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小説無題#26 深淵に舞う者

姫村院長との出会いが、柳を救急外科の道へと導いた。院長は飄々とした雰囲気を持ちながらも、身内には深い情を寄せる人物だった。その稀に見せるチャーミングな笑顔や、彼の哲学に柳は強く惹かれ、師と仰ぎたいと思うようになった。
今でも、中庭の陽だまりに揺れるアベリアの花を鮮明に覚えている。もし姫村院長が教えてくれなければ、それはただの風景に過ぎず、記憶に残ることもなかっただろう。
あの日、あの時、あの場所で、院長の奇行を目の当たりにしなければ、柳は彼を冷淡な人間だと思い込んだまま、研修医を修了していたに違いない。
姫村院長の背中が柳のフューチャー・ヴィジョンとなり、同時に超えられない壁となった。鋭い洞察、迅速な技能、臨機応変は流水が如く。院長に近づけば近づくほど、その遠さを柳は思い知るのだった。

それまで柳は、医師免許を取得したあとの事について深く考えたことは無かった。「医者になれば安泰だ」という建築業を営む父親の受け売りを、そのまま手にとって掌で遊ばせていたようなものだ。そもそも「医者」という言葉が、多様な専門性を持つプロフェッショナルたちの道を広く内包しているのだと、ずいぶん後になって気づいた。
柳の両親は金の苦心のせいで関係が綻びてしまったという過去がある。だからこそ、父親の説く「医者になれば安泰だ」は、響き以上の重さをもって、柳の胸の内に刻まれていたのかもしれない。

だが、自分の選んだ道が茨の道であると気づくのも、やはり後のことだった。研修医の頃に見学した、腸閉塞や腹腔内腫瘍の手術ばかりであれば、どれほど良かっただろう。しかし現実は冷徹だった。自動車事故や労働災害による瀕死の患者が頻繁に運びこまれ、その命運を自らの手で握らなければならなかった。息を引き取ればその親族は涙し、息を吹き返せばその友人らは涙に濡れる。柳は人の生死の淵に立ちながら、空の青さに嘆息し、深淵の深さに息を呑んだ。

──その深淵には、一羽のハゲワシが住んでいた──
深淵に落ちた屍を貪る為に。

柳が滑落しかけた人の手を引きあげているあいだも、ハゲワシは滑空し、頭上で円を描き続けた。その鋭く丈夫なかぎ鼻のような嘴と、盗っ人のような鋭い目つきで威嚇する。時折放たれる無機質な鳴き声に柳は萎縮し、手を滑らせそうになる。
空は雲ひとつなく晴れ渡っていても、大地は乾ききっている。眼下に見える断崖の中腹には湧き水があり、深淵の渓谷へ静かに注いでいく。その水を求め、近くに棲むアイベックスたちが、湾曲した角を振りかざしてやってくるのだ。彼らは驚異的なバランス感覚で崖の中腹まで行くが、深淵へと落ちる愚かなアイベックスはハゲワシの餌食だ。

今日もまた、年老いたアイベックスが岩場を踏み外し、急峻な斜面を転げ落ちていった。ハゲワシはにやりと嘴を歪ませ、滑るように降下していく。柳はその隙をついて患者を引き上げた。患者は柳に礼を述べると、親類とともに深淵から遠ざかっていった。緊張の糸が解けた柳は、うち捨てたマリオネットのように仰向けになる。空は澄み渡っていて、じっと眺めていると銀河の果てへ吸い込まれそうだ。
今度は地上へと目を向ける。水を飲み終えたアイベックスたちが、荒涼とした大地に生える僅かな草をはんでいる。

「どうかね?」
声の方を向くと、姫村院長がいた。柳の執刀中、ずっと監督をしていたのだ。

「もう起き上がれません。」
横になったまま柳は答える。

「随分と疲弊したようだね。だが起きなければ。来訪者だ。」

動くことを拒む身体を上げ、柳は状況を確認した。確かにひとり、深淵に近づく者がいる。

「今回は私のサポートに回りなさい。」
院長が先頭に立つ。柳はその不動の背中を追った。
晴れ渡っていた空は陰りを見せ始め、ハゲワシが翼を広げて再び舞い戻ってきた。まだ腹を空かせているようだ。

準備を進める柳たちの前に、作業服姿の男が現れた。鉄骨鳶の中年男性で、無線を使ってタワークレーンのオペレーターとやり取りをしている。彼の頭上では五メートル以上ある鉄骨が吊られ、位置を決めかねたように不規則な動きを見せている。

──男は深淵の淵に立っていることに気づいていなかった──

無線に向かって声を荒げるその瞬間、鉄骨が保持具から外れた。鉄骨は男の足場をえぐり、男は鉄骨とともに深淵へと落ちていった。

姫村院長は咄嗟にかけ出したが、柳は動くことが出来なかった。立て続きの手術による消耗に加え、男の容体を見て手遅れだと思ったのだ。だが院長は諦めなかった。駆け出した勢いのまま跳躍し、深淵へと飛び込んだ。その後ろをハゲワシが旋回しながら下降していく。

柳は緊迫した状況のなか、ただ唖然と見守ることしか出来なかった。アイベックスたちは危機を察知したのか姿を消した。淀んだ空は厚い雲をはらみ、雷鳴が轟く。激しい稲光とともに夕立が降り注ぎ、乾ききった大地に砂埃をたてた。柳は空を睨み、濡れネズミのように自分を憐れむ事しか出来なかった。

姫村院長は大丈夫なのだろうか? 深淵の底に横たわる院長の姿が脳裏をよぎる。腕が一流と言えど無茶をする年齢では無い。このまま過剰な負担を背負い続けるのだろうか? そんな疑問が柳の胸を占めた。

夕立の降りしきる渓谷に突如、ハゲワシの鳴き声がこだました。それは、雌雄が決されたかのような声だった。歓喜に湧くようなその声を聞き、柳は力なく肩を落とした。

程なくしてハゲワシが深淵から姿を現した。ハゲワシは怯えた様子で翼をはためかせ、雨を縫うように上昇して雷雲の彼方へと消えていった。柳が深淵を覗くと、そこには驚くべき光景があった。

姫村院長が飛んでいる。
雨に濡れた鉄骨鳶の男を背負い、未知の力で上昇していたのだ。

柳があっけにとられる暇もなく、院長は岸壁まで到達し、男ををそっと横たえた。彼は目覚めなかったが、バイタルは安定している。

「まるで魔法のようだ。」
柳は信じがたい状況に思わず呟いた。

「魔法じゃない、理屈さえ分かればね。」
姫村院長は淡々とした口調で天を仰ぐ。

すると雨雲は真っ二つに割れ、夕日がふたりを照らした。雨上がりの大地には新たな命が芽吹いている。アイベックスが再び現れ、そのみずみずしい若芽をついばむ。渓谷を吹き上げる強烈な風が濡れた衣服をみるみるうちに乾かした。

院長と共に進む道は未知の連続であった。まだ柳がこの道を歩み続けていれば、満ち充ちた日々を送っていた事だろう。だが、この時すでに柳の内には絶望の萌芽がみちみちと芽吹き始めていたのだった。

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