「新自由主義、あるいは世界の官僚化」(デヴィッド・グレーバー)の日本語訳

翻訳元は以下です。なるべく直訳するように努めました。

新自由主義、あるいは世界の官僚化

デヴィッド・グレーバー (2009)

 アメリカ人はしばしば世界の他の地域の人々と政治の話をすることに困難を覚える。2005年12月末に世界中のニュースワイヤーから多かれ少なかれ無作為に抜粋した3つの引用を見てみよう。ボリビアでは、新たに大統領に選出されたエボ・モラレスが「国民は新自由主義者を打ち負かした」と宣言し、「私たちは新自由主義モデルを変えたい」と付け加えた。ドイツでは、ロタール・ビスキーが、新政党の結成が「新自由主義が社会的結束に与えるダメージに対抗する民主的な代替案を生み出すことに貢献する」こと期待すると発表した。同じ頃、あるパン・アフリカ主義のウェブジャーナルが、「モーリシャス、スワジランド、マリといった遠く離れた国々からの新自由主義に代わる経済についての議論の高まりを反映した」特集号を発表した。[1]

 これらはたった3つだが、容易に何十も見つけることができるだろう。地球上のほとんどの地域で、新自由主義はよく知られた言葉だ。新自由主義についての議論は、日常的な政治的会話の材料となっている。政治家は、新自由主義者であるとか、新自由主義的なアジェンダを追求していると非難され、野党候補は新自由主義に反対することで当選する(が、その後多くの場合、新自由主義に屈したとして元支持者から非難される)。新自由主義は世界の支配的なイデオロギー勢力と見做されている。世界に唯一残された超大国である米国が自国の社会・経済モデルを世界に拡大する試みだというのである。それは避けられないことであり、望ましいとさえ言う者もいれば、それに抗う運動もある。しかし、ほとんどの人がこれに対して意見を持っているのだ。

 アメリカではこの言葉を聞くことは少ない。学者や国際問題担当者を除くほとんどの人に対して、この言葉を口にしても虚な視線を向けられるだろう。実のところ、同じ問題について話そうとすれば、自由貿易、自由市場改革、グローバリゼーションといった明らかなプロパガンダ用語に頼らざるを得ない。最初の2つにおけるバイアスは明らかだ。中立であろうとするならば、頭に自由という言葉は付けないものである。グローバリゼーションはもう少しだけ微妙だ。何かを「新自由主義」と呼ぶときに言っているのは、それが経済を構築する最良の方法に関する数ある理論のうちの一つの思想体系にすぎないということである。それとは対照的に、「グローバリゼーション」は常に必然的なものとして扱われている。明日太陽が昇るかについて意見を持つのはあまり意味がないのであると、おそらくアメリカで最も著名な新自由主義の擁護者であるトーマス・フリードマンは主張する(が、もちろん彼がその言葉を挙げることはない)。それを現実として受け入れ、その中で最善を尽くすしかないというのだ。[2] とにかくグローバリゼーションは起こった。誰の責任でもない。インターネットが何か関係しているかもしれない。いずれにせよ、今や私たちは皆、適応するしかないのだ。

 新自由主義を単に米国が自国のモデルを世界に押し付けているに過ぎないと感じている人からみれば、これら全ては完全に予想通りであろう。しかし、公平を期すと、ほとんどのアメリカ人が新自由主義という言葉を紛らわしいと感じるもっと無邪気な理由はたくさんある。米国では政治用語の発達が他の国々と大きく異なっている。例えば、19世紀には、リベラルという言葉は私有財産権を基礎とする個人の自由を信じる人々に対して用いられていた。これらの「古典的リベラル」とも呼ばれる人々は、個人的な問題と同様に、経済に対する政府の干渉を拒否する傾向があった。これは今でも世界のほとんどの国でリベラルが意味することである。しかし、米国では20世紀を通じて、この言葉は穏健左派によって採用され、「社会民主主義者」のような意味を持つようになった。1980年代から、右派はリベラルという言葉を非難の言葉に変えることで対抗した。リベラルは、多くの労働者階級のアメリカ人の心の中で、ラテを啜る文化エリート主義者、「課税と支出」の政治家、同性婚の推進者、そして同様の忌み嫌われる人々の呼称となった。一方、自由市場の熱狂的な支持者たち、つまり世界では「リベラル」と呼ばれている人たちは、新しい呼び名を探し始めた。結局彼らが最終的に決めた名前はリバタリアンで、それは左派から借用した用語であった。その結果、アメリカ人が政治について他国の人と話すことはさらに難しくなった。他の国々では、リバタリアンという言葉はアナーキストの同義語として伝統的な意味をほとんど残しているからだ。ヨーロッパや南米では、「リバタリアン的共産主義」について語ることは全く珍しくない。これは、国家を解体し、経済生活のコントロールを民主的に組織された共同体の手に委ねるべきだという考え方である。平均的な米国市民の前でこのような言葉を使えば、意図的な矛盾で他人を混乱させるのが好きな迷惑な人、あるいは狂った人だと思われるだろう。

 人々が相互に話すことができないのはいいことではあり得ないし、多くのアメリカ人が、世界における自分たちの役割に対する怒りが広がっていることに戸惑っているように見える今は特に残念なことだ。報道では、新自由主義への反対、特にラテンアメリカでの反対は、あたかも新自由主義が本当にアメリカの生活様式と単純に同一であるかのように、しばしば「反米主義」と呼ばれる。実際には、そうではない。実際、アメリカ人の大多数は新自由主義の核となる考え方や制度を否定しているという主張は十分に成り立つし、アメリカ人は実に、新自由主義的な「改革」の最初の犠牲者だ。それらは本巻で述べられている多くの不安定要因の究極的な原因となっている政策の数々である。アメリカ人も新自由主義に反対する世界的な運動の高まりの中で重要な役割を果たしてきたのは確かなのだ。

 上記が示唆するように、私はここで中立性を主張しているわけではない。世界的な貧困の根源や資本主義の本質について「客観的」あるいは「科学的」な説明をしていると主張する人は、よほど世間知らずか、何かを売りつけようとしているかのどちらかだと言っていいと思う。

新自由主義の根源

 経済理論および政治理論としての新自由主義は、いくつかの比較的単純な前提に基づいている。最小限の概略は次のようなものだ。

  1. 政府は経済への関与を最小限にとどめるべきである。さらに、政府には大規模な工業・商業企業を経営する能力はない。実際には、市場環境の中で利潤を追求して活動する民間企業は、公的機関よりも上手く公共サービスを提供することが常に期待できる。したがって政府は、民間企業が公共サービスを提供しやすい法的環境を整え、必要なインフラを整備することに専念するべきである。

  2. 貿易障壁を減らすことは常にいいことであり、常にすべての人に利益をもたらす。旧態依然とした保護主義的な政策は捨てるべきである。各国が自律的に発展しようとするのではなく、単一のグローバル市場において特定の「競争的優位性」(それが安価な労働力であれ、教育を受けた労働力であれ、天然資源であれ)を追求するべきである。

  3. 貧しい人々を利する政府の支出政策は、それが基本的な食料品の価格支持であれ、医療サービスの無料提供であれ、年金基金の保証であれ、究極的には逆効果である。それらは縮小されるか廃止されるべきである。市場の働きを歪めてしまうからだ。その代わり、自国通貨の安定を保証するために政府が支出を制限して均衡財政を維持すれば、外国からの投資に有利な市場環境が生まれ、市場そのものがこれらの問題のより良い解決策を提供する。

 1980年代以降、世界のほとんどすべての国が何らかの新自由主義改革を採用してきた。しかし、政治家がそのようにすると約束して当選したことが理由であるのは例外的だ。間違いなく、最初の新自由主義的実験は1970年代半ばにチリで、選挙で選ばれた政府を軍事クーデターで転覆させた後に将軍アウグスト・ピノチェトによって実施された。しかし、ほとんどの改革は武力による強制ではなく、財政的強制とでも呼ぶべきものであった。

 デヴィッド・ハーヴェイが指摘するように、真の転換点は、1975年に始まったニューヨーク市の金融危機である。[3] これは少し詳しく検討する価値がある。危機は市が財政破綻の瀬戸際に立たされている状態から始まった。連邦政府が救済措置を拒否し、投資銀行が債務のロールオーバーを拒否したため、ニューヨークは技術破産に追い込まれた。債権者たちはその後、市政府から独立した、つまり有権者に責任を負わされない、市政府援助公社(Municipal Assistance Corporation, MAC)と呼ばれる組織の設立を進め、市を救済する条件として市の政治的景観を作り替え始めた。当時のニューヨークはアメリカにおける社会民主主義の飛地のようなものだったことを忘れてはならない。全米で最も広範な家賃統制だけでなく、アメリカで最も労働組合が組織され、最も広範な公共サービスが提供され、唯一の無料の公立大学さえ維持されていた。予算を均衡させるという名目で、MACは自治体の労働組合の力を削ぎ、サービスを削減し、年金や雇用保証を後退させ、企業や開発業者に莫大な減税を提供し、市政のあり方そのものを再構築し始めた。

 まず第一に、市政がすべての市民のために平等に存在するという建前がなくなった。むしろ、市は売り込むべき商品だった。ロゴとジングルが発明された(ビッグ・アップル、アイ・ラブ・ニューヨーク)。市の中心部がそれ自身の煌びやかな広告塔として再建されるにつれ、貧困層は潜在的な観光客や投資家の目から遠ざけられることになった。消防隊の計画的な撤退により、サウスブロンクスやイースト・ニューヨークのような周辺地域は焼け野原と化した。アウター・ボローズの労働者階級にとって重要な、地下鉄のようなインフラは崩壊するままにされた。ニューヨーク市立大学は授業料を徴収せざるを得なくなった。同時に、市政府は投資家にとってより良い「ビジネス環境」を作ることを目的とした、ジェントリフィケーションキャンペーンや市中心部の新しい通信インフラ構築の支援に資金を注ぎ込んだ。

 1970年代後半から1980年代前半のニューヨークといえば、スタジオ54でコカインを嗅ぐ享楽的なヤッピーのイメージか、あるいは都市崩壊のイメージを思い浮かべるのが普通だ。グラフィティ、クラックハウス、ホームレスの蔓延など、当時はカルカッタやボンベイと比較された。こうしたイメージを可能にした貧富の差の拡大は、しばしば弁明者たちが主張するように、脱工業化や通信・サービス産業の成長の必然的な結果ではなかった。それらはニューヨーク市民の総意が選択したわけでもなく、また選択するはずもなかったであろう政治的判断の結果だ。公共財という考え方に哲学的に反対する金融業者によって事実上押し付けられたのである。しかし、その結果、新自由主義的倫理とでも呼ぶべきものが徐々に出現した。それは富裕層には個人の自己実現を、貧困層には「個人の責任」を同時に強調する。どちらも、民主主義が共同体に対する何らかの共通の献身を意味する(ましてや、共同体の構成員が共同体の民主的な生活に参加するために最低限必要なもの、食料、住居、自由な時間へのアクセスを保証されるべきである)という考え方の否定に依存しているように思われた。それを明言した数少ない政治家の一人であるマーガレット・サッチャーは、最も簡潔に次のように述べた。「社会というものは存在しない。」個人がいて、家族がいて、彼らの独立した利己的な決断の結果が民主的な選択なのだ。コミュニティが呼び起こされるとしたら、「アイ・ラブ・ニューヨーク」キャンペーンのように、単なるセールスギミックにすぎない。結局のところ、新自由主義の世界では売れるものすべてが現実そのものなのだから。自己のマーケティング能力以外に何も残されていない断片化された個人の感覚は当時の新興文化のあらゆるレベルに響いていた。ニューヨークのアートシーンの洗練されたポストモダニズムから、広告代理店によって識別されターゲットにされた消費者のアイデンティティの果てしない細分化まで。

 ニューヨークの歴史は、政治家が地域社会と対立して当選することは滅多にないことを示すだけでなく [4]、いったん社会的トリアージのプロセスが既成事実として受け入れられてしまえば、政治家はしばしば、そのような政策が必ず巻き起こす混乱や暴力から中産階級や労働者階級の市民を守ると約束し、法と秩序を掲げて選挙に勝つことができることも示している。1990年代のニューヨークでのルドルフ・ジュリアーニの当選は、単に暴力と犯罪に執着する政治への長い退化の集大成に過ぎず、本質的には、1970年代の混乱の後始末をすることが目的であった。このパターンは世界各地の都市で何度も何度も再現されることになった。

 1980年代、第三世界の債務危機によって、レーガン政権は同じモデルを世界規模で適用し始めた。その債務危機の起源は、1970年代後半の石油輸出機構(OPEC)の石油禁輸に遡る。基本的に起こったことといえば、原油価格の高騰でOPEC諸国が突然大量の資金を手にし、すぐに、(その資金が投資されていた)欧米の銀行は資金の借り手を見つけられなくなったことである。その結果、「ゴーゴー・バンキング」の時代が到来し、銀行の担当者は世界中を飛び回り、その後に起こるであろう経済的大当たりの荒唐無稽な予測に基づいて、第三世界の指導者たちに高利融資を受け入れるよう積極的に説得しようとした。この資金の大部分は単に盗まれた。残りの多くは、(世界銀行を有名にした巨大なダムの数々など)誤った考えの壮大なプロジェクトに投資され、後に政府主導の開発という考えそのものの愚かさを示すために利用された。言うまでもなく、数年以内に多くの貧しい国々がデフォルトの瀬戸際に立たされた。この時点で、米国財務省は国際通貨基金(IMF)と緊密に協力し、いかなる場合にもこのような債務を償却しないという方針を固めた。[5] これは、お金の貸し手が一定のリスクを負うことを当然とするそれまでの経済学的正統性からの大きな逸脱であることを付言しておく。これは新自由主義の重要な要素を示している。貧困層は(現実のものであれ想像上のものであれ)不適切な経済的決断の責任を問われるが、富裕層は決して責任を問われないということだ。実質的な効果として、全額がスイスの個人銀行口座に直接振り込まれる可能性が高いことを十分承知していながら、銀行家が汚職に手を染めた独裁者に1億ドルを貸したとすると、たとえその独裁者がその後民衆の反乱によって追放されたとしても世界政府と金融機関の全機構が歩調を合わせ、独裁者のかつての犠牲者たちから寛大な金利で資金を回収できると主張することを銀行家は安心していられるのである。そのために何千人もの人が飢えなければならなくなったとしても、それは仕方のないことなのだ。

 革新的だったのは、単に債務の不可侵性を主張するだけでなく、ニューヨークのように債務を政治的手段として利用したことだ。[6] 融資はすぐに返済不能となり、借り換えを余儀なくされた。しかし、IMFがそうする前に、各国政府は新自由主義的なエコノミストたちによって考案された「構造調整プログラム」と呼ばれるものを受けることに同意しなければならなかった。彼らの最優先事項は常に財政均衡であり、それは表向きには安定した通貨と有利な投資環境を作り出すためだった。これは、最も劇的なものでは、燃料や基本的な食料品に対する価格支持の撤廃や、医療施設や初等教育のようなそれまで無料であったサービスに対する「利用者負担」の賦課など、社会サービスの削減によって主に行われた。これに伴い、公的資源を売却し、国内市場を外国貿易と投資に全面的に解放することになっていた。想像に難くないが、こうした政策は都市部の貧困層から絶えず反発を招いた。しかし、各国政府は選択の余地はなかったと言うことができた。それは正しかった。貧困国の指導者たちがIMFの協定への署名を真っ向から拒否した数少ない場面、例えば、1990年代初頭のマダガスカルの大統領アルベール・ザフィがそうだったが、彼らは、そうしなくては他のすべての国々が援助を打ち切ることになることをすぐに知った。援助がなければ民間資本は撤退し、保険補助がなければ製品を輸出することさえできなかった。効果は、少なくとも純粋に経済的荒廃という点では、小規模な核攻撃で達成されたかもしれないものとほぼ同等であった。[7]

 1980年代と1990年代はもちろん、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸の大部分で独裁政権が選挙で選ばれた政府に取って代わられた時期だ。しかし、有権者は自分たちの選択が経済政策にほとんど何の影響も及ぼさないことをすぐに知ることになった。それは、同時に経済的な決定のレバーが政府の手から離れ、選挙で選ばれたわけでもない、説明責任のない新自由主義的テクノクラートの手に渡ったからである。これは負債によってのみ起きたのではない。この時代のもう一つの典型は、貿易協定を執行するための機関に経済問題の管轄権が移ったことである。例えば、1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)の調印は、特には、革命の主要な遺産の一つであった集団エヒードを含むあらゆる形態の共同体的土地所有権の廃止を含む大規模な憲法改正をメキシコに約束させたが、この問題が選挙民の前に現れることはなかった。[8] ヨーロッパでは、EUの協定が同様の役割を果たし、ヨーロッパの新しい共通通貨の安定を維持するための財政均衡の名の下に、社会的な保護を撤廃し「柔軟な」労働体制を導入することを各国政府に強制した。その後すぐに、関税及び貿易に関する一般協定(GATT)、そして世界貿易機関(WTO)と、同様の貿易協定が世界中に拡大した。いずれの場合も、任命された官僚の組織が、労働条件や環境を保護するための法律を含め、過度に保護主義的と見做される法律を取り締まる権限を与えられていた。

 最も劇的だったのは東ヨーロッパと中欧ヨーロッパの事例であろう。1989年と1991年に共産主義が崩壊した直後に行われた調査では、ほとんどの国民が北欧風の社会福祉国家の創設を希望し、社会主義の維持に賛成する国民は極少数あり、純粋な自由市場モデルの導入に賛成する国民はほとんどいなかった。にもかかわらず、選挙で選ばれた政府が発足するやいなや彼らは一様に、まさにそのモデルをできる限り早く導入するために、外国で考案された「ショック療法」プログラムを実施し始めた。これらの国々はほとんどの場合、多額の負債を負っていなかったため、なおさら印象的であった。その頃には、それ以外の条件では世界経済との完全な統合は不可能になっていたようだ。[9]

 実際、1990年代には、新自由主義の方針に基づいて運営されるグローバル統治システムについて確信を持って語ることができるようになった。それは一連の階層から構成されることを想像してほしい。最上位にいるのは金融取引業者だ。ここ数十年の大きな革新の一つは、金融資本が巨大な花を咲かせたことである。現在の時点で、グローバル市場と呼ばれるものにおける経済取引の90%以上はもはやいかなる種類の商品の製造や取引とも直接の関係はなく、単に通貨取引やその他の形態の金融投機で成り立っている。トーマス・フリードマンが好んで呼ぶ「電子的な群れ」は、新自由主義の正統性を裏切っていると見做される「新興市場」から即座に資金を引き揚げることができるため、これは巨大な規律メカニズムとして機能する。このような通貨流出の影響は、繰り返しになるが、核爆発に匹敵するような意味合いを持つ。次の階層は多国籍企業で、その収入はほとんどの国のGDPをはるかに上回ることが多い。1980年代から1990年代にかけて、新聞社からデパート、建設会社まで、かつては独立していた何千もの企業が官僚主義的な路線で組織された巨大コングロマリットに吸収された。次に、IMF、WTO、EU、東南アジア諸国連合(ASEAN)、NAFTA、さまざまな準備銀行など、種々の通商官僚機構である。これらの官僚機構のエコノミストたちは、多国籍企業に従順な政策を主張するために、定期的に金融業者の脅威を喚起している。結局、非政府組織(NGO)が際限なく発展し、小児予防接種から農業融資まで、以前は国家政府の仕事と考えられていたサービスを提供するようになった。世界の金融取引の大部分を行う巨大な証券会社やヘッジファンドを含み、これらの階層はすべて、合わせて一つの巨大な、事実上の管理システムを構成している。これは人類史上初めての、実際に惑星規模の決定を執行する力を持つ行政システムである。結局のところ、全世界にまたがる帝国など存在したことはないし、最初の真のグローバル機関である国連も道徳的権威以上のものを持ったことはなかったからだ。階層的に組織化された大規模な行政システムを指す言葉はもちろんある。それは官僚機構と呼ばれている。この新しい行政システムの中で働く人々のほとんどが自分たちを官僚だと思いたがらないことは確かだ。そして確かにこれらの組織は、それが(ほぼ)取って代わろうとした政府官僚組織よりもはるかに分散化され、柔軟なやり方で運営される傾向にある。[10] しかし、惑星全体に渡る貿易官僚機構が、わたしたちが最も慣れ親しんでいるものとは異なって組織されることは予想されることだ。注目すべきは、その独裁があまりにも効果的であるため、豊かな国に住む人々のほとんどがその存在に事実上気付いていないことだ。

帳簿の均衡

 新自由主義改革の支持者たちは通常、自分たちの処方箋が、しばしば彼らが言うように「苦い薬」であること、あるいは少なくとも当初は、「痛みが伴う」ものであることを認めるのを厭わなかった。その正当化とは、ここでもまたマーガレット・サッチャーが最も簡潔に言ったことだが、「代替案はない」ということだった。社会主義的な解決策は失敗し、グローバルな競争がそのままである限り、他に方法はなかった。「資本主義」(暗に新自由主義的資本主義)は、上手く機能する唯一のものであることが証明されたのだ。このフレーズはそれ自体重要な意味を持つ。というのも、わたしたちがいかに徹底的に国家や社会を企業として捉えているかを示しているからである。「何を目的として上手く機能するのか」と問うことをほとんど誰も思いつかなかったようだ。とはいえ、新自由主義の成功はほとんど経済成長によってのみ測られるという新自由主義自らの観点で評価したとしても、世界規模で見れば、新自由主義は著しく失敗していることが証明されている。

 ここで、「自由市場改革」が1960年代と1970年代の国家主導の開発戦略の欠点に対する反動であったはずであることを思い出してほしい。数字はこの通りだ。1960年代と1970年代の世界の成長率は、それぞれ年平均3.5%と2.4%だった。1980年代の新自由主義改革期には、この数字は1.4%に低下し、1990年代における新自由主義的な「ワシントン・コンセンサス」期には1.1%に低下した。[11] その影響は、「自由貿易」の最大の受益者であるはずの発展途上国においてはさらに劇的であった。中国を除けば、[12] 最初の20年間で、グローバル・サウスの一人当たりの実質国内生産成長率は全体として年率3.2%であり、実際、当時の世界平均よりも高かった。新自由主義時代(1981年〜99年)の間にこれは0.7%に低下した。[13] 実際には多くの経済は縮小した。さらに、低成長は必ずと言っていいほど、ますます不平等な分配を伴っていた。各国のエリートがグローバル都市の煌びやかな大都市に居を構え、あるいはイーサネットで結ばれたゲーテッド・コミュニティに閉じこもるようになると各国政府は、かつてはすべての国民に最低限の社会的保護を保障するはずだった政策へのいかなる関与も放棄した。その結果、国際NGOが被害を抑えようとした一方で、ニューヨークと同様、一種の社会的トリアージが行われ、政府の役割は主に、貧困層や新たに貧困に陥った人々を一掃し、人目につかないようにすることであった。世界規模で見れば、識字率や平均寿命といった社会指標全体が劇的に低下した。[14] 

 これが一般に知られた知識でないとすれば、それは新自由主義の支持者が決して全体像について語らないためでもある。勝ち組と負け組が存在するのがグローバル市場の本質だと彼らは言う。そして、自分たちのアドバイスに最も忠実に従った者が勝者であることを証明しようとする。それゆえ、リトアニアはロシアより、ウガンダはアンゴラより、チリはブラジルより上手くいっているのだと。これですら、通常はかなりの量の帳簿操作が必要である。例えば1980年代、改革派は韓国や台湾のような「アジアの虎」の成功を指摘したがった。そのためには、両者とも、新自由主義者たちが推奨していることとは基本的に正反対の、重関税、公教育への大規模な政府投資、さらには政府主導の産業五カ年計画に依存してきたと言う事実を軽く扱う必要があった。ヨーロッパでは、言うまでもなく自由市場改革に最も熱心だったイギリスが、今ではアイルランドより低い生活水準を維持している。一方、ヨーロッパ諸国の中で、経済の最も大きな割合を社会福祉事業に割り当てているフィンランドは、世界経済フォーラムによると、今や米国に代わって最も経済競争力のある国となっている。[15] 同時に、過去10年間の世界経済における二大勝者、米国と中華人民共和国は、IMFの助言を最も組織的に無視できる立場にある。例えば、アメリカではあまり知られていないが、IMFは毎年、米国政府の巨大な財政赤字を非難し、関税や農業補助金の削減を要求している。米国ではIMFは強制力を持たないため、政府はそれを無視するだけである。[16] 米国の最大の債権者である中国は、他の発展途上国に適用される「規律」のほとんどすべてを回避してきた。例えばブラジルと同じ立場であれば、産業インフラのための無限の信用供与、ましてや外国の特許や著作権を組織的に無視するような政策を維持することは許されなかっただろう。中国の華々しい経済的成功の要となったのは、間違いなくこれらの政策である。

 IMFのエコノミストたちはもりろん、各国が彼らの政策提言を採用すると、しばしば悲惨な結果を招くことを承知している。彼らの反応はいつも同じだ。もっと苦い薬が必要だ。

 フィリピンの経済学者ウォルデン・ベロが言うように、これは控えめに言っても不可解なことだ。これらのエコノミストのほとんどは、民間部門と幅広く仕事をしてきた。民間企業が経済戦略を提言してもらうためにコンサルタントを雇い、提言された戦略が示された目標への到達に完全に失敗した場合、そのコンサルタントは通常解雇されることが予想されることを彼らは知っている。少なくとも、彼には別の戦略を打ち出すことが求められるだろう。同じエコノミストたちが、目立った肯定的な結果が見られないなか、ウルグアイやマリのような国々が何十年も毎年同じ政策を続けるように主張するとき、彼らの頭の中でウルグアイやマリの最善の利益を第一に考えているのが本当か疑わざるを得ない。[17] ウルグアイとマリのほとんどの人が、かなり早い段階からそうではないとの結論に達していたのは確かだ。

 この件に関しては、多くの憶測が飛び交っている。デヴィッド・ハーヴェイは、新自由主義は世界的繁栄の戦略としては非効率的であったとしても、1970年代に革命運動や民主化運動によって広く脅かされていた階級権力を強固なものにするという点では驚くほど効果的であったと指摘している。(これに付け加えると、新自由主義政策の最大の受益者は、新興行政機関の職員たち自身だ。)ベロ自身も似たような主張をしているが、地政学的な観点からである。1970年代末には、ブラジルのような国々が重要な産業大国として台頭し、南半球の経済的地位が急速に向上したため、非同盟運動における南半球の政治的代表者たちは、世界経済の構造そのものに変化を求め始めていた。OPECの石油禁輸措置は、このような新たな経済力の発揮の中で最も劇的な現れでしかなかった。そうだとすると、構造調整は攻勢を鈍らせ、南半球の多くの国々を貧困化した従属国に変えるのに極めて効果的であることが証明された。とはいえ、この視点は、米国が新自由主義的な政策を通じて、避けられない事態を先送りにしていただけなのではないかという興味深い問題を提起している。これは言い換えれば、イマニュエル・ウォーラーステインの見解であり、彼は、金融資本という仮想世界の裏側を覗けば、少なくとも1960年代以降、アメリカの経済力が世界の他の国々に対して低下し続けていることがわかると指摘する。その主な理由は、全体的な生産性の低さだと彼は主張する。米国は書類上、世界で最も生産性の高い労働力を持っているように見えるが、これは統計が賃金労働者(米国ではほとんどどこよりも搾取されている)の生産性だけを測定し、管理職の生産性を測定しないからである。乱暴にいえば、米国では、ヨーロッパや東アジアで一人の幹部がする仕事を2、3人の幹部がしており、そして米国の幹部は5、6倍の給料を要求する。ウォーラーステインによれば、米国が世界各地で推進した新自由主義的改革の主な効果の一つは、他国でも同様に寄生的な経営者層の誕生を促すことであり、その結果、少なくとも他国が追いつく速度を遅らせる効果があった。インドと中国の急速な台頭は、このゲームがもうすぐ終わることを示唆している。[18] 

哲学としての新自由主義

 私たちはパラドックスに直面している。急進的な個人主義の哲学が、なぜ世界初のグローバル行政官僚機構を創設する正当な理由となったのか?

 ここで、私たちは19世紀に立ち戻らなければならないと思う。古い自由主義と新自由主義に共通点があるとすれば、それは第一に、両者とも人間の自由を個人の財産を享受する能力として捉えていたこと、第二に、それにもかかわらず、両者とも自らを人類の歴史における進歩的、革命的勢力とさえ考えていたことである。

 このような主張の政治的背景を簡単に検討してみよう。1647年のパトニー討論において、クロムウェル軍の急進派が、「すべての人間は、彼自身の自然な流れと領域で、生まれながらにして王であり、聖職者であり、預言者であり、」政府を含め「何人も立ち入ることのできない」自己と財産の唯一の所有者であると主張したとき、これは非常に急進的な主張であった。[19] 200年後、それは明らかにそうではなくなっていた。その頃、労働者運動は私有財産の政治的権力に対する根本的な挑戦を始めていた。一方、リベラルは左派の中でも私有財産と、特に市場経済を擁護する傾向が強かった。

 これは、19世紀のリベラルが、彼らが一般的に主張していたように急進派ではなく、左翼ですらなかったと言っているのではない。多くは奴隷制や軍国主義に真っ向から反対し、個人の権利や普通選挙権を支持する人々だった。自由市場の熱狂的支持者はまた、アダム・スミスにならって、大規模な特許会社を政府がもたらした独占、真の経済競争の抑制と見做す傾向があった。リベラルの理想は、自律した個人や小規模な家族経営の企業が、グローバルな市場で商品を売買する世界だった。当時の大英帝国に好意的な見方が多かったとすれば、それは帝国がある程度、これらの理想を実践していたからである。例えば、市場開放には武力を行使したが、自国ではあらゆる保護主義を拒否した。東インド会社のような特許独占企業は世紀の初頭に解体されていたため、当時のイギリスの資本主義は実際に比較的小規模な家族経営の企業によるところが大きかった。最終的には、産業革命がもたらしたあらゆる蛮行によって、リベラルには賃金労働でさえ自由の方向への進歩であると見做すことができた。それは、資本家がそれまで大きく依存しており、そして世界的に見ればある程度は常に依存してきたし今でも依存している、奴隷制、負債隷属制、そして強制労働や拘束労働に比べればである。

 アメリカの資本主義はイギリス以上にリベラルの理想に近い形で始まったが、1870年代から1880年代にかけては全く異なる方向に進み始めた。その重要な革新は近代的な株式会社を創設したことである。会社設立許可は、何千人もの従業員を抱える株式会社を、法的には個人として扱うことを可能にし得たが、19世紀の大半は、運河や鉄道の建設など、特定の公共サービスを提供できる立場にある、地方の実業家に対して、地方自治体が与える特権と考えられていた。1880年代から1890年代にかけて、企業は永続的な地位を獲得しただけでなく、国家の経済を支配するようになっていた。20世紀、アメリカは世界にまたがる多国籍企業を率先して設立した。ジョヴァンニ・アリギが指摘しているように、米国がイギリスに代わって世界の支配者となったとき、米国は独自の官僚主義的な資本主義を持ち込んだ。[20] そのバトンは第二次世界大戦後に正式に引き継がれ、ルーズベルト大統領が最初に行ったことの一つが、私が新興のグローバル官僚機構と呼んだものの最初の枠組みを作ることだった。これらは、会議が開催されたニューハンプシャー州のスキーリゾートにちなんで、ブレトンウッズ機関と呼ばれるようになった。IMF、世界銀行、そしてWTOの前身であるGATTである。形式的には、新しく創設された国際連合の法的枠組みの傘下にあったが、やがてグローバル行政の効果的なシステムとして国際連合を覆い隠すようになった。[21] アリギはまた、イギリスとは異なり、最も強力だった頃のアメリカは自由貿易に特に力を入れていたわけではなかったと指摘する。イングランドのように自国市場を開放することはなかった。現在でも、アメリカの庇護のもとで「国際貿易」として計上される取引のおよそ3分の1は、貿易ではなく、内部組織構造において旧ソ連の企業とほとんど見分けがつかないような企業の、異なる支店間の単なる移転である。[22]

 では、第二波の自由主義はどのようにこの中にはまるのか。それはウォーラーステインが「1968年の世界革命」と呼ぶものの観点からのみ理解できるように思える。1960年代後半、工業化された世界を揺るがした暴動、蜂起、学生運動は、資本主義に対する反乱であったが、同時に資本家が同盟を結んでいた福祉国家に対する反乱でもあった。彼らはまた、当時の「まともな」マルクス主義的反対派とレーニン主義体制の両方との完全な決別を宣言する傾向があった。1968年5月のパリの反乱者たちはフランス共産党とは一切関わりたがらなかった。彼らの反乱は、あらゆる抑圧的な社会慣習や官僚的制約に対する個人の解放、喜び、自己表現の名の下に起こったものだった。そして、1968年のアメリカにおける精神も同様だった。1960年代後半に大学に通った世代が制度的権力を握り始めたまさにその瞬間に、新自由主義が支配的なイドオロギーになったというのは偶然とは思えない。イデオロギーとしては、19世紀の自由主義がやったことと全く同じことをするように意図されているようだ。それは、資本主義のために、革命的なエネルギー、アイデア、さらには革命的な言語を取り戻すことである。

 ここで最も良い例は、資本主義という言葉自体の歴史だろう。新自由主義のレトリックの重要な要素は、資本主義自体が革命的な力であるという考えである。こうした言葉遣いは、実はかなり新しいものである。少なくとも資本主義者の言葉としては。資本主義者は歴史的に資本主義という言葉を一度も使ったことがなく、自由企業、起業家精神、民間企業、経済的自由といった言葉を好んで使ってきた。資本主義という言葉は、批評家たちが、生産的資産が少数の人間によって自分たちの利益のために支配されている、汚らしい経済現実と見做すものを表現するのにほぼ独占的に使われていた。一方、「社会主義」は、生産的資産が公共の利益のために民主的に管理される世界という実現されていない理想だった。新自由主義時代の最も特徴的な知的な動きはこれをひっくり返したことだった。資本主義は実現されない理想、つまり完全に自由で自己調整された市場というユートピア的な夢となった。社会主義は政府による規制の汚れた現実だった。したがって、人類の幸福と自由におけるすべての進歩は資本主義によるものであり、すべての悪は社会主義の長引く影響によるものであるとされる。

 これは伝統的な資本主義のレトリックではなかった。むしろ、それは一種の逆マルクス主義であった。興味深いことに、この言葉遣いは主に反対側からの亡命者によって最初にされた。最も悪名高いのはロシアの亡命者アイン・ランドだ。1946年に最初に出版された彼女の著書『資本主義:知られざる理想』は、1987年から2006年までアメリカ連邦準備制度理事会の議長を務め、新自由主義正統派の真の最高司祭となる若きアラン・グリーンスパンに大きな影響を与えた。極右の言葉遣いとして始まったものが、すぐにほぼあらゆる場所で採用されるようになった。1980年代までに、再評価された資本主義という言葉は、左派よりとされるニューヨーク・タイムズの編集長によって特別な目的で採用されたようだ。この時期、同紙はおそらく少なくとも100の異なる見出しと社説を掲載し、左派政権または政党が「資本主義」を受け入れることを余儀なくされたと発表した。マルクス主義体制の崩壊後、タイムズ紙のコラムニストたちは資本主義が急進的な力であるという考えに夢中になり、同紙上ではチェ・ゲバラが生きていたなら、純粋な革命的熱意から自由市場の改革者になったかどうかについて活発な議論が繰り広げれられた。

 この文脈でのみ、絶対的な個人主義のレトリックがどのようにして新興の官僚機構の基盤となったのかを理解できると私は思う。それは革命の言葉とともに慌ただしく息を切らしながら到来した。問題は、これが単なる言語ではなく、それが引き起こした革命的な側面が、ほとんどの場合、最も悲惨なものだったことだ。実際、新自由主義の立場の本質はスターリン主義と、というのは、1920年代と1930年代にマルクス主義革命家が官僚国家の創設を正当化するために使った議論まで、驚くほど類似している。これを次のように要約できるだろう。「科学は、前進できる道は一つしかないことを示している。それは地球上のどの社会でも同じである。これを理解し、社会を適切に再構築する力を与えられるべき、科学的に訓練されたエリートがいる。この科学の訓練を受けていない人々の経済的な見解は無意味である。だから黙って言われたことをすることだ。たとえ短期的にはこれが大きな苦痛と混乱、さらには飢餓と死を引き起こすかもしれないとしても、いつかは(いつになるかは分からないが)、すべてが平和と繁栄の楽園につながるからだ。」

 1930年代にソ連の官僚がロシアの農民に説いたのと同じ主張が、今ではほぼすべての人に説かれている。唯一の大きな違いは、今では歴史的唯物論がミルトン・フリードマン流の自由市場経済学に取って代わられたことだ。1989年以来、ポーランドからベトナムに至るまで、多くの紛れもないスターリン主義者の官僚が一つの正統派から別の正統派へと簡単に切り替えることができたのも驚くには当たらない。根本的な飛躍はほとんど必要なかったのだ。

 明らかに、新自由主義的なグローバル官僚機構は、ユートピア的ビジョンを押し付けようとする点で、旧共産主義の官僚機構ほど直接的には介入していない。しかし、人生のあらゆる側面を市場の論理に従わせるという究極の理想は、金融家のジョージ・ソロスのような離反者が好んで指摘するように、その野望においてはむしろ、同等に全体主義的である。さらに、その効果の多くは不思議なほど類似している。ソビエト政権下では、イデオロギーの議論は言うまでもなく、政治生活は非合法だった。すべての政治的問題は解決済みとされた。残るのは、最終的には消費者の楽園を創り出すことを目指していることになっている、経済行政だけであった。その結果、中央に対して政治的主張ができる唯一の方法は、何らかの民族的、または文化的アイデンディティを主張することだった。例えば、カザフ人が原子力発電所を手に入れるとなれば、私たちウズベク人もそれを手に入れる資格があるはずだというように。アイデンティティ・ポリティクスは官僚機構が受け入れ可能と判断した唯一のものだった。その結果、これらの国家が解体すると、多くの国家が即座に民族間の戦争に陥った。かなり似たようなことが現在世界規模で起こっていることは明らかだ。特に共産主義の崩壊は、イデオロギー的、つまり政治的な議論が終わったことを意味すると解釈された。その結果、アイデンディティ・ポリティクスは正当であると見做されるだけでなく、非常に現実的な意味で完全に正当であると見做される唯一の政治形態になった。場合によっては、グローバル官僚機構との繋がりは非常に明確だ。既に指摘したように、新自由主義はあらゆる集団的財産形態を排除することを目指しており、唯一許容される例外は「先住民」に分類される人々である。その結果、世界中で先住民族としての地位を主張する試みが相次ぎ、その中には、以前は自分たちを先住民族と称することなど夢にも思わなかった多くの集団(ケニアの牧畜民マサイ族など)も含まれる。もっと広い視点で見れば、サミュエル・ハンチントンの、イデオロギーの時代が終わった今、残っているのは「文明の戦争」(つまり、宗教と文化のアイデンティティ)だけだという主張は、他のあらゆる歴史の終焉を宣言しようとすることの論理的帰結を完璧に表現している。

代替手段、あるいは「何を目的として上手く機能するのか」

 マルクス主義のより粗雑な変種から借用したこの二元論的枠組みがなければ、「共産主義は失敗した」ので、どこにも存在したことのない、純粋な自由市場資本主義という理想を目指す以外に選択肢はないと主張することは不可能だろう。そうでなければ、この議論は、聖公会との長い闘いの後にカトリック教会が崩壊するのを目の当たりにして、したがって私たち全員がバプテスト(あるいはユダヤ教徒)にならなければならないと結論付ける人の議論と同じくらい意味をなさないだろう。歴史をもっと冷静に評価すれば、冷戦に勝つ最も効果的な方法は、限られた社会福祉プログラムと、経済を刺激するための政府の巨額の軍事費の組み合わせであるという結論に至ったように私には思える。また、貧しい国々が豊かな資本主義諸国に経済的に追いつくための最も効果的な方法は、市場の力、主要産業の保護、戦略的な輸出、教育とインフラへの大規模な政府投資を組み合わせたことであると。そして、世界の人口の約10%に可能な限りの物質的生活と最大限の自由を与え、一方で下位3分の1を狼の手に投げ捨てることが目的であるならば、新自由主義こそが間違いなく最善の策であると。また、これらはどれも、「普通の人々が基本的なニーズを満たし、自分にとって最も重要なことを自由に追求できる世界を実現する最も効果的な方法は何か」あるいは「地球が破壊されないようにするにはどうすればいいか」などの他の疑問とは必ずしも関係がないように思える。

 資本主義そのもの、少なくとも産業資本主義は、歴史的に見て非常に短い期間しか存在していない。しかし、わずか200年の間に、種の存在そのものに対する脅威を生み出す驚くべき能力を示してきた。最初は核による壊滅、今度は地球規模の気候変動だ。これは長期的には実現可能なシステムではないと信じる十分な理由がある。最も明白なのは、これが継続的な成長の必要性を前提としており、資源が有限な地球では経済成長は永遠に続くことはできないからだ。生産を継続的に拡大する必要性に基づかない資本主義は、単に資本主義ではないだろう。その根本的な力学は変化し、何か別のものに変わるだろう。50年後にどのような経済システムが支配的になるにせよ、それは資本主義以外のものになる可能性が非常に高い。もちろん、その何かはさらに悪いかもしれない。だからこそ、今はまさに資本主義に代わるものを想像すること、つまり、実際に何がより良いのかという考えを出すことを諦めるには間違った時期であるように思える。

 だからこそ、私にとって、新自由主義に対する抵抗運動は非常に重要なのだ。これらは、1980年代に世界のほとんどの地域でほとんどすぐに始まり、主に何らかの共有財産を守るための草の根運動を中心に形作られた。[23] 当初、それらはほとんど繋がってなかった。1994年にチアパスで起きたサパティスタの反乱は重要な瞬間だった。実際、サパティスタが最初に国際会議を主催し、それが最終的にメディアが「反グローバリゼーション」運動と呼ぶようになった運動を生み出した。サパティスタが言うように、「人類のために、そして新自由主義に反対する」真に世界的な運動だ。1999年11月のシアトルでのWTO会議、その後のワシントンとプラハ(IMFに対して)、ケベック(米州自由貿易協定[FTAA]に対して)、そしてジェノア(G8に対して)での目を見張る大規模な行動はすべて、何よりもまず、世界経済政策を統制するようになった組織の非民主的な性質を世界に明らかにすることが目的だった。言い換えれば、彼らは、世界のほとんどの人々が明白な結論を導き出すだろうと言う仮定のもとに、この新たなグローバル官僚機構の存在そのものを指摘する役割を果たした。この点で彼らは驚くほど成功した。2年も経たないうちに、1990年代には自明の真理として扱われていた新自由主義の主要教義のほとんどが、あらゆるところで疑問視され始めた。WTOを拡大し、FTAA条約のような新しい貿易協定を締結するという野心的な計画は、完全に頓挫した。

 実のところ、テロとの戦いが米国の活動家や国民の注意を逸らし始めて以来、新自由主義の元々の仕組みのほとんどが危機に陥っていることに誰も気づいていないというのは少々皮肉なことだ。2006年にWTOの「ドーハ・ラウンド」は失敗と宣言され、WTOの存在そのものが疑問視されている。IMFは、むしろさらに深刻な危機に陥っている。2002年にアルゼンチン経済が崩壊し、真に政治階級全体に対する民衆の反乱が起こった後、2003年に選出された社会民主党の大統領ネストル・キルチネルは、政府という概念そのものの正当性を回復するために劇的な行動を取らなければならなかった。そこで彼は、アルゼンチンの対外債務のデフォルトを起こした。これはまさにIMFが起こらないようにしなければならなかったはずのことであり、国際銀行家たちはIMFに、アルゼンチンに介入して罰するように促したが、ついにその時はそれができなかった。これにはさまざまな理由があった(部分的には世界的な運動によってIMFが社会の除け者にされていたという事実、部分的にはそもそもその破滅的なアドバイスがアルゼンチンの危機の大きな原因であったことを誰もが知っていたこと)が、結果的に負債による権力構造全体が崩壊し始めた。アルゼンチンとブラジルはIMF債務を全額返済し、その後すぐに、ベネズエラのオイルマネーの助けもあり、ラテンアメリカの他の国々も続いた。(2003年から2007年の間に、ラテンアメリカのIMFに対する総負債額は98.4%減少し、これで彼らの借りは基本的に無くなった。)ロシア、インド、中国もこれに追随し、韓国、タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンなどとともに、現在では新たな融資について話し合うことさえ拒否している。その結果、アフリカを支配する立場に大きく落ち込んだIMF自体、急速に破産に陥りつつある。世界銀行は存続しているが、収入は大幅に減少している。

 こうしたことはすべて、米国民の目を逃れて起こっているようだ。一方、世界のほとんどの国では、これまでと異なるより人道的な世界経済がどのようなものになるかについて、活発な議論が続いている。米国では、この運動は改革主義(「反企業主義」)と革命主義(「反資本主義」)のアプローチの間で大きな議論を巻き起こしてきた。世界の多くの国では、こうした議論は国家の潜在的な役割に焦点が当てられるようになった。国家政府の庇護のもとで新しい形のコモンズ(土地、水、石油などの共有資源に対する権利の回復)の創出を望む人々と、国家を完全に拒否し、事実上ある種の自由主義的共産主義を通じて、国境や政府官僚機構のない、直接民主主義を通じて資源を管理する自由なコミュニティの連合体の上に築かれた、いわゆる「真のグローバリゼーション」の世界を夢見る人々を対立させながら。こうした対話から何が生まれるのか、新しい民主主義の形が実際に生まれるのか、それとも世界的な官僚機構の構造の再編が見られるだけなのかを判断するのは時期尚早だ。新自由主義は決して死んではいない。インドや中国など新興国では、国際的な反対勢力を結集することがはるかに難しい中で、同様の改革が大規模に行われている。しかし、私たちはその議論の数々に注意を払うべきだろう。なぜなら、それらは人類の未来の歴史にとって決定的なものとなるかもしれないからだ。

[1] ソースはそれぞれ、Alex Emery, “Bolivia’s Morales to Challenge U.S. after Election” (Update 3), Bloomberg Wire Services, December 19, 2005, www.bloomberg.com/apps/news?pid=10000086& sid=aEbMZeNviHPE; “Alternative Left Parties Sign Cooperation Agreement,” Deutsche Welle, December 11, 2005, www.dw-world.de/dw/article/0,2144,1811746,00.html; George Dor, ed., “Alternatives to Neo-Liberalism,” special issue, Pambazuka News, no. 234 (December 15, 2005), www.pambazuka.org/ en/issue/234.
[2] これは言い換えだったが、正確な引用はこうだ:"I feel about globalization a lot like I feel about the dawn. Generally speaking, I think it’s a good thing that the sun comes up every morning. It does more good than harm . . . . But even if I didn’t much care for the dawn there isn’t much I could do about it." (私はグローバリゼーションについて、夜明けについて感じるのと同じように感じる。一般的に言って、私は太陽が毎朝昇るのはいいことだと思う。それは害よりも益をもたらす。しかし、私が夜明けをあまり気にしていなかったとしても、それについて私にできることはあまりない。) Thomas Friedman, The Lexus and the Olive Tree(New York: Anchor Books, 2000), xxi–xxii.
[3] David Harvey, A Brief History of Neoliberalism (New York: Oxford University Press, 2005).
[4] サッチャーはこの点では例外のようなものだったが、彼女でさえ一般投票の3分の1以上を獲得したことはなかった。
[5] より正確に言えば、利息は元本にカウントされない。1980年代半ばまでに、ほとんどの貧しい国々は実際に借りた金額よりも返済した金額の方が遥かに多かった。しかし、金利は全額返済を事実上不可能にするほど高く設定されていた。
[6] 債務救済を政治改革に結びつけるというアイデアは、レーガン政権の国務長官ジェームズ・ベーカーの発案で、ベーカー・プランとして知られるようになった。
[7] マダガスカルの事例は、非暴力革命によって、かつての独裁者ディディエ・ラツィラカに取って代わった政権を握った外科医ザフィがIMFの助言を聞いて豊かになった貧困国の例を一つ挙げろとIMFに要求する不遜さを持っていたため、なおさらよくわかる。彼が署名を拒否した後、経済的荒廃によって、次の選挙で政策の撤回を誓ったラツィラカに敗れた。5年後、ラツィラカは再び民衆の蜂起によって追放されたが、今度は新自由主義的なヨーグルト王によってである。
[8] NAFTAに調印した政府が選挙で正当に選ばれたのではなく、詐欺によって勝利したことを考慮すれば、なおさらである。
[9] Janine WedelのCollision and Collusion: The Strange Case of Western Aid to Eastern Europe, 1989– 1998 (New York: St. Martin’s Press, 1998)を見よ。Wedelは、この驚くべき物語を語った最初の人類学者である。
[10] この大きなシステムと各国政府との関係は新自由主義の時代を通じて大きく変化した。当初は、政府そのものが問題であるとして広く描かれた。その単純な除去は、市場メカニズムの自然発生に繋がると考えられていた。しかし、投資家たちはすぐに、貪欲を公然と奨励し政府という概念そのものを軽んじることで、極端な腐敗が助長され、それがビジネスの邪魔になることに気づいた。東ヨーロッパの多くで「ショック療法」が自由市場ではなく、無法な「ギャング資本主義」をもたらした後ではなおさらだ。クリントン政権下では、「適切な統治」という考え方に重点が移され、特に外国投資に資する誠実な法環境を維持する必要性が強調された。
[11] World Commission on the Social Dimension of Globalization, A Fair Globalization: Creating Opportunities for All (Geneva: International Labour Office, 2004); UN Development Program, “Human Development Report,” 1999, and “Human Development Report,” 2003.
[12] 中国が除外されているのにはいくつかの理由がある。最初の期間は、自国主義的な政策によって、ある程度は大きなシステムの外に置かれていた。次の期間では、政府は新自由主義政策の主要な原則を劇的に誇示しつつ、他の発展途上国が放棄を余儀なくされていたような計画、保護、容易な信用取引条件を戦略的に展開していた。
[13] Robert Pollin, Contours of Descent: U.S. Economic Fractures and the Landscape of Global Austerity (London: Verso, 2003).
[14] 統計が曖昧に見えることがあるとすれば、それはこれらの数値の多くが東アジアの大部分で改善したためであり、通常、医療や教育の縮小や民営化を求めるIMFの圧力に抵抗した国々こそ改善したのである。アフリカとラテンアメリカでは抵抗できる国がほとんどなかったため、数値は劇的に低下した。
[15] フィンランドは2004年以来、特別な位置を占め続けている。世界経済フォーラムの2004-5年ランキングでは、フィンランドに次いで米国、スウェーデン、台湾、デンマーク、ノルウェーの順となっている。注目すべきは、上位6カ国には、新自由主義の正統派を支持する国は一つも含まれていないことだ。というのも、アメリカ自身は、他国政府に促している戒律のほとんどを常日頃から反故にしているからだ。レポート全文は、World Economic Forum, “Global Competitiveness Report 2004–2005,” October 2004, www.weforum.org/en/initiatives/gcp/Global% 20Competitiveness%20Report/PastReports/index.htmを参照。
[16] これは、経済学の古臭い知恵の完璧な例と言えるかもしれない。「銀行から100万ドル借りれば、銀行はあなたを所有する。銀行から1億ドル借りれば、あなたが銀行を所有する。」
[17] Walden Bello, Future in the Balance: Essays on Globalization and Resistance (Oakland, CA: Food First Books, 2001). See also Walden Bello, Dark Victory: The United States, Structural Adjustment, and Global Poverty (Oakland, CA: Institute for Food and Development Policy, 1994).
[18] Bello, Dark Victory; Harvey, Brief History of Neoliberalism; Immanuel Wallerstein, The Decline of American Power: The U.S. in a Chaotic World (New York: New Press, 2003).
[19] この言葉はRichard OvertonのAn Arrow against All Tyrants (Exeter: Rota, 1976)からのものである。所有的個人主義の政治理論に関する最良の論考はC. B. MacPherson, The Political Theory of Possessive Individualism (Oxford: Oxford University Press, 1962)にある。
[20] Giovanni Arrighi, The Long Twentieth Century: Money, Power, and the Origins of Our Times(London: Verso, 1994).
[21] IMFが国連の傘下で運営されているという事実は、国連の世界人権憲章が、すべての人間には食料と住まいの権利があると定めていることを考えると、とりわけ皮肉なことである。そのような権利を執行する能力はこれまであまり示されてこなかった。しかしIMFは、そのような原則に触発された政策を実施しようとする国に対して極めて組織的にかつ効果的に介入してきた。
[22] 1980年代と1990年代には、特に一次産業のアウトソーシングや、アジアに触発された新しい「ジャスト・イン・タイム」生産戦略によって、官僚組織の一部に市場要素が導入された。その一方で、所有の集中も前例のないほど進んだ。例えば、米国のほぼすべてのデパートが現在メイシーズ・リテール・ホールディングスという一つの企業によって所有されていることを知っているアメリカ人はほとんどいない。つまり、企業の官僚機構はより柔軟になったが、はるかに大きくなった。
[23] 資本主義におけるさまざまな「コモンズ」の重要性に関する最も鋭い分析は、ミッドナイト・ノーツ・コレクティブによって行われた。彼らは、資本主義者がコミュニティの集団的利益のために管理するあらゆる形態の共有財産が民営化されるか、あるいは排除される世界を望む一方で、自らの利益のために新たな形態のコモンズの創造も推進していることを最初に強調した。例えば、研究、輸送、廃棄物処理、新しく精巧なセキュリティ機能に対する共同責任などだ。そのため、集団的資源の定義と管理をめぐる闘争は、21世紀の南米の社会主義者や中東のイスラーム運動など、一見互いにほとんど関係がないように見える世界的な抵抗闘争の共通テーマとなっている。この考え方への最良の入門として、“Midnight Notes Collective,” last updated January 4, 2005, www.midnightnotes.org/index2.htlを見よ。


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