離婚道#32 第4章「X-ミッション」
第4章 離婚へ
X-ミッション
母妙子が76歳になる令和元(2019)年7月10日が家出Xデーとなった。
母にそのことを告げると、
「まーちゃん、また変にのぼせてるんじゃないの? まーちゃんが突然家出したら、先生はウチに怒鳴り込んでこない? 先生を怒らせたら、本当に一銭もくれずに離婚になるんじゃない?」
と最初は怖がったが、いろいろ説明するうち、
「わかった。まーちゃんの作戦にお母さん協力するよ。先生がウチに来ても『まどかはいません、知りません』って言うし、『新聞社を辞めて先生に一生懸命尽くしてきた娘を、社会復帰が難しい50歳という年齢になって追い払うなんて、どういうことですか⁈』って文句言ってやる」
わが母、妙子よ。勇ましくてありがたい。実家には、本や衣類の段ボールを少しずつ送ることも伝えておいた。
Xデーまで約1カ月。その間のミッションは山ほどあるが、計画がバレないように遂行しなければならない。今度ばかりは失敗は絶対に許されないのだ。
まずは早々に新居を決めたい。
以前のように、雪之丞が日に何度も浮気チェックで帰宅することはなくなったから、週に数回の昼食で帰ってくる日やお弁当を届ける日以外、日中は物件探しにあてられた。
雪之丞に縁のない土地で、上野の「上野さくら法律事務所」や霞ヶ関の東京家庭裁判所にも近い場所がいい。賃料があまり高くないエリアが理想だ。それらを総合的に考え、日暮里あたりが候補地となった。
物件情報をネット検索し、4、5件の物件を内見。家賃8万円台の駅近物件に申し込もうとした時、問題が生じた。
私名義で借りる場合、入居審査のための書類として、源泉徴収票など収入証明を提出する必要がある。そうなると、雪花堂の社長、雪之丞に在籍確認の電話がいくため、私の計画がバレてしまう。・・・・・困った。
不動産屋の担当者に、私の特殊な事情を説明し、源泉徴収票は提出できないことを伝えると、その場合は保証人を立てる必要があるとのことだった。
保証人・・・・・これも困った。
頼りになるはずの寺尾家の大黒柱、父親は逝ってしまった。
兄が借金を背負う形でアキバ電工を継いだが、名前だけの社長で実労働がないため、会社からの収入はきわめて少ない。兄はアルバイトをしている役者で、実家暮らしだから、保証人になれるほどの生活力がないのだ。それでもダメ元で、兄を保証人にして申し込んだ。審査結果の連絡がないまま、数日過ぎた。・・・・・
6月12日朝のこと。朝食を済ませた雪之丞が
「まどか、そこに座れ」
(きた、きた・・・・・)
録音を確認し、雪之丞の正面の席についた。
すると雪之丞は、カバンの中から紙を取り出し、朝食を食べ終えた食卓の横に広げた。
初めて目にした離婚届の実物。雪之丞の本気がそこにあった。
「明日は何の日がわかるね」
「先生が脳腫瘍の手術をした日です」
「そうだ。私が生き返った日だ」
16年前の6月13日。雪之丞が脳腫瘍の手術をした日は、雪之丞が生還した記念日になっていて、吉良家ではなんとなくお祝いするのが慣例になっていた。
すると雪之丞は続けて、
「明日、まどかとは籍を抜く」
とピシャリと言い放った。
私は「離婚届はまだ出しません」と再度トンボの約束の話を持ち出し、財産分与について話題にした。
雪之丞の目はつり上がり、みるみる忿怒の形相になった。
「私がこれまで、ずっと腹に収めてきたことを言ってやる」と前置きし、いつも以上に高圧的な口調で話し出した。
「だいぶ前に寝室のクローゼットに置いていた私の金がなくなっていた。誰が盗んだか、私は最初からわかっていた。私は末期がんの父親にも配慮してやった。まどかが黙って家を出て行けば、私はそのことを不問にする。だから、黙って家を出て行け!」
「はぁ?」
調子っぱずれの心の声が出た。窃盗という濡れ衣を着せ、罪を不問にするとして手ぶらで追い出すやり方に腹が立ち、つい、録音していることを忘れてしまっていた。
「先生、盗まれたのはいくらなの? 大金なの?」
「やっぱりまどかが犯人だ。私は大金なんて、ひとことも言っていない」
「先生、今からでも遅くないから、警察署に行った方がいい。行こうよ」
すると雪之丞は、憎らしいものを見るように
「まどか、とうとう本性をあらわしたな。お前は俺を警察に突き出すのか!」
と芝居がかった口調でいう。
これは危険だと思った。雪之丞は異常だ。全く会話にならない。
唖然としていると、雪之丞は鬼の形相で「コイツ……」と席を立って向かってきた。私の頭を両手でわしづかみ。怖いと思ったのも束の間、雪之丞の狂気は一瞬で終わった。ふと顔を上げると、すでに雪之丞は着席し、卓上の離婚届をカバンに入れている。もう出勤時間なのだ。
(しまった! 録音しているのに「痛い!」って言えなかった・・・・・)
私は大慌てで口を開いた。
「先生は今みたいにすぐに髪を引っ張ってくるけど、私は絶対に盗んでいません」
まるでラジオドラマで状況説明するセリフであるが、こう言うのが精一杯だった。
貴重な音声データをうっかり消してしまわないように、私はその日のうちに久郷弁護士にメールで送った。
メールのタイトルは、「いただきました」。
「『痛い!』と叫ぶことができませんでしたが、髪を引っ張られたことを会話に入れました」と書いて送信。
久郷弁護士からはすぐに返信メールが届いた。
「家の中で、宿敵と共に寝泊まりしている心労は如何ばかりか、想像するに余りあります。その調子です。次回こそは大袈裟に『痛い!』と叫んでみてくださいね」
久郷弁護士は私の小さな失敗を咎めることなく、逆に労いの言葉をかけてくれた。同じ離婚問題を抱えている弁護士ならではのメッセージに、心癒された。
雪之丞の開頭手術記念日である6月13日は、何事もなく過ぎていった。離婚届の件は、自然消滅したようである。
だが、安心してはいられない。雪之丞の機嫌は日替わりランチで、一時的に態度が軟化するのはよくあること。いつ次の波が襲ってくるか、わからないからだ。録音という任務に追われ、いつも以上に雪之丞の顔色を見ながら生活する緊張感が続いた。
しかし、それにしても入居審査の返事が遅い。
引っ越し先が決められず、気をもんでいると、タイミングの悪いことに、疲れがたまった時に出てくる副鼻腔炎が悪化してきた。微熱がある。たちまち心に大きな焦りが広がった。Xデーへのカウントダウンがはじまり、ただでさえ神経が張り詰めているのに、新居が決まらないために作業が思うように進まない。
そんな時、いつもの手帳を探していると、どうも見当たらない。手帳には、久郷弁護士との代理人契約書が挟んである。
雪之丞に手帳を奪われたのではないか、久郷弁護士のことや私の新居探しが雪之丞にバレたのではないか・・・・・もう被害妄想の連鎖が止まらなくなった。
いても立ってもいられず、慌てて久郷弁護士に「久郷先生のことバレたかもしれません」というタイトルでメールした。
「手帳が見当たりません。昨晩、吉良が夜中に何やらゴソゴソしていたのですが、私の部屋から手帳を探し出し、吉良が雪花堂に持って行った可能性があります。こんなにスリリングな展開になるなんて想像もしていませんでした。Xデーを待たず、吉良から追い出されるかもしれません」
久郷弁護士からすぐに返信メールがあった。
「見られたなら仕方ないです。あちらも真剣でしょうから、何でもやってきます。私が代理人を引き受けた女性ですが、家庭内別居で離婚協議中、『鍵をかけても夫が部屋に入って何か盗んでいる』と言って、奥さんの部屋に隠しカメラをつけました。離婚しようとしている場合、なんでもアリですから、気をしっかり持ってくださいね。大丈夫です。家を出る時は、罵詈雑言を言わせて録音してください。とにかく録音。危なかったら迷わず警察です」
離婚で争う夫婦は皆、人生の真剣勝負なんだろう。
X-ミッションがバレたらバレたで仕方ないと、私は腹を決め、落ち着いて淡々と資料の実家送り作業を開始した。するとその翌日、なんと、「こんなところに?」という古い資料の間から、探していた手帳が出てきたのである。
おそらく数日前、雪之丞に見られたら大変だと右往左往する中で、自分で手帳を隠したのだろう。そんなことも忘れ、盗まれたという思い込みから気が動転し、Xデーがバレたのなんのと、ひとり相撲をとっていたのだ。
久郷弁護士には、手帳が見つかったことを報告し、お騒がせしたことを詫びるメールを送信した。心が弱いと人に迷惑をかけてしまう。
返信が届いた。
「よかった~。これでまどかさんが安心できたのが一番。私だって、冷蔵庫から鍵が出てくるとか、出先でカバンの中から飼っているフェレットが出てくるとか、生きているといろいろありますよ。おおらかにいきましょう!」
雪之丞に隠れて家を出る準備をしている緊迫感。私の混乱や高まる緊張感をほぐしてくれようとする離婚弁護士の気持ちがありがたかった。
ようやく入居審査の結果連絡があった。結果はやはり、落ちてしまった。
保証人が弱くても審査に通る奥の手はないだろうか――。
私は同じ不動産屋を訪れた。どうしても早く新居を決めたい事情を訴え、店長を交えて相談したところ、家具家電付きウィークリーマンションの賃貸契約なら、通常の審査をせずに住めることになった。銀行口座に家賃2年分程度の預貯金があればOKという。その程度の貯金ならある。
西日暮里にちょうどワンルームの家具付き物件があった。21平米で家賃は9万9000円。狭いわりに高く、日当たりが悪いが、ほかに選択肢はない。生活を切り詰めれば、20数万円の婚姻費用でもなんとか生活できる。離婚が決まるのは案外早いだろうと見込んでいたし、家具家電を揃えずにすぐに住める利点はある。――私はそこに決めた。
上野さくら法律事務所に電話した。
「久郷先生、西日暮里の家具家電付きの物件に決めました。駅から5分、狭いワンルームで9万9000円です。重要な書類や本などは、もう実家に少しずつ送っていますが、7月1日が入居日なので、それ以降は新居に必要なものを車で運び出そうと思います」
「え? 西日暮里? 私は根津だから、ご近所じゃないですか! 家具家電付きなら、初期費用をおさえられるから、いいですね。契約の時は一時的にお金がかかりますが、この前説明した通り、婚費が入りますので大丈夫です。西日暮里なら私の地元ですから、大歓迎です! 焼き鳥でもイタリアンでもエスニック料理でも、飲み屋さんをたくさん紹介しますよ」
離婚弁護士の明るい声と楽しい会話。こんな些細なことでも、久々に生きている実感が持てた。
Xデーまでは緊張感が続き、とにかく忙しかった。
この間に雪之丞のゴルフは計3回。前日からの泊りなので、雪之丞がゴルフに出かける土曜夜から日曜の夕方まではフル稼働だった。結城紬や越後上布、作家ものの染めの着物など手放したくない着物と帯を車で船橋の実家へ運んだ。
また、箇条書きしていた任務のひとつ、書類のコピー作業も、雪之丞のゴルフ日に当てた。渋谷の24時間営業のコピーサービスに持ち込み、土曜夜から日曜明け方まで5時間かけての徹夜作業となった。コピーした資料は、全部で厚さ30センチほどの束になった。これらを段ボールに入れ、24時間営業の渋谷郵便局から「上野さくら法律事務所」へ送った。万が一、協議や調停で決着しなかった場合は、これが大事な裁判の証拠資料になる。
自宅にある2つの金庫も写真撮影した。
また、雪之丞が個人で購入した美術品も写真撮影した。「小面」「般若」「獅子口」――3つの能面である。いずれも美術商の小野崎から購入した、無形文化財保持者の熊崎光雲作である。結婚のきっかけにもなった「猩々」の面は、結婚前の購入だから、特有財産であり、財産分与の対象にならない。
粛々と作業をすすめ、7月に入った。
新居の鍵渡しの後は、一日おきに車で新居へ。衣類や日用品、それにワインセラーから好きなワイン3本も選んで、新居へ移動した。
いよいよ置手紙の準備をしなければならない。
パソコンで言いたいことを書いてみたら、A4用紙2ページになった。それを久郷弁護士にメールで送ると、
「感情や意思があふれていて、家出の置手紙というより、宣戦布告になっています。今後裁判になる可能性も視野に入れ、こちらの手の内を明かす必要はないので、できるだけ事務連絡にとどめてください」
とアドバイスされた。何度か修正を重ね、弁護士のOKが出た。
そうしたメールのやりとりとしていると、久郷弁護士の離婚問題も動きが出てきたようだ。同居したままでは話し合いにならず、久郷弁護士もいよいよ家を出ることにしたという。
弁護士のXデーは7月6日、私よりも4日前だ。
久郷弁護士は根津にある夫婦のマンションを出て、そこから徒歩数分、母親が住む千駄木の実家に引っ越すという。5日のメールでは次のように書いてあった。
「まどかさんの生活のピリピリした感じは伝わってきます。私も他人事とは思えません。とはいえ、私の方は、明日、別居すると思うと、『これを持って行こう』『あれを新しく買おう』と考えると楽しくて、もうルンルンしています。女って、やっぱり強いんだと思います」
さすが、百戦錬磨の離婚弁護士である。見習いたいほど、たくましい。
雪之丞は、6月12日に離婚届を出してきてから大きく荒れることもなく、ついにXデーが来てしまった。
7月10日朝、いつも通り、4時半に起き、風呂をわかし、朝食を作った。
そしていつも通り、玄関先で「いってらっしゃい」〝カチカチ〟と火打ち石を打った。
もうこの家で、雪之丞の姿を見るのは最後だと思うと、なんともいえない感傷がわき起こり、心の中で雪之丞の背中に「先生、サヨナラ」と言ってみた。
結婚して17年。がんばった。辛抱した。いいこともたくさんあった。・・・・・が、結婚生活はこれで終わり。もう、私は決めた道を進むしかない。
私は急いで最終作業にとりかかった。
すると、雪之丞から電話があり、「夜は弟子と着物で食事に行くから、昼、弁当と一緒に深緑の近江上布とそれに合う帯、ビールグラスを持ってくるように」とのこと。
私は昼に弁当など一式を雪花堂に持参した。今度こそ雪之丞とお別れだ。無言で弁当一式を受け取った雪之丞の背中に、もう一度心の中で「先生、サヨナラ」とつぶやいた。2度目のお別れを済ますと、なんだか心がスッキリしたようだった。
夕方4時。準備は整った。テーブルの上に、手書きしたイラスト付きの「着物の手入れについて」「洗濯機の使い方」「乾燥機の使い方」――3枚の取り扱い説明書を置いた。そして、何度も修正した置手紙も。
《吉良雪之丞先生
私は窃盗をしていません。
昨秋以降、先生は「まどかとは籍を抜く」と言い続け、最終的に私を窃盗犯扱いして追い出そうとしています。一人ではどうすることもできず、弁護士を探して相談しています。その結果、家を出るしかないと決断しました。
窃盗容疑については、私は逃げも隠れもしません。きちんとした場所で話して、明らかにしたいと思っています。
雪花堂の資料は全部残してあります。着物のことも、洗濯機の使い方もわかるようにしてあります。
今後、私がこれまで作成してきた文書が必要な際は、富田和子さんを通じてメールしてください。
令和元年7月10日 吉良まどか》
私はこの置手紙の上に、もう使うことのない自宅の鍵を置いた。これでX-ミッションをすべてやり遂げた。
いま、この家を出ることは、新たな門出を意味している。
玄関で、この時のために新調していた水晶の火打ち石を手に、声を出して願を懸けた。
「吉良まどか、心願成就」――
〝カチカチ〟!
切り火をすると、火花がきれいに弾いた。
私はおろしたての水晶を玄関の椅子の上に置いた。それは、自分のために1回だけ使う火打ち石。
そして大きなスーツケースのキャリーバーを握り、悲喜こもごもの思い出が詰まった我が家を発った。