小説無題#18 赤い煙管と嘘をつけない男
「そこにおられるんでしょう? どうぞお入り下さい」
ドアの向こうから聞こえるその声で奥村は反射的に動きを止め、息を潜めた。
「とはいえここはわたくしの家では無いんですがね。どうです? 少しわたくしの話し相手になっていただけないでしょうか? こちとら人と話す機会がめっきり無くなって言葉を忘れてしまいそうなんです。どなたか存じあげませんが柳様の行方について興味がお有りでしょう?」
リビングから聞こえるその声は、あまり特徴の無い男の声だった。野太くもか細くも無い。言葉遣いは極めて丁寧で、謙遜しているようにも相手を馬鹿にしているようにも聞こえる。そしてその男が紡ぐ言葉はあまりにも不自然だった。まるで言葉遣いが男の人間性と乖離しているような無機質な響きを帯びている。
奥村は自分がどのような行動をとるべきか判断しかねてその場に貼り付いたようにじっとしていた。
「何も怖がることはありません。もし仮にわたくしがあなた様に危害を加えるつもりであればきっとつべこべ言わずに不意打ちを喰らわせていたことでしょう。どうです? ここでひとつ取引をいたしませんか。わたくしは柳様のことについて知りうる情報の全てをお話しします。代わりにあなた様にはわたくしの存在を黙っていて貰いたい。あなた様とわたくしはここで出会わなかったし面識もない。そういう事にしといて欲しいのです。この機会を逃せばもうどんな酷い拷問を受けようとわたくしはいっさい口を割らないでしょう。お互いにとってウィンウィンな条件だと思うのですが…」
「口封じをしたいなら殺せば良いだろ」
奥村はとっさに反論してしまった。リビングの男はいきなり話の腰を折られた事に驚いたのか次の言葉を発する迄に少し時間がかかった。
「わたくしに人殺しの趣味はございません。ヒトって熊や鹿と違って事後処理が面倒でしょう? それにわたくしの目的は口封じでは無く単なる暇つぶしなのです。正直わたくしが牢屋にぶちこまれようが死のうが大した問題じゃ無い。何故ならわたくしの人生は終わっているからです。だからあなた様が条件をのんだふりをして警察にチクったとしてもわたくしは現実を受けとめて次の一手を指す事でしょう。言わばこれはわたくしの人生を賭けたシミュレーションゲームです。…さぁこのような形でわたくしが一方的に話していてもらちが明きませんよ。取引に応じますか? 応じませんか? あなた様の答えによってはわたくしの行動、即ちシミュレーションゲームとしての次の一手を変えることになるでしょう」
奥村はドアをあけリビングに入った。男に殺意が今のところ無いのだろうということ、何よりこの男の行動原理が分かったような気がしたからだ。
リビングの照明はついていなかったが部屋が南側採光になっている為、室内は十分明るかった。ドアを入って右側の壁沿いにソファとセンターテーブルが置かれており、左側の奥がキッチンでその手前にダイニングテーブルがある。男はそのダイニングテーブルの上に腰掛けていた。赤いハンチング帽を被り、赤いウィンドブレーカーを着て、同じく赤い煙管をふかしている。その傍らに吸殻の目一杯詰まった灰皿がひとつ置かれている。
男は右足をダイニングチェアの背もたれの上に預けていたが、履いたままのスニーカーは靴底がすり減って溝が無くなっていた。
「取引に応じよう」奥村は端的に答え、すかさず言葉を続けた。
「ただし条件がある。僕に対して絶対に嘘をつかない事。誓って頂ければ今回の違法行為に関してだけ目をつぶりましょう」
ハンチング帽の男は身じろぎもせず奥村の方をじっと見つめていた。物思いに耽るかのように何度か煙管をふかしては口を開けゆっくりと煙を吐いた。
「若いな」
ハンチング帽の男はそう呟き、爪楊枝のようなもので煙管の灰を灰皿の上でかき出した。灰は吸い殻の山の上に火山灰のようにふりそそいだ。
「改めまして。わたくしは便宜上、田中と申してるものです。本名を晒せる程の社会的地位も恥を晒す面子もございません。古今東西、大勢の名も無き人々と同じように堕落し、恥を上塗りながら生きて参りました」
男は煙管をダイニングテーブルに置き、ハンチング帽を脱いで胸の前に添えながら言った。行儀が良いのか悪いのかよく分からない。
「ですのでわたくしの事は田中とお呼び下さい。…先ほどあなた様が仰られた条件ですが当然イエスです。はなからそのつもりなのでわたくしの知りうる情報のを全てお話致しましょう」
自称田中はハンチング帽を被り直して顎髭を撫でた。