最近見た映画について
いつもは映画を見た感想はノートに手書きで書いて自分の中で消化するだけなのだが、今日はとても気分がいいので何かで自身を還元しようと思い、始めて「note」を書いてみる。
普段文章を書くことはレポートぐらいなので拙く見にくいと思うがただの自己満足なのでよしとする。
「女っ気なし」(フランス 2011年 ギョームブラック監督作品)
昨日図書館で見たのだが、なぜだか開始10分で「これはベストムービーだ!」と強く思った。ショットの重ね方、画作り、水気のある色味、静けさ、みたいな映画要素が、昨日の自分にあった「穴」の部分にピッタリとハマったのだろう。実際ベストムービー入りした。久々に。
とにかく素晴らしい映画だった。どれだけ言葉を連ねようとこれに尽きる。本当に良いのだ。分かるのだ、俺は。主人公のシルヴァンの気持ちが、本当に分かる。というか多分俺を描いているのではないか。そのぐらいの、なんというか「投影感覚」を持った。
ここからネタバレになるかも
多分シルヴァンとパトリシア、ジュリエットは人生のどこかで何かしらの出来事があって、心に痛みを抱えている。そんな中でも人に対しての優しさがあって、それを与えようと、受け取ろうともがいている。そのもがきみたいなところがこの映画の中核なのだ。エリック・ロメールは「空間」で映画を作っているし、ブレッソンは「視線」で映画を作っている。それは監督が自分の映画に持つ思想哲学みたいなもので、我々はその哲学を考え、他作品と比べることでようやく実感するものである。しかしこの映画が持つ「もがき」は考えなくとも我々に寄り添い、共感を生んでくれる。優しい映画なのだ。
「優しさ」って、欲求に対する理性の働き方だと、この映画を見て思った。例えば、言いたい事をどう言うかって千差万別で不正解はあっても正解はない。真面目に言うのか、調子良さげにふざけながら言うのか、どう言ってもいいのだ。「どう伝えるか」で、人は言葉や仕草の取捨選択をしていて、思考の過程に掬い取られて提示されたものが、その人だけの「優しさ」になると思う。「優しさ」って、人を喜ばせる優しさと人を傷つけない優しさがあると思っていて、「女っ気なし」の人物が持つのは後者の優しさだ。人を想って、自分を守る優しさだ。それは、俺にとっての優しさでもあって、だから、シルヴァンは俺なのだ。
人生の中でほんの2、3日の、ヴァカンス。この2、3日を、シルヴァンは一生忘れないと思う。そして、あの三人は一生会うことはないと思う。現実から離れた一時のヴァカンスで、そこで出会う人々は一期一会であることをお互いなんとなくわかっていて、でも言葉にしない。曖昧にしておくだ。その曖昧さって、不安になることもあるけれど、ふとした時に思い出す美しいものなんだ。
シルヴァンは、不器用で、わからないことは人に聞いて、気持ち悪くて、ただ純粋に、人だ。人を喜ばせるためではなくて、人を傷つけない優しさ。それは時に他者から棘をもらうことがあるけれど、その優しさを感じ取って受け取れる人間にとっては、安心なのだ。挨拶を期待してパトリシアとジュリエットがいるホテルの二階を見上げたり、ナンパされているところを落ち着かない目線で見つめたり、わかりやすくも、直接的な言動は提示しない。人のリアルで、純粋な部分だ。
言葉はなくても、心の内側を、なんとなくでも知っていて、理解してくれてる。理解していることを表情で、眼差しで示してくれる。そんな人の存在って救いだ。
何に傷ついてるか知らない。でも傷ついていることはわかる。
幸せになりたいぜ。
撮影などについて
一応撮録だから書いてみる。
フランスの色味だった。しっとりとしたロメールみたいで、ブレッソンの「白夜」よりかは色情報が少ない。白を基調とした画面で、服装や小道具で色を足していくようなやり方で画を作っていた。特に最初の方のホテルのシーン、壁や光が白色で、カーテンが青色。それだけでビーチを想起させるのに、海のさざなみが付け足されている。まさに「空間」。会話シーンの撮り方がロメールリスペクトを感じる。
海に入るショットの生々しさ。手持ちで撮られているが、カメラマンの存在は感じない。ブレの少なさと、人物の映し方、ちょうどいい距離感がそうさせているのだ。「都合のいい傍観者」の素晴らしい具体例。カメラ移動はなくとも三脚を使うか手持ちで撮るかでそのシーンのトーンが大きく変わる。静謐さを持って見つめるのか、リアリティを持って見つめるのか。
この作品は多くが手持ちで撮られていて、それは、この作品が「ドラマ」を描いているのではなく、日常を「ドラマ化」しているからだと思う。あくまでも「日常」。ヴァカンスに来た人々の「日常」を、映画という媒体にしている。リアリティに溢れて、曖昧でもわっとしている。でも心からの共感。素晴らしい映画だった。
終わり。読んでくれた人ありがとう。