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小説無題#20 決意

奥村の頭の中は混濁していた。  
 それは、主にハンチング帽の男に思考や感情を掻き乱されているからだった。しかし、それだけではない。この空間に充満する煙管の副流煙もまた、奥村の判断能力を鈍らせているように思えた。煙を吸い込むたびに、まるで頭の中に煙が物理的に充満していくかのようだった。

「じゃあ柳さんは、東北自由戦線と何かしらの関わりがあるということなのか?」

 朦朧とする意識の中で、奥村はハンチング帽の男に問いかけた。

 ハンチング帽の男は、荒れ地にひっそりと佇む案山子のように、不敵な笑みを浮かべながら奥村をじっと見ている。

「何をおっしゃいますか。関わりがあるもなにも、柳様は『東北自由戦線』の『セル・リーダー』ですよ。」


 ハンチング帽の男は何を言っているのだろうか?

 そう思った奥村の脳裏には、柳の顔がはっきりと浮かんでいた。『政治闘争』はおろか、バイオレンスやハラスメントといった言葉とは無縁の、控えめな笑顔。人に強く言えないお人好しで、とてもリーダーの器とは思えない。

 奥村と柳は裁判の始まる数年前からの知り合いで、単なる弁護人と被告の関係では無かった。
 以前の柳も現在の柳も知っている奥村だからこそ、柳が精神を病んでしまったのは、その優しさの裏返しだとそこははっきりと断言できた。

「嘘だ。あんたは嘘をついた!」

 奥村は我を忘れて叫んだ。
 血管が拡張され、顔が紅潮している自分の顔が奥村には容易く想像できた。

「柳さんはそんな人じゃない」

「そういうお方なのですよ。非常に残念ですが」残念じゃなさそうにハンチング帽の男が言う。

「あんたの話は全部でたらめだ!」

 奥村は目頭が熱くなったが、ここで涙を見せる訳にはいかなかった。泣いたところで目の前の男は同情なんてしないだろうし、同情してほしいとも思わなかったからだ。

「だいいちなんであんたが此処に居るんだ。柳さんがいない部屋に用なんて無いだろう」

 ハンチング帽の男は鼻から煙を出しながらうんうんと二度頷き、煙管から灰を掻き出して、そしてそれを大事そうにしまった。

「そう、あなた様は不思議に思った。なぜわたくしが此処に居るのかという事を。その理由をわたくしはあなた様にお話しなければなりません。柳様のことについて知りうる全てをお話する。それがあなた様とわたくしの約束ですから」

 ハンチング帽の男はダイニングテーブルに置かれた物体を手にとってみせた。それは奥村から見てダイニングテーブルに座るハンチング帽の男の真後ろ、つまり奥村の死角にあった為、今までその物の存在に奥村は気付かなかったのだ。

 それは首振り人形だった。
 スーツを着た黒人男性を模して作られており、真っ白な歯を覗かせながら、個性的な笑顔を浮かべている。首元のバネは曲がってしまっていて首は傾げたままになっている。

「唐突に見せられても、あなた様にはこれがなんなのかさっぱり分からないでしょう。このルイ・アームストロングの首振り人形は先日殺された、ある『セル・リーダー』のものでした。そしてその方の死後、人形はこの部屋にやって来ました。わたくしはこれを回収しに来たのです。」

奥村は一瞬、目の前の光景と耳に届いた言葉が結びつかない感覚に陥った。ルイ・アームストロングの首振り人形? セル・リーダー?殺された?彼の頭の中で言葉が渦巻き、ますます混濁していく。

「それが…柳さんと何の関係があるんだ?」声がかすれ、自分でも信じられないくらい弱々しい声になってしまった。

ハンチング帽の男はゆっくりと人形をテーブルに戻し、にやりと笑みを浮かべた。まるで奥村がその問いを発するのを待っていたかのようだった。

「柳様は、先日亡くなられた『セル・リーダー』の後任として、この人形と共に運命を背負うことになったのです。あなたはご存じないでしょうが、『東北自由戦線』のリーダーたちは、代々こうした象徴的な物品を引き継ぐことで、次の指導者が決められるのです。」

奥村は混乱の中、必死に考えを巡らせた。柳が「セル・リーダー」だなんて、全く現実味のない話だ。彼の優しさ、弱さ、そういったものがそんな立場にふさわしいとは思えない。それに、こんな物にリーダーシップを象徴させるなんて、バカげている。だが、この男はただのデタラメを話しているようにも思えなかった。

「そんな…信じられるわけがない」奥村は再び言葉を絞り出した。「柳さんが、そんな…危険なことに自ら関わるなんて…」

「それはあなた様の思い込みなのです」
 ハンチング帽の男は静かに言い返す。
「柳様は、あなた様が思っているよりもずっと深いところで苦しんでいた。そして、その苦しみを利用したのが『東北自由戦線』だったのです。彼の中にある怒りと絶望を彼らは見逃しませんでした」

奥村は黙り込んだ。柳の顔が再び脳裏に浮かんだ。優しさ、繊細さ、それと共にあった陰り。その陰りが、まさか…彼の中でこんな方向へと向かっていたのだろうか。

「この部屋を売るという決定も、彼自身の意思です。」ハンチング帽の男が続けた。「過去を捨て、新たな道を歩むために。そしてその道は、柳様を再びあなた様の知る彼ではない姿へと変えます。変化はすでに始まっているでしょう。」

奥村の胸の中で、何かがきしむ音がした。柳は、本当にそんな道を選んだのだろうか。自分が助けられなかったせいで、柳はこの先取り返しのつかない場所へ行ってしまったのだろうか。

「で、どういたしましょう?」ハンチング帽の男は奥村をじっと見据えた。「あなた様がここでわたくしにに抵抗しようと、何も変わりませんよ。柳様はもう、こちらの世界に片足を踏み入れているのですから。」

奥村は拳を握りしめ、歯を食いしばった。目の前の男を今すぐ打ちのめしてやりたい衝動がこみ上げる。しかし、それが何かを変えるわけではない。柳を救うには、別の方法があるはずだ。だが、その方法が何なのか、今の奥村にはまだわからなかった。

「柳さんを…探す。」奥村は声を振り絞った。「俺が見つけ出して、元に戻す。」

ハンチング帽の男は軽く肩をすくめ、「どうぞ、ご自由に」と言わんばかりの態度を見せた。

「しかし、あなた様が知る柳様は、もう戻らないかもしれませんよ。彼が選んだ道を、果たしてあなたは変えられるのか?それとも彼を引き裂くだけなのか…それを見極めるのは、あなた様自身ですよ。」

奥村は何も答えず、ハンチング帽の男を睨みつけながら、静かに腰を据えた。頭の中で渦巻いていた思考は、少しずつ一点に絞られていった。柳をこの世界から取り戻すために、自分がすべきことは何か。その答えを見つけなければならなかった。

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