離婚道#30 第4章「相談その2 婚姻費用」
第4章 離婚へ
相談その2 婚姻費用
離婚弁護士、久郷桜子。
にわかには信じがたい状況であるが、私の離婚相談において、相談に応じる弁護士が、奇しくも自らも離婚問題の渦中にいると聞かされた。
「あのう、失礼ですが、先生はおいくつなんですか?」
「いま53歳です。まどかさんより4学年上ですかね」
主客転倒の質疑応答をきっかけに、久郷弁護士は自らの状況を簡単に説明した。
「私は弁護士になったのが39歳だったんです。同期の弁護士と40歳で結婚しました。私は夫よりも6歳年上なので少し負い目も感じ、弁護士の仕事をしながら、料理もめちゃくちゃ頑張りましたし、夫には尽くしましたよ。・・・・・」
久郷弁護士によれば、結婚直後から、夫が怒り出すと自分の感情を制御できなくなることがあり、そのうち久郷弁護士のことを「お前はバカだ」「仕事ができない」などと暴言を浴びせ、暴れるようになったという。
しかし久郷弁護士は我慢した。どうしても仕事が優先して、夫婦問題は二の次になってしまう。加えて、夫は親に甘やかされて育ち、料理や掃除、日常の整理整頓ができないため、生活全般で久郷弁護士に依存していた。久郷弁護士としても自分が離れたら夫が可哀そうという感情があった。それに、仕事面でも共依存の関係で、ここ「上野さくら法律事務所」は、夫婦の共同経営なんだとか。
「事務所のホームページに出ている男性弁護士は、久郷先生のご主人なんですか?」
「はい。事実婚なので、姓は違いますが。今は外出していますから、こうして話ができます。私の場合も、まどかさんと同じで、私の母が夫を気に入らなくて、結婚に猛反対しました。いま、こんなことになって、母からは『ほら、見ろ』と言われますし、周囲からも結婚前に夫の難点に気づかなかったのかとずいぶん疑問視されますが、私は見抜けなかった。結婚する前は相手がそんな面を見せませんから、見抜けないですよ。夫は結婚後に発達障害だと診断され、通院していました。薬を飲むと良くなることもあったので、改善することを期待して辛抱し続け、13年も辛い結婚生活を続けてしまった。だから、まどかさんのお気持ち、本当に理解できるんですよ」
「そうですか・・・・・先生も大変ですね。でもですね、先生は離婚できます。離婚しても弁護士という職業が先生の生活を支えてくれるじゃないですか。私は専業主婦ですし、今年50歳という年齢を考えると、これから仕事を再開できるかどうか・・・・・。離婚後の生活にやはり自信が持てません」
「財産分与がありますよ。おわかりだと思いますが、財産分与というのは、婚姻中に築いた財産を夫婦できっちり半分ずつ分けることです。ご主人は経済力がある方のようですから、財産分与があれば、離婚後の生活基盤になると思いますよ」
(財産分与かぁ・・・・・)
久郷弁護士と会話をするうちに、自分自身を守るために雪之丞とは別居した方が良いだろうと思い始めていた。しかし、これまで離婚を決断できないでいたのは、財産分与の問題が重くのしかかっていたからだ。
私は親にも話したことがない事情を、ここで久郷弁護士に言わなければならないと思った。財産分与について、ある程度の勝算を確認するまでは、どうしても一歩踏み出せない。
「実は、財産分与は難しいと思っています。吉良は、自分の財産を銀行預金していません。自宅に2つ、会社に1つ金庫があり、銀行と契約している最大サイズの貸金庫を加えると計4つの金庫内にほぼ全部の資産を保管し、金庫の鍵は吉良が管理しています。ですから、婚姻中の財産は表に出てこないと思います。『籍を抜くが一銭もやらない』と言い切る吉良には、財産分与せずに離婚できる自信があるんです」
――そうなのだ。
雪之丞は結婚当初から長年にわたり、財産を隠している。だから夫婦の財産を明らかにできない――それが、私の抱える離婚問題の最大のネックであった。
「はぁ、そうですか・・・・・。あのう、ご主人は脱税でもしてるんですか?」
「いいえ、とんでもない。私は会社の経理をやっていますから、そこは大丈夫です。吉良は銀行を信用しないので、銀行が破綻した場合に備え、保護される最大額の1000万円以上は口座に入れないようにしています」
「あぁ、ペイオフですね」
「はい。吉良は生活のあらゆる支出を会社の経費で精算していて、自分のお金をほとんど使いません。雪花堂から月々の給料が振り込まれ、預金残高が数千万円に増えると、1000万円単位で引き出して金庫に入れるというやり方で預金額が増えないようにしています。それに日本円も信用していないので、金融資産の三分の一程度は純金に換えています。ですから、金庫の中には現金とゴールドバーが入っています。同居した時、自宅に大きな金庫が置かれていてビックリし、吉良にそのような抜け目のない一面があることを初めて知りました。そういう人が夫というのがなんとなく恥ずかしく、私は吉良家のお金の事情を親にも言っていません」
「金庫のお金を数えたことはありますか?」
「はい、一部ですが。東日本大震災の直後、自宅にある2つの金庫のうち、大きい方の金庫の合鍵を渡され、数えるよう指示されたことがあります。吉良が結婚前に購入していた大量の純金と現金が約5000万円ありました。純金は計算書と一緒に保管されていたので結婚前の購入品だと分かりました。しかしその3年後、浮気を疑われるようになって、金庫の鍵を取り上げられました。中を確認したことがあるのはその時期だけで、4つの金庫のうち1個のみです」
「金庫の中身は写真撮りました?」
「いいえ。当時、こんなことになるとは思っていませんでしたから」
「そうですか・・・・・。でも、不動産がありますよね。それは婚姻中に購入したものですから、その半額はまどかさんに分与されますよ」
久郷弁護士はそう言うが、京都のマンションも財産分与されるかどうか疑問であった。
というのも、物件は現金5000万円で一括購入している。それは雪之丞が雪花堂に置いている金庫の中の現金だった。財産分与の対象となるのは、婚姻後からの「共有財産」であり、婚姻前の「特有財産」は対象にならない。雪之丞が、京都マンションの原資は独身時代に蓄えた「特有財産」だと主張すれば、財産は分与されないのではないだろうか。
説明をきいた久郷弁護士は、「ふぅ・・・・・」とため息を漏らしながら背もたれに体を預け、「失礼ですが、ご主人は相当、狡猾な人ですね」と腕を組んだ。多数の離婚案件を捌いてきた弁護士でも、初めてのケースのようだ。
私は、雪花堂に振り込んだ500万円を返してもらいたいことも相談した。が、瞬時にガッカリさせられた。
「500万円の返却は、法的には難しいと思います。借用書などもありませんし、おそらくご主人なら『それは自分の金だ』と平気で嘘をつくと思います」
私はひどく落胆し、激しい怒りがこみ上げてきた。500万円の貯金が返ってこないなんて、ひどく腹が立つ。
しかし久郷弁護士は、私が悲観している財産分与については、希望があると説明した。
「京都のマンションは婚姻中に購入していて、一時は共有名義にしています。ご主人が婚姻前の『特有財産』だと立証するのは逆に難しいので、『共有財産』と認められる可能性は高く、査定額の半額は分与されると思いますよ。それと、結婚後に購入した純金も領収書などの証拠があれば半分は分与されます。能面などの高価な美術品も財産分与の対象になります。現金の隠し財産を表に出すことは難しいですが、主張する方法はあると思います。500万円の返金が難しいのは悔しいと思いますが、暴力の慰謝料という形で少しは取り返しましょう。そのためには、まどかさんに証拠集めなどの準備をしていただく必要がありますね」
「わかりました。指示していただければ、全力で証拠集めをします」
私は、弁護士の「財産分与を得られる方法はある」とのひと言と、私から500万円を取り上げた雪之丞への憎悪から、もう「別居&離婚」で気持ちは固まっていた。
さらに久郷弁護士は、私に追加の安心材料を提示しようとしてくれた。
「ご主人とまどかさんの年収はどれくらいありますか?」
「吉良が約2000万円で、私は360万円です」
「そうなると、婚姻費用が20数万円はもらえるはずです」
「婚姻費用って何ですか?」
久郷弁護士は「ちょっとお待ちください」と言って席を外し、婚姻費用の算定表を手に戻ってきた。
私はその時まで「婚姻費用」――略して「婚費」なるものを知らなかったのだが、婚費とは、夫婦が婚姻生活を維持するために必要な費用のことをいう。
民法第752条は「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない」と規定している。離婚すると決めて別居している場合、「専業主婦なので収入がない」とか「自分も働いているが生活費が足りない」などの時には、配偶者に対して、離婚が成立するまでの間、生活費(=婚費)の分担を求めることができるという。
つまり、私と雪之丞が別居した場合、雪花堂から私への給与はおそらく支払われなくなるが、別居から離婚成立までの間、収入が多い雪之丞が私に対して、裁判所が決めた婚費を支払うことになるというのだ。
久郷弁護士が表を見せながら、解説した。
「これが子供のいない夫婦の場合の婚費算定表です。支払う義務者の年収が縦軸、受け取る権利者の年収が横軸で、交差する地点に書かれている金額をもとに、裁判所が婚費を決定します。婚費は別居した月から発生します。別居後、調停で婚費が決まるまで空白がありますが、裁判所が婚費を決定すれば、別居した月までさかのぼった数カ月分の婚費をご主人は支払わなければなりません。まどかさんの場合、婚費として月々20数万円を受け取れるわけですから、別居後の生活はそれほど心配ないと思いますよ」
「しかし20数万円というのは、大きいですね」
思わず安堵の声が漏れた。
「そうですよ。自己を犠牲にしてご主人に尽くし、モラハラと暴力を受け、たいへんお辛い結婚生活だったと思いますが、相手に収入がある分、十分な婚費が得られるわけですから。まどかさん、自分は恵まれていると考えて、結婚前の自信と勇気を取り戻してください。婚費をもらいながら、離婚後の人生をゆっくり考えればいいじゃないですか」
婚費――初めて知ったが、素晴らしい制度だ。
法律は、立場の低い専業主婦を守ってくれる。目の前にヒマワリの花がパッと咲いたような気分だった。
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