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時間に対するメモ書き

時間、という概念に私がネガティブなイメージを抱きやすいのは、おそらく時間に生産性というものが掛け合わされてしまったからで、
そこに実力主義や能力評価主義がついて回るからだと思う。
つまりは資本主義の産物である。

けれど、一方では、

時間の持つ奥行きや幅は、
それを知覚しようとする者による
視座の数だけ、多様だと思う。

例えば、
バッタにはバッタから見た
独自の世界観があることとか
→環世界(ドイツ人生物学者 ヤーコブ・フォン・ユクスキュルが提唱)

個人的には、古来より存在し続ける
建造物や絵画なんかにも、
独自の世界を眼差す目がありそうだと
勝手に目論んでいる。
(そしてそれはなぜなのかを自らの内に問いたとき、「かつてそこに彼ら(建築家や画家など)が居たから」と答えが返ってきた。ゴッホ展に赴いた際、色彩豊かに濃い筆致で乗せられ描かれた絵の具たちの厚みを見て、「ああ、確かにゴッホはこのカンヴァスの前でこの絵を描いていたのだ」と実感し、肌が粟立ったことを覚えている。彼は確かにここに存在したのだと、非存在の存在を以てして、痛感する。まさに、肉質と肉声のようだと思う。)

世界はとても豊かです、尚も今日も。

とある骨董品店にて。明治期の器。お気に入りで、大切な小物たちを置くのに使っている。
夏の日差しを浴びた地面。悠久の光。印象派はそこにもここにも。モネやセザンヌがいる。
東京都美術館内にある、たまたま人気のなかったエレベーター。美しく旧い建造物と、現代テクノロジーの融合。そこに流れる「それぞれ」の「時間」と、「それぞれ」の「灯り」。
指で絵画を描くのが好きだ。愛猫の腹に立て掛けて撮影。暑い夏の午後の日差しがちょうど良い塩梅に差し込んで、絵を照らした。

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