DIABOLOS 第3話

 そこは警察署の一角にある薄暗い空間だ。そこは狭く、そして薄暗い。窓はなく蛍光灯が一つしか点けられてなかった。天井の隅っこにある換気口から微かに黴臭い冷気と、小さな虫が這う音がしているだけで、そこは陰に覆われていた。この室内では外界の景色は全く見えないため時さえ止まっているように感じるし、時間も流れていないかのように錯覚する。それは時間の経過を感じさせない異質な空間であることは明らかであった……
「カオリちゃん、だっけ? じゃあ君は、事件前日に溝呂木聖也から犯行予告の手紙を受けた……そういうことなんだよね?」
「はい……」
「なるほど」
 柘植基博警部、蝶野貴、そしてカオリ、三人でテーブルを挟んで向き合う形でパイプ椅子に座るカオリ。現在カオリは、警視庁捜査一課である柘植警部に事情徴収をされつつ、事情聴取を受けていた。
「ま、とりあえず」
 柘植警部は、
「一杯ど? 君、いける口?」
 警察署の冷蔵庫からビールを三本取り出した。警視庁捜査一課の柘植警部が、そのビールをテーブルに置きビールを開けながら訊いた。
「え? ええ」
 カオリは小さく頷いた……
「警部ー!」
 蝶野貴は大声で叫んだ。
「何? この方がお互い、話しやすくていんじゃない?」
 あくび交じりに柘植警部は返事をし、面倒くさそうに頭を掻き、気だるげに振り向いた。その様はまさに「刑事」ではなく、ただだたのやる気がない中年の男そのものだ……。
「君は、溝呂木聖也とは専門学校の同期だったそうだね?」
「……はい」
 それは、もう過去のこと。今は存在しない架空のものだ……
「小さな専門学校だ。ま、男女いろいろあるだろうけど、そこは野暮に問わないよ」
 ……と、その一言で片付けられたら楽だろう。もう悩まされることも、煩わされることもない……だが
「ただ……君、溝呂木が専門を出た後のことは知ってるかい?」
「……いえ」
 実際にはカオリは今も過去に囚われている……
「まずね、彼……奥さん亡くしてる。いや、厳密には……彼が自分で殺したんだ」
「!?」
 その過去が、まるで呪のように、現在(いま)にまとわり憑いて離れないのだ。
「なんですって!?」
 だからなのか、あんな大声を出してしまった。
「……」
 カオリはなんだかいたたまれない気持ちになった。溝呂木聖也の重すぎる過去、その断片を今、彼女は知ったのだから……
「溝呂木の妻は、ある日、突然倒れたんだ。若年性脳梗塞だった。彼女が倒れた夜、不運にも溝呂木は介護の夜勤で家には居なかった」
「!?」
「だからなのか発見が遅れ、病院に緊急搬送された頃には……彼女の手足は動かなくなってしまっていた」
「……」
「それから溝呂木は、自分の働く築山園で彼女の介護を担当した」
「……」
「当時働いていた同僚の証言では、その姿はまるで罪滅ぼしのように必死だったという。人が変わったように、何もかも忘れて働いて、彼女を介護して、世話をして、食事を食べさせ、トイレに運び、また眠らせて、寝かせて、起き上がらせる。それは義務なのか、献身なのか、贖罪なのか、愛情なのか、それとも呪いか……溝呂木はどんな気持ちだったのだろう? 介護という仕事、それが皮肉にも彼女の発見を遅らせ、彼女の手足を奪い、彼女をこの現場に誘った。愛する妻を介護する……それは義務なのか、献身なのか、贖罪なのか、愛情なのか、それとも呪いか、溝呂木が彼女に尽くさなければ、彼女はもう生きることができない。では彼女は? 手足の動かなくなった彼女が、逆に溝呂木に尽くせることは? そんな現実という日常を過ごしてきた溝呂木は、何を思ったのだろう? 介護とは? 福祉とは? 生命とは? 純愛とは? ただひとつ言えることは、彼は妻を……」
「もうやめて!!」
 カオリは思わず叫んでしまった。自分でも……叫んだ自分に驚いた。それは今までずっと溜め込んでいたものが爆発した瞬間でもあった……
「どうして……」
 だが彼女は、
「どうして…………」
 まだ、
「どうして……私なんですか?」
 現実を直視できないでいる。もうずっと、『愛や正義を叫ぶこと』について真剣に向き合ってこなかった彼女、だからか咄嗟に出た言葉がそれだった。
「君と溝呂木の間に何があったのか。そんな野暮なことは問わないよ、ただ」
 柘植警部は、一枚の名刺を取り出した。
「また溝呂木から犯行予告が来たら、連絡してほしい。
 その名刺には、「警視庁・捜査一課警部 柘植基博」と書かれていた。
「判りました」
 カオリは複雑な感情を抱えながらも、小さく返事をし頷いたのだった。
「……」
 柘植警部はブラインドを指で押し下げつつ、帰路に着いたカオリの後ろ姿を見送っていた。
「大丈夫ですかね? 警部」
 蝶野貴は不安げに言う。
「ま、大丈夫じゃない? 想いはあるみたいなんだから」
 柘植が、煙草を咥えながら言った。
「想いねぇ……」
「失礼します、警部」
 そこに、若手警官がノックをする。
「お客様がお越しになりました」
「!?」
 すると後ろから中肉中背の男性が現れた。
「あんたか、溝呂木聖也の事件を担当している警部さんってのは」
 年の頃は四十代前半といったところだが、どこか陰があるようで眼つきが悪くその面持ちからは得体もしれない雰囲気を滲み出している……
「公安調査庁の御厨浩哉です」
 彼はそう言って小さく頭を下げて挨拶し、名刺を差し出しながら名を名乗った。その眼つきの悪い顔とは裏腹に、その物腰からは気品が滲み出て、まるでどこかの貴族のようだと思った。だがそれはどこか裏の世界の住人のようでもあり、そのギャップと得体が知れなさが彼の魅力を一層際立たせている。
「これはご丁寧に」
 挨拶を交わしながらも、柘植基博の眼は彼の雰囲気の中に何かを見つけようと神経を張り巡らせていく。
「で……私の元に来たのは?」
 あからさまな催促はしないが、そう彼に尋ねた。
「はい実は……溝呂木聖也のことでお話があって伺ったのです」
 そう言って彼はバッグの中から資料を取り出すと静かにテーブルに置いた。彼はまるで貴族のような品格に溢れる表情と仕草だが、その表情に反して言葉遣いは一切乱れる事はない。ただ淡々と話すのだ。
「優生協会……という組織はご存知ですか?」
 御厨浩哉は、静かな表情を崩すことはないままに静かにそう言った。
「……いや? 初耳だな」
「優生思想ならご存知ですか?」
「優生思想……」
「この思想の源流は、ナチス第三帝国のアーリア思想にあると言われております。つまり優秀な人類だけの社会を築き、何世代も交配していくことで、より優秀な人種が後世に残るという思想ですね。逆に言えば劣勢遺伝子は淘汰されなければならないという思想。当時のナチス党では、実際に生命の泉:レーベンスボルンと呼ばれるような、優秀と見なされた人間のみを集めて交配を続ける施設や、逆に劣勢遺伝とみなされた人間を安楽死させる計画:T-4(テラ・フォー)作戦などがあったそうです。その劣勢遺伝とみなされた人間の具体例は……障害者や同性愛者、LGBT、精神障害者、身体障害者、先天的に四肢がないモノ……など。それが優生思想の本懐です。つまり、障害者を亡くして健常者だけの国家を築き上げよう、という思想です」
「ほぉ……」
「そしてその優生思想を、現在この日本で信仰している組織がいる。それが優生協会。彼らは、この日本に生を受けた者は全員、優生であり健常で在らなければいけない。つまりは障害をもって生まれてきてしまった人間など、生きる意味のない人間なんだという思想を信仰しているわけです。元は大日本翼賛会という極右団体から枝分かれした組織ですが、日本中に施設と会員を持つ秘密結社となりました。『障害者を生かすこと=罪』その信仰のもとに、彼らはまるで自分たちが神の使徒であるかのような口上を並べながら日々活動を続いています」
「で、それをなぜオレに話す必要があるんです?」
「ここからが本題なんです。彼ら優生協会は、最近、溝呂木聖也と同盟を結び、大規模なテロ活動を計画していると聞き及びました」
「!?」
「そのテロ計画の一端がこちらの資料です」
 と彼が差し出した紙のタイトルは、『T-5(テラ・フィフ)作戦』と書かれており、彼等がここ最近、輸入・購入した資材の一覧が記されていた。
「内容はとても作戦と言えた代物でない。むしろ暴徒に近い。彼等が仕入れている武器は、ガソリンや鉄パイプ、釘バットに、果ては火炎瓶までだ。とても戦争を仕掛ける為の準備とは思えない。まるで子供の駄々に、国家を巻きこんだような有様です」
「これを溝呂木聖也と?」
「はい」
「……いや、違うな」
 柘植基博警部は確信めいた口調で言った。
「優生協会と溝呂木聖也、なるほど確かに類は友を呼ぶだ。だが肝心の手口が相反する。あいつのこだわりはあくまで『安楽死』だ。駄々をこねるガキのようなネオナチ団体とあいつの思想は、根本的に馬が合わないハズなんだよ。それが、どうやって手を組む?」
「ふふふ……なるほど、いい指摘だ。だが優生協会と奴が実際に接触を重ねてる……と言ったら?」
「それでも奴は組まないと思う。優生協会自体は溝呂木に興味深々だろうさ。自分たちがやりたかったことを独りでやってのけるカリスマなんだからな。だが肝心の溝呂木にその気がなけりゃ片想いもいいトコだろ? 後は溝呂木ナシの暴走だ。オレ達でなくあんたら公安の管轄だ。違うか?」
「クッ……ククク」
 御厨浩哉は喉を鳴らし、
「確かにな……そうかも知れない」
 と言って肩をゆすって嗤った。
「さすが元公安の切れ者。まだ勘は衰えてないな」
 彼は不敵かつ不謹慎に嗤い言った。
「だが柘植さん。ひとつ忘れてもらっては困る。優生協会も溝呂木聖也も所詮は醜い人間。思想の本質は自分を満足させる飾り、または自分を正当化する為の方便だ。ならば、エゴこそが全ての根幹。エゴが思想に勝ることはあっても、劣る事はまず無いと断言しよう。人間はね、結局は非合理の生き物なのさ」
「そのセリフは誰に対しての代物だ。優生協会? それとも溝呂木聖也? それとも……」
 と柘植基博が尋ねるも答えは返ってこない。代わりにこう切り返しただけだった。
「さて、私はこれで還らせてもらうよ」
 そう言い残し、踵を返す彼の後ろ姿にどこか不穏な気配を憶えたのであった……

 カオリは部屋の布団に崩れ、うつぶせになる。そしてベッドの白いシーツを手で摑み寄せるようにしながら頭を押し入れ、身体を丸めつつ、顔を埋めて泣いた……その涙で湿ったシーツを頬と耳の両方で感じながら泣き続けるのだった。それは哀しみであり、恐怖であり、愛であった。だがどれも等しく今の彼女には重過ぎるものでしようがないのである。
「私は一体、どうすればいいの?」
 彼女は問うても応えのない問いを繰り返す。そんな悲しみと諦めが交互にカオリを包みそうになる夜が明けて……
 窓に映る外の空は、もうすでに青く澄んでいた。朝の爽やかな風に白いレースのカーテンが揺れていた。彼女は自分がとても疲れていることを感じると同時に、昨日よりは幾分楽になっていることも悟った。それはきっと絶望という名の安息に身を休ませたからだけではないだろう……と自答するように言い聞かせつつ
「また生きるのか……」
 とぼやくようにつぶやきながら布団を畳んで押入に直し、少し気持ちを切り換えて服を着替える。今日も仕事なのだ、しっかりしなきゃと自分に言い聞かす。しかし、やはり不安が拭えないのも確かであった……だが彼女はその不安を必死に振りほどいて仕事へ向かおうとした。そんな時のことである
「!?」
 ドアの扉に、一枚の手紙が貼り憑けられていた。
「え……」
 手紙にはただ簡潔に一言、こう記されていた。
ーー大口はじめ園を放火し、400人の障害者を消す 溝呂木聖也
「これって……」
 カオリはその文面を見つめ愕然とした表情を浮かべる、しかし同時にある思いが胸に去来する 。もしこれが本当なら、とても恐ろしい事が起きる。恐怖、混沌、憎悪、怨念、そして絶望。それらが焔と化して圧倒的な闇となる。阿鼻叫喚の地獄絵図。まさにこの世の地獄、死が充満する地獄の光景。そんな景色が浮かんでしまう。
「そんな、信じられない」
 思わず口に出した言葉通りだ。今こうして目にしてもその文面が俄に理解できなかったのだ。いや理解したくないというのが正しかった。カオリは慌ててスマホを手にする。アドレス帳から柘植の連絡先を呼び出し、通話ボタンを押した。
「もしもし! 柘植さん。いま、溝呂木聖也から犯行予告が」
「!?」
「大口はじめ園を、放火するって……」
「なに……」
 柘植基博は一瞬考えた。放火……それは、安楽死にほど遠い。むしろ虐殺に近い。なんだ。何が彼の手口をここまで変えた。カオリの動揺ぶりも尋常ではないが、それは柘植も同じだ。彼はこの一連の手口の変化に違和感を覚えていた……
「優生協会……」
 柘植の頭には御厨が話したその組織の名がよぎった。まさかな……このタイミングで偶然か。それとも必然なのか。いやそんなわけがない。柘植基博の本能が「それは違う」と言っている。だがこの一連の流れ……偶然にしては出来すぎているではないか……彼は鋭い視線で虚空を睨み、煙草の煙をゆっくり吐き出すが如く大きく息を吐く。しかし彼の口元はやがて緩くなり、「ふ……」っと軽く笑みを漏らしたのだった。

 つづく 

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津久井山百合事件、植松聖事件をモチーフに描いた大作ミステリー・サスペンス小説! 安楽死問題、日本の福祉の問題、重複障害者の社会における必要…

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