手、裁縫に針を握る右手といったように・・・
その他、全ての手による作業行動など多くの場合右手が主体で、左手は補助的役割を果たすに過ぎません、と言っても我々にはこの左手の補助的役割は大切なものでなかなか馬鹿には出来ないのです、という事はつまり家の土台、基礎に相当し、縁の下の力持ち的役割をするのであり、宴会場における料理人や給仕に相当する役割をするもので目立たない存在ではありますが、吾々には大切なのです、右手で作業するときでも左手の補助がなかったならば、作業能率は半減するばかりでなく、作業の種類によっては不能の場合もあるでしょう
しかし、とにかく我々は右手を主体に動作します、という事は右手は陽で我々の意のままに自由に動かすことが出来るからであり、左は陰で我々の意のままに自由の動かせないからです、そしてこれは単に手ばかりでなく、足もまた、左より右の方が自由が利きます、又、左が陰で右が陽であるという事はすべての自然現象の「原因と結果」の法則からも証明されるのですが、このことは先へ行って陰陽の法則8か条の内「第4条、自然現象の相対性ー主と従ー主動と受動ー原因と結果」の法則を研究する事によって判明しましょう、この法則に因りますと陰が原因で陽は結果によって生ずるのですから、左が陰で原因であり、右は陽で結果ですから、このことからも解りますように右手とこれも始めから自由が利くなどという事はありえません、必ず先ず不自由(陰)が原因で自由(陽)は結果によって生じます、このことは我々の人生の初め1、2歳ころの幼児時代を考えれば首肯されるでありましょう、つまり不自由なのが原因ですから、自由の利かない左が原因で陰という事になり、自由は結果によって生ずるのですから、自由の利く右は結果出ようという事になるのです
更に遠い過去の非文化時代に於ける我々人類の不自由な生活を想像しなければなりません、我々は過去より現在に至る長い期間に亘って、不自由な生活を自由にするために努力し続けた結果、不自由のない今日の文化を築き上げたのです、然しここで考えなければならないことは、自然は決して一つ所に停止するという事は無く、陰陽の法則によって「陰から陽へ」即ち暗い方から明るい方へ、不自由な暗い時代から自由の明るい時代へと到達すると、その次には今度は「陽は陰に還元する」法則によって、自由の明るい陽の時代は、今度は又、不自由の暗い陰の時代に還元しなければならないことは悲しいことです、不明瞭な土(陰)から生じた我々人間(陽)は、この明るい陽気な人生に長く停止することは絶対不可能で又、元の暗い土(陰)に還元しなければならないことは悲しいことです
この詳細は先で学ぶとしましても、ともかく不自由が原因で自由は結果ですから不自由な左は原因で陰、自由な右は結果出ようという事になります
19 開くは(陰) 閉じるは(陽)
読者は「開けば明るいし閉じれば位から開くのは陽で、閉じるのは陰ではないか」と考えられるかもしれません、例えば昼間戸を開ければ太陽の光が入って室内は明るくなりますし、閉じれば暗くなるというように・・然し外を照らす太陽は別問題でありまして、太陽の無い暗夜、戸を開いたとて決して室内は明るくなりません、開くものが陰で、閉じるものが陽であるという事は自然の本質なのでありまして、元来暗黒な空間(陰)は開いているのです、空間が開いていればこそ、明らかな物質(陽)は位置する場所があって存在するのです、もし空間が閉じていたならば物質は、位置する場所がないから存在しないでしょう、物質(陽)は空間(陰)の一部を占めて閉じています、それ故ある物質の位置する空間へ他の物質が位置を占めようとしてもそれは不可能です、要するに無限に開く空間に総ての物質は抱擁されている訳であります
前にも述べましたが、陰陽地位の法則によって陰は必ず外側に位置し、陽は必ず内に位置するという事は、陽は陰に抱擁されているからでありまして、従って陰に抱擁される陽は当然の結果として内に位置することになり、陽を抱擁する陰は当然の結果として陽の外側に位置することになるのです
そして又、陽は内に陽に位置するが故に従って閉じている事になるのであり、陰は外側に位置するが故に開いていることになるのです、いま述べたように元来空間(陰)は総ての物質(陽)に対して開いているのであり、それ故にそれに抱擁される総ての物質(陽)は空間中に閉じ込められているという事になるのです、家庭組織では女性(陽)は家庭内に位置するが故に家庭内に閉じているのであり、男性(陰)は家庭外に位置するが故に外に開放されているのです
この男女陰陽開閉の法則は先天的に両性の行動にも表現されて居りまして、性行為においても女性(陽)の閉じているのを男性(陰)は開くのであり、歩行においても女性(陽)は両足が男性に比べ内側に閉じており、男性(陰)は両足が開いている、両者に立ってもらい足跡をつけてみるとこの違いは判ると思います、これも両性の歩行も又、男女陰陽両性の象徴なのです
陰陽の法則8か条の内「第3条自然現象の相対性・主と従、動と受動、原因と結果の法則によって」すべての現象は外と内、陰陽相対的に生起するのですが、外に位置する陰が内に位置する陽に必ず先ず働きかけることが主動であり原因でもあり、内に位置する陽は外側に位置する陰に働きかけられて動く受動で結果でもあるという事は前に述べましたが、この法則からも解るように、男女陰陽両性の相対関係によって生起するのですけれども、家庭外に位置する男性(陰)が家庭内に閉じている女性(陽)に必ず先ず開いて働きかける主導で原因でもあり、家庭内に閉じている女性(陽)は男性(陰)に開かれて之を受けて行動する受動で結果でもあります
以上、要するに陰は元来陽に対して開いているものであり、陽は陰に抱擁されるものであるから当然の結果として陰は外に、陽は内に位置する事となり従って又、内に位置する陽は陰の中に閉じることになるのです、例えば海水(陰)は元来(陽)に対して開いているものであり、水中の魚(陽)は水中に包容されているが故に当然の結果として水(陰)は外に魚(陽)は内に位置することとなり従って又、魚(陽)は水(陰)中に閉じる事となるのです、繰り返しますが空間(陰)は元来物質(陽)に対して開いているものであり、空間(陰)中の星々(陽)はこの空間(陰)に包容されているが故に当然の結果として空間(陰)は外に位置し星々(陽)は内に位置する事となり、従って又、星々(陽)は空間(陰)の中に閉じる事となるのです
さて自然は陰陽の法則8か条の内「第4条自然界の階段性」という法則によって自然は階段をなしていますから、一番上に陽極は不変であり一番下の陰極はそれ以下の陰の対象は無いから陰の位置は不変であるが、この上下の極の中間階段に位置するものは上下の相手によって自己の地位の陰陽は変わるのだという事は前にも述べましたが、ここで此の階段、一番下の階段であり即ち一番外側に位置する空間陰極から次第に上の階段、即ち次第に内側の階段、陽極の方向へ地球、植物、動物、人間と見て行きましょう
さて1番外側に位置する空間陰極から次の階段を内へ一歩星々の内の地球へ移って、大地(陰)は元来植物に対するときは開いているものでありますが、念のために一言補足をしておきますと大地は植物だけでなく、 総ての生物に対して開いているのですが、階段の順序としてここでは植物とします、この開いている大地(陰)に包容される総ての植物(陽)は当然の結果として大地(陰)の内に位置し、大地(陰)は植物(陽の)外側に位置することとなり従って、また植物(陽)は大地(陰)の内に閉じる事になるのです、即ち大地は植物に対して開いているのです
次にさらに自然の階段を外(陰)より内(陽)の方向へ一階段上って植物(陰)対動物(陽)では元来地上の植物(陰)は大地に対しては閉じているけれども動物(陽)に対するときは開いているものであり、この開いている植物(陰)の中に包容される総ての動物(陽)は当然の結果として植物(陰)の内に位置し、植物(陰)は動物(陽)の外側に位置することになり、従って又動物(陽)は植物(陰)の位置に閉じる事になるのです
次にさらに自然の階段を外側の低い、暗い、陰の方向より、次第に内側の高い、明るい、陽の方向へ一階段上って、動植物(陰)対人間(陽)では、元来動植物(陰)は大地に対しては閉じているけれども、人間(陽)に対しては開いているのです、この開いている動植物の中に包容される人間(陽)は当然の結果と知って動植物(陰)の内に位置することとなり、動植物(陰)は人間(陽)の外側に位置することとなり、従ってまた人間(陽)は動植物(陰)の内に閉じる事となるのです、即ち人間(陽)は動植物(陰)の中に家庭を築いて閉じ、動植物(陰)は自己の懐を開いて人間(陽)の家庭を抱擁し、人間を保護し、人間の犠牲となっているのです
然し動植物(陰)が人間(陽)を保護し、人間(陽)の犠牲となっているという事は、単に動植物(陰)対人間(陽)の関係に付いて見られるばかりで無く、すべての現象に於いて、陰は陽に対して、陽を保護し、陽の犠牲になっているという意味を含みます、例えば前に述べた大地(陰)対生物(陽)の関係にしましても、大地はすべての生物を抱擁して保護し自らは足場となって犠牲となっているのです、海(陰)対陸地(陽)の関係にしましても、海は自ら深い、低い、暗い場所へ落ち込んで、陸地を高い明るい場所へ押し上げてこれを支えて保護し、陸地の犠牲となっているのです
国民(陰)対指導者(陽)の関係にしましても、国民(陰)は自らは低い暗い地位に位置して、指導者(陽)を高い明るい地位に押し上げてこれを支えこれを保護し、これの犠牲になっているのです、母親(陰)対子供(陽)の関係にしましても、母親は自らの懐を開いて子供を抱擁し、之を保護し、犠牲となっているのです
さてここで我々は今まで述べた開閉の問題につきこの内容をもう一度、よく吟味して見なければなりません、それはすべての事物は外側に位置する陰に対しては閉じるけれども内側に位置する陽に対しては開くという事に付いてです
今まで述べて来たように自然界の一番外側に位置する空間(陰極)対物質(陽)の関係に付いては空間(陰極)はあらゆる物質(陽)に対して、自己の無限の懐を開いて悉くこれを抱擁して保護し、物質(陽)はこの空間の無限の懐に包容され、保護されて閉じているのですが、今度は内側へ一階段進んで地球(陰)対生物(陽)の関係になると、地球は空間には包容されて閉じていたけれども生物に対しては自己の懐・・・陸地や海を開いてすべての生物をここに包容してこれを保護し、生物は地球の懐・・・大地や海水内に包容されて閉じるのです、しかるにさらに内側へ一階段進んで植物(陰)対動物(陽)の関係になると植物は大地に対しては大地に包容されて閉じていたけれども、動物に対しては自己の懐を開いてこれを抱擁し、犠牲となるのです
さらに内側へ一歩進んで動物(陰)対人間(陽)の関係になると動物は植物に対しては閉じていたけれども、人間に対しては、自己の懐を開いてこれを抱擁し、保護するのです、人間は万物の中心で、陽極であるから、それ以上陽の対象は無く、中心より内の陽の地位もないから人間は万物に包容されて閉じるばかりで自己を開いて他を抱擁するという事はありません
さてこの自然の階段を逆に中心陽極から最外側の陰極の方向へ人間、動物、植物、地球、空間と観て行きますと、中心陽極に位置する人間は、動物、植物、地球(大地)、空間の四者に抱擁されて、その中に閉じ保護を受けています、然し人間は陽極ですから自己を開いて他を抱擁し、保護する相手が無いのです、動物は植物、地球、空間の三者に抱擁され、その中に閉じ保護を受けますがまた自己を開いて人間を抱擁し、保護を加え、植物は地球、空間の二者に抱擁されてその中に閉じ保護を受けますがまた、自己を開いて動物及び人間の二者を抱擁し保護する、地球は空間に抱擁されてその中に閉じ、空間によって保護を受けますがまた、自己を開いて地球上の総ての生物を抱擁し保護を加える、空間は自己を開いてすべての物質、すべての生物を抱擁して保護を加えるが、自己はもはや何物にも抱擁されずまた、保護も受けない
さてそれならば何故にそのようになるのであろうか?・・・と言えば、前に何度も述べたように、自然は最外側に位置する空間陰極から最内部中心に位置する人間陽極まで階段をなしているからでありまして、そして最外側に位置する空間は陰極で、それ以下の対象は無いから万物に対して地位は不変であり、内部の極、中心に位置する人間は陽極でそれ以上陽の対象は無いから陽の地位は不変であるが、自然の最外に位置する人間陽極との中間階段に位置する地球、植物、動物の三者は相対的に自己の外側の階段に位置する陰に対しては陽となり、内側の階段に位置する陽に対しては陰を自己の地位の陰陽が相対的に変化するからでありまして、自己の地位の陰陽が変われば陰と陽はその地位によって相対的に仕事の分担が相違するからであります、即ち陰は陽を抱擁して保護するのが役目でありますから、空間陰極は自己より以下陰の対象は無く、自己の陰の地位は不変ですから総ての物質、総ての生物を抱擁し保護するばかりで、自己は他のすべての者から包容されたり、保護されることはありません
地球は自己より外側の階段に位置する空間陰極に対しては陽の地位にありますから、空間(陰極)には抱擁され保護されるのです、しかるに地球は自己の内側の階段に位置する総ての生物(陽)に対しては自己の地位が相対的に外側になって陰に変化しますから、陰が陽に対する役目として、地球(陰)は自己を開いて、総ての生物(陽)を抱擁し保護する事になるのです、生物(陽)は地球(陰)を抱擁するなどという事も保護するなどという事も絶対に出来ません、否、出来ないというよりも出来ないように自然が構成されているのです
植物は自己より外側の階段に位置する地球と空間に対しては内側の階段、陽の地位に在るから空間と地球(陰)に抱擁され、保護を受けますが、自己より内側の階段に位置する動物や人間に対すると自己の地位が外側になって陰に変化しますから従って陰が陽に対する役目として植物(陰)は自己を開いて動物や人間(陽)を自己の懐に包容し、之を保護し、之の犠牲となるのです
動物は自己より外側の階段、陰に位置する植物、地球、空間の三者に対する時は内側の階段、陽の地位に在るから、これら三者(陰)に包容され保護を受けますが、自己より内側の階段に位置する人間(陽極)に対すると自己の地位は外側の階段、陰に変化しますから従って、陰が陽に対する役目として、動物(陰)は人間(陽)を抱擁し、保護し、犠牲になるのです、人間は内側へ階段を昇り切って、それ以上対象になる陽の階段は無く、陽の地位は不変であるから、 自己の外側の階段に位置する動物、植物、地球、空間のすべてに包容され、保護されるばかりで自己は他を抱擁したり、保護したりすることはありません
然し自然は階段にはまた階段があり、その階段にまた階段があり等複雑でありまして、今述べた、空間、地球、植物、動物、人間などの各階段のうち、空間だけは絶対陰極で絶対的外側に位置しますから従って空間自体には、それ以下の外側は無く空間自体絶対陰極で陰陽の変化はありませんが地球、植物、動物、人間の各階段それ自体また外(陰)と内(陽)の階段があるのです、即ち地球という階段…それはつまり星という階段ですが、星には衛星という陰極から太陽陽極とこの陰陽両極の中間に位置する遊星との三つの階段があり、また太陽は陽極だといっても、それは我々の太陽系内の事であって宇宙全体を見れば太陽より、遥かに質量も体積も温度も燭光も大きい陽性もあれば、反対に太陽よりもずっと上記の四つが小さい陽性(注、この場合、この星は太陽とは相対的に陰性となる)もあるというように多数の階段があるのです、植物と言っても苔のような陰極から大樹陽極までの階段があり、動物と言ってもアメーバのような陰極からライオン、象といったような陽極までの階段があり、人間と言っても国家組織では乞食のような国民陰極から大統領、国王などの指導者陽極までまた、家庭組織では父という陰極から中間に位置する母とそして赤ん坊という陽極までの階段があるというように人間という階段それ自体にまたいろいろの階段があるのです
それ故、空間、地球、植物、動物、人間という階段を見れば、もはや人間以上、陽の階段は無いけれども、今述べたように人間という階段それ自体にまた階段があって、何れも陽の階段は内側に印の階段は外側に、そして開閉、包容、保護者等の動きは直ぐ前より述べて来たことと同様なのです、例えば今述べた家庭組織の階段では、家庭外に位置する父親と家庭内に位置する母親と、更に母親の懐の内側に位置する赤ん坊と家庭外から家庭内の方向へ三つの階段があり、家庭外に位置する父親は陰極ですから、父親対母子では家庭内に位置する母親も子供も共に陽となりますから従って陰が陽に対する役目にとして父親(陰)は母子(陽)両者に対し、自己の懐・・・家庭を開いてこれに封じ、これを抱擁し、これを保護するのです、そして父親自体は陰極で、家庭の外以外の外は無く、それ以上陰の対象は無く、従って陰の地位は変わらないから、何者からも抱擁されたり、封じられたり、保護されたりする事はないのです
次の内側の階段に位置する母親は、父親(陰極)と赤ん坊(陽極)との中間階段に位置している為、父親(陰極)に対する時は、陽の地位に位置している事になるから、父親(陰)によって家庭内に閉じられ保護されることになるのですが、今度は自己より内側の階段に位置する赤ん坊(陽極)対するときは自己の地位が外側になって、陰に変化しますから、従って陰が陽に対する役目として母親(陰)は赤ん坊(陽)に対し、自己の懐を開いてこれを抱擁して懐に閉じ、これを保護することになるのです
そして家庭組織の中心に位置する赤ん坊は、中心より内側の対象は無く、自己の陽の地位は変わらないから、従って赤ん坊(陽)は自己より外側に位置する父母(陰)に抱擁され保護されるばかりで、赤ん坊は自己の懐を開いて他の何者をも抱擁したり、保護したりはしないのです
以上の説明にて理解されたと思いますが、陰は自己を開いて陽を抱擁し、陽は陰の内に閉じるのです、さてここで陰陽の極という事に付いて少し説明をしておきましょう
実は自然には極というのは一つだけなのです、唯一つの極・・・それは絶対陰極空間です、極に絶対などと変ですが今まで述べたように、自然は実に多数の階段を成していまして、各階段ごとに外と内の陰陽両端がありますからこの両端を説明の便宜上、極と名付けるのでありまして、この極は悉く絶対的なものではなく、相手によって変わる相対的なものでありまして、絶対に変わらない陽極というものも無いのです
我太陽系は輝く恒星は物象の陽極であり、我々人間は事象の陽極なのでありまして、物象の陽極、太陽や恒星は光を以って、幾十億光年の直径を持つ宇宙の隅々まで明るく照らし、事象の陽極、人間は思索によって宇宙の果ての隅々までも明らかにし、更に進んで宇宙の果てのその先の絶対空間とその機能までも知ろうとするのです、然しすぐ前に述べたように、太陽という陽極星も絶対的なものでなく、自己よりも体積、質量、温度、燭光、引力等の大きい陽星に対すると陰星となるし、また自己よりそれらの小さい恒星に対すると陽星となると言うように、相手によって陰陽の変わる相対的なもので、従って絶対的陽極ではありません
また人間は事象の陽極で、万物の霊長であるといっても、之も絶対的なものでは無く、乞食から大統領、国王まで、その地位により相手によって相対的に陰陽は変わるのですから、これまた絶対的陽極ではありません、然し空間だけは何物を対象としても絶対陰で、絶対に変化はないのです
20 無(陰) 有(陽)
有る物は明らかであるから陽・・・無いものは不明瞭であるから陰です、ここに一籠のリンゴがあるとしましょう、このリンゴは有で我々の目にも移り明らかでありますから陽ですが、食べてしまって無くなれば、吾々の目にも映らないし、不明瞭でありますから陰です、ここに一本の煙草があるとしましょう、この煙草は有で我々の目にも映って明らかでありますから陽ですが、吸ってしまって無くなれば最早我々は手に取ることも見ることも不可能になって不明瞭ですから陰であります・・・等々
ここで我々が注意しなければならないことは有とは何か?・・・無とは何であろうか?・・・という事であります、無・・・それは空間の事であり、有とは物質の事であります、例えばいま述べた籠の中のリンゴを食べてしまって無くなれば籠の中にあるものは今までリンゴが塞いでいた空間であります同様に皿に盛られた菓子、ポケットの中の煙草、室内に備え付けてある椅子、机、壁にかけてある額縁、柱にかけてある時計、火鉢にかけてある鉄瓶といったような具体的なもの、即ち物質を取り去って無くすればここに残るものは今までそれ等の物質に塞がれていた空間であります、空間即ち有は我々の手に触れ目に映って明らかですから陽であります、又が例吾々の目にも顕微鏡にも見る事が不可能であっても理論的に物質的な実在が証明されるとすれば、理論によっても物質的な実在が確認されない空間よりは明らかですから陽であります
21平和(陰) 戦争(陽)
平和が陰で、戦争が陽であるといえますと、読者は必ず「戦争は苦痛であり、平和は楽しいではないかー人生生活を楽しく朗らかに明るくする平和が陰とは何のことか?・・・そして言語の絶する苦痛を与えて吾々の世界を暗くする戦争が陽とは何のことか?」と疑問が起こるでありましょう、然し平和と平和時に於ける人間の生活とは違います、戦争と戦争を行為する人間とは違います、もしくは戦争と戦争によって生ずる我々の境遇とは違います
即ち平和とは平和それ自体であり、戦争とは戦争行為それ自体です、戦争行為それ自体は、銃砲団の呻り、爆撃の響き、軍事施設その他建築物の破壊炎上、炎々点を焦がす石油タンク、艦船等の爆破炎上、飛行機の轟音、物資人的の大消耗等々を考える時、戦争行為それ自体は、如何なる現象もこれに比較しえない陽気な現象と言わなければなりません、他方平和それ自体はこれに反して銃砲弾の爆撃、飛行機等の轟音も軍事施設、建築物、艦船その他の炎上も物資や人的資源の消耗も無く、ひっそり閑とした陰気な世界です
然しこれとは全く反対に戦時に於ける陽気な戦争を行為する我々人間はいかなる事件にも勝る苦痛で暗く陰気であり、反対に戦時と相対的に静かで陰気な平和時における我々の生活は楽しく朗らかで陽気です、しかしこうしたことは単に平和対戦争について見られるばかりでなく、問題は多くあるのですが、その中の一つ、健康と病気についても同じことが言えます、病気と相対的に健康それ自体は陰で暗く、病気それ自体は明るく陽気です、病気は我々の肉体を破壊炎上せしめて体温を上昇せしめます、戦争行為それ自体と全く同様ですが、健康時には肉体の破壊も炎上も体温の上昇もありません、平和時と全く同様です、然しそれとは全く反対に、病気をする我々自身は病気は苦しく暗く陰気ですが、健康時には明るく朗らかで陽気です、それならば、何故に平和対戦争、健康対病気と、又戦争それ自体と戦争行為を行う我々人間と、陰陽明暗が全く相反するかと言いますと、これは「原因と結果」の自然法則によって、原因はすべて陰で暗く、結果は総て陽で明るく朗らかなように規定されているからです、この事は先へ行って学ぶ事として、平和対戦争では平和が原因で戦争は結果によって行われます、即ち平和時において、戦力を蓄積される原因によって、戦争はその結果起こるのです、戦力の蓄積がなくては戦争は絶対に起こるものではありません、健康対病気に付いても同様です、健康時において肉体の蓄積あるが故にこそ、病気によって肉体を消耗する事が出来るのです、永い病気によって消耗する肉体が無くなれば死んでしまいますから、病気によって消耗する肉体の無いものはこの世の中にはいない訳です、病気によって肉体を消耗し、健康を回復して肉体を蓄積するが故にこそ、又病気をして肉体を消耗することが出来るのです
以上の説明によって判りますように、平和が原因で、戦争は結果によって起こります、健康が原因で病気は結果です、原因は陰で暗く、結果は陽で明朗です
次に戦争対人間になりますと、人間あっての戦争ですから、人間が原因で陰、戦争は結果で陽となります、これ故にこそ戦時における原因(陰)の人間生活は苦しく、暗く、陰気で、人間あっての結果(陽)によって起こる病気それ自体は陽気です、次に平和対人間になりますと、平和が原因で人間は結果によって生じます、戦争対人間では、人間が原因でしたが、平和対人間になりますと人間は結果になるのです、即ち対象が変わると原因結果の関係も変わってくるのです、何故に?これは自然界が階段をなしているからなのですがこの事は先へ行って陰陽の法則「第3条・・・自然界の階段性」で学ぶ事とし、ともかく対象が変わると原因結果の関係も変わって来ます、従ってまた陰陽関係も変わって来るのです
平和対人間では、平和が原因で陰・・・人間は結果で陽となります、それ故にこそ戦時と相対的に静で暗い平和時における我々人間の生活は明るく朗らかで陽気なのです、元来自然は原則として平和なのです、戦争は一時的現象にすぎません、もし人間界が原則的に常に殺戮する戦争ばかりなら互いに殺しあって人間はこの世に存在しないでしょう。
同様なことは健康体病気に付いても言えます、元来自然の原則として人間は健康体であらねばならないのです、病気は一時的現象にすぎません、もし人間界が原則として常に病気ばかりで健康がないものならばこの世の中に人間は存在しないでしょう、それならば何故に一時的にもせよ、我々は好まざる戦争や病気をしなければならないのか?・・・この疑問の解決は先へ譲りましょう
以上、平和は戦争に対しても人間に対しても原因で陰、戦争は平和に対しても人間に対しても結果で陽、人間は戦争に対しては原因で陰、平和に対しては結果で陽となります、又健康は病気に対しても人間に対しても原因で陰、病気は健康に対しても人間に対しても結果で陽、人間は病気に対しては原因で陰、健康に対しては結果で陽となります、さて陰陽の開設はこれくらいにして止めましょう、他の諸問題については筆者が開設した要領により読者自ら解決するよう望みます、次に陰陽の法則とは何か?に付いて述べなければなりません。