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離婚道#21 第3章「痴人の愛」

第3章 離婚前

痴人の愛

 平成27(2015)年の春ごろから、雪之丞は毎日のように、日に何度も突然家に帰ってきて浮気相手がいないかどうか確かめるようになっていた。結婚以来、私に自由はなかったから、不審な外出もない。そのため、雪之丞の中で、私の浮気現場は自宅が有力視されるようになったようだ。
 日中、自宅に突然ガバッと玄関ドアを開けて入り、寝室へ直行する。寝室などを確かめて数分後に仕事場に戻っていくパターンだった。
 どうしてそのような妄想になったのか――。それは、しばらくしてわかった。
 そのころ、雪之丞は下北沢の古本屋で、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を頻繁に買い、家にこの本が何冊も溜まっていったのだ。
 ――そう、今度は『痴人の愛』だ。
 嫉妬妄想の症状を知らない読者の方は、そんなバカなとわらうかもしれないが、妄想のネタ元は、そんなものなのだ。
 私も最初の『昼顔』の時は、まったく信じられなかった。
 嫉妬妄想する本人はもう論理的思考ができなくなっている。だからこの時期、不倫している妻が、不倫相手と共謀し、夫を殺害――そんな事件がニュースで流れると、もうヒヤヒヤした。雪之丞がすぐに影響されるからだ。
 妄想のネタ元は、フィクションのこともノンフィクションのこともある。どんなにあり得ない妄想でも、妄想する当人は、それを確信し、大真面目に苦しんでいるようである。
 
『痴人の愛』は、中年の真面目な男が、カフェの女給をしていた15歳のナオミを見出し、自分好みの女に育て、妻にしたものの、次第に小悪魔的なナオミにとりつかれ、破滅するまでを描いた物語である。
 主人公の中年男性が日中仕事に出かけている間、ナオミは自宅に複数の男友達を呼び寄せ、浮気を繰り返していた。そのためナオミは、仲間から〝公衆便所〟呼ばわりされる。
 雪之丞は、私とナオミを重ねた。「家に男を入れているだろ」と責めるので、
「私はナオミじゃない。私は〝公衆便所〟じゃない!」
 と必死に訴えた。
 しかし、雪之丞は「私はわかる人間なんだ!」と言い放つ。
「先生は全然わかってない! 吉良雪之丞はわかる人間じゃない!」
 すると、雪之丞は鬼の形相でまくし立てた。
「オイ、いま、お前は吉良雪之丞を愚弄ぐろうしたな。ここまで私を愚弄したのはまどかが初めてだ。まどかは私を愚弄した。私は世阿弥の生まれ変わりだから、お前は世阿弥を愚弄したことになる。まどかは世阿弥を愚弄した!」
 私は雪之丞のあまりの狂人ぶりに唖然あぜんとした。
 雪之丞は脳腫瘍の後、「私は世阿弥の生まれ変わりだと思っている。だからこそ、新しい芸論が書ける」と言ったことがあった。回復後、奮起している雪之丞に水を差すようなことは言いたくなかったから、「そうだよ。だから先生ならできる」と同調した。
 人は、強い思い込みが何かを成し遂げる原動力になることがある。そのことは私自身、新聞記者を目指した経験から痛感している。
 しかし、雪之丞を愚弄すると世阿弥を愚弄したことになるという理論には驚いた。そもそも私は雪之丞を愚弄したわけでもないから。
 
『痴人の愛』が雪之丞を支配していたころ、私が最も嫌だった習慣がはじまった。雪之丞に何かが憑依しているような時間で、それは数日おきにやってきた。
 雪之丞はギラギラした視線を私に向け、私に服を脱ぐように命令する。そして私を「奥さん」と呼ぶ。自分が浮気相手の設定らしい。私にアイマスクをつけさせることもあった。……もう、エログロナンセンスの世界だ。
 脱衣を拒絶すると、雪之丞は「浮気をしたから嫌なのか」と執拗に責める。私は浮気をしてないから、応じるしかなかった。
 雪之丞は、体の隅々をチェックしているようで、浮気の証拠を見つけようと必死だ。浮気相手の役を演じる雪之丞が、「奥さん」と呼びながら私にいくつも質問し、あれこれ要求する。それが、なんとも気色悪い。
 なにより私は、「浮気をしている奥さん」という設定が面白くない。
「先生、『奥さん』ってどういう意味?」
 突っかかると、雪之丞は「なんだ、その態度は! 興ざめだ」と怒りだす。私は最初から「興ざめ」なのに。
 その猟奇的な行為に、雪之丞のゆがんだ愛情はあるだろう。だが、私に対する敬意は全く感じられない。ただ私が、不貞をしているけがらわしいモノとして扱われるだけであった。

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