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小説無題#5リンスとボディソープを間違える

 柳は自分の部屋にたどり着くと、着ていた服を丸ごと洗濯機に放り込み熱いシャワーを浴びた。風呂にゆっくりと浸かるつもりでいたのだが、先程の全力疾走のせいで冷えきった体も汗をかく程に熱を持ち、それでもなお熱い風呂に入ろうなどと自分に追い討ちを掛けるような気分には到底ならなかった。
 それにしてもさっきの出来事は一体なんだったんだ? 柳は髪に付けたシャンプーを泡立てながら考えた。ロシア帽の男は確かに追いかけて来た。ファミリーレストランの駐車場で柳を待ち伏せしていたのだ。しかし合点がいかない部分もある。もし男の目的が柳を捕まえる事であれば、何故柳のすぐ後ろをつけてきていたのだろうか? 本当に捕まえる気があれば悠長に傘なんて差さずにそのまま羽交い締めにすればいい。尾行するにしてももっと上手いやり方があった筈だ。いずれにせよ何故男が消えたのかを説明出来る証拠は何一つ無かった。考えれば考えるほどに柳の頭は混乱した。
 シャンプーを洗い流した後、リンスを手に出したが、それがボディソープである事に気づいて柳は先に体を洗うことにした。ボディソープをゴシゴシタオルで泡立て、首より下を上から下へ丁寧に擦っていく。それと同時に柳は碧眼の少女についても考えた。学校を早退し、寂しそうに松葉杖を突くブロンドの髪の少女。その長く綺麗な髪は雨を滴らせている。背は低く無いが、かと言ってそれ程高くは無いくらいだ。この少女もロシア帽の男と関係してるのだろうか? もしや喫茶店の店主はこの出来事を予見していたと言うのか?
 柳はシャワーを終え部屋着に着替えると、一目散にリビングのソファに倒れ込んだ。時計の針はまだ午後二時を示していたが、出来ることならすぐ眠ってしまいたかった。しかし目を閉じてじっとしても眠気は一向に訪れる事はなかった。仕方ないのでスマートフォンを取り出し旅行計画を立てる事にした。旅行に行くことは今日の帰りのタクシーで奥村弁護士からの了承を得ている。
 柳は『旅行 国内』とスマートフォンで検索をかけ、一番上に表示された旅行代理店のホームページにアクセスしてみた。ホームページでは幾つものツアーコースが提示され『今がお得』だとうたっている。ページに掲載された写真には美しい海、晴れ渡る空、美味しそうな食べ物、楽しそうな親子がそれぞれ映し出されている。しかし柳の求める旅行とは天と地ほどかけ離れていた。柳はただ誰も自分を知らない場所で誰でも無い自分になりたいだけだった。一つ贅沢を言えば海を眺めて静かに過ごしたい。
 しばらくホームページをスクロールした後、柳は行き先を北海道に定めた。南国の島で穏やかに夕日を眺めるのも悪く無い。でも柳が求めているのは途方も無い孤独と肌を刺すような寒さだった。いつしか柳は胸の痛みを、種類の違う別の痛みによって慰める様になっていた。耳障りの良い慰めの言葉など最早柳にとっては意味を為さない物だった。どうせ行くなら最北端に行ってやろうかと宗谷岬近くの宿を調べてみると、手頃な民宿を発見した。特にこだわりが無いので安いに越したことはない。そもそもこれは観光旅行では無いのだ。
 詳しく調べてみると稚内空港から宗谷岬までタクシーで一万円かからないようだ。それなら全然悪くないと柳は思った。羽田から稚内空港へは直行便が出ているし案外手間がかからなそうだ。柳は思い立ったが吉日と言わんばかりの勢いで飛行機のチケットと民宿の予約をインターネットで済ませた。後は奥村弁護士に電話すれば大丈夫な筈だ。柳はソファから起き上がり、冷蔵庫から焼酎の紙パックを取り出しグラスにストレートで注いだ。テレビをつけてしばらくチャンネルをまわしてみたが、特に興味のある番組はやってなかった。柳はテレビを消し、焼酎をちびちびと啜りながら今度は奥村弁護士に電話をした。電話は三回目のコールで繋がった。
「もしもし、柳さんどうしましたか?」
 挨拶を抜きにして奥村弁護士は本題に切り込んだ。柳は旅行の行先が北海道の宗谷に決まった事、民宿の名前を言いそこに六泊する事、そして出発は明日だと言うことを簡潔に伝えた。
「それはまた随分と急な話ですね」
 奥村弁護士は驚いた声をあげた。
「もう決まった事なので」柳は答えた。
「そうですか」
 奥村弁護士はため息混じりに言った。そしてこう続けた。
「十分に気をつけて下さいね。今後の裁判に支障を来たしてしまうのでトラブルは無いようにだけお願いします」
 柳は雨で湿気った煙草に火を付けた。
「勿論です。海を眺めながら穏やかに過ごすだけなので」
 柳は奥村弁護士に感謝を伝えた後電話を切った。彼は柳の身を案じてくれているのだ。確かにここ最近の世界の異変を柳は感じ取っていたが、それと同時に柳自身にも何らかの変化が生じている気がした。しかし何がどう変化しているのかまでは分からない。喫茶店でのコーヒーに映る鏡写しの自分から始まり、ロシア帽の男が現れた。碧眼の少女が異変に含まれるのかは分からない。
 柳はタバコを吸い終えて灰皿に押しつけた。ガラス製の安い灰皿には隙間の無いほどびっしりと吸い殻が詰まっていた。流石に捨てようかとも思ったが、消したばかりの灰をゴミ袋に入れると火事になるかも知れないと思いやめた。第一全てがどうでも良かった。この部屋に誰かが訪れる事は無いし誰も自分のだらしなさを咎める事は無い。奥村弁護士とプライベートで会う時も居酒屋や喫茶店を利用していた。柳は焼酎のストレートを飲み干してグラスを流し台に突っ込み、洗面所で歯を磨いた。柳は結果的に部屋を汚くしてはいるが、自身の身なりは清潔を保とうと努力していた。警察の取り調べや奥村弁護士と会う時、且つそこに向かう電車やバスの中などで不潔な人間に思われたくなかったし、悪目立ちせずごく普通の人間としてやり過ごしたかった。あるいは赤の他人も含め誰とも遭遇せずに生きて行けるのなら、柳は身体も洗わなかっただろう。
 歯を磨き終わると、柳はまたソファに横になった。しかし全く眠くは無かった。壁掛け時計の針は午後三時を指している。時計の掛かっている壁沿いには出し損ねたゴミ袋が溜まっていた。柳は目を閉じて深く息を吸う。正直何もしたくなかったし、何も考えたく無かった。でもそんな柳の脳裏には、『美幸』との記憶が浮かび上がってきていた。

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