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小説無題#10昨日見た夢

 前日にちゃんと用意した甲斐もあって身支度にはそれ程時間が掛からなかった。冷たい水で顔を洗い、電子レンジを使って蒸しタオルを作り、それを頭に乗せた。元々寝癖が付きやすい体質ではあったので蒸しタオルには長いことお世話になったし、それが柳にとって儀礼的な意味も含むようになっていた。特に物事の節目など重要な局面では蒸しタオルを頭に乗せる事が験担ぎの儀式と化している。実際、初めからニット帽を被るつもりだったので寝癖を直す必要はあまり無かった。しかしここ最近立て続けにおこる不気味な出来事から推測するにこの旅を何事もなく終える事は不可能だった。シャーマニズムだって科学的じゃなくたってなんだって柳は藁にすがる様な思いなのだ。もう物事は動き始めている。急遽旅行を取りやめにしたところで抗うことは出来ない。
 柳は煙草が吸いたかったが煙草は今切らしてしまっている。コンビニエンスストアに寄るまで我慢しなければならない。代わりにソファの下から出てきた何時いつのものか分からないガムを噛んだ。メントールが揮発してしまっていて何とも気の抜けた味がした。柳はガムを吐き出して残りのガムもろともゴミ箱に突っ込むと、キャリーケースひとつを引っ提げ家を出た。

 外は驚く程晴れ渡っていた。昨日の雨で濡れた路面が太陽に照らされてきらきらと輝いている。まだ太陽はビルの隙間から顔を出す程度だったが、日が高くなればより清々しい一日になりそうだ。柳は早速コンビニエンスストアに寄って煙草を二カートンと焼きそばパン、缶コーヒーを買った。店の駐車場でキャリーケースに座り、焼きそばパンを三口で頬張り缶コーヒーで流し込む。咀嚼が終わらぬうちに煙草の包装を剥がして一本咥え、予めポケットに忍ばせておいたライターで日を付けた。澄み渡った空に煙が登ってゆく。昨日の雨によって洗われた綺麗な空気に煙という不純物が取り込まれてゆく様子を柳はただぼんやりと眺めた。その様子が何だか人間の様だとふと思った。元々は純粋な子供であった筈なのにどんどんと不純物を取り込んで本来の在り方から歪んでいってしまう。そしてとある夜にふと、自分はこんなにも汚い大人になってしまったのだと気付かされる。しかしまた過ごす日々の中で不純物を取り込んで変質してしまうのだ。それをある人は『成長』と呼び、ある人は『退化』と呼ぶ。だが仕方の無い事なのだ。何かを手に入れる為に何かを手放さなければならない。
 柳は煙草を店の外に設置された灰皿に落とし、再び駅へと歩を進めた。
 一般道の上を走る高速道路の高架橋は晴れ渡る空を半分隠していたが、これはこれで悪くない。肌を刺す様な冬の寒さに身震いして柳は白い息を吐いた。ひとまずは羽田空港に向かいチェックインしなくてはならない。柳は高架橋沿いの道を外れて商店街に繋がる道へ入った。するとちょうどその時、商店街の方からジャージを着た女生徒の一群がこちらに向かって来るのが見えた。時刻はまだ午前七時前だったが、たぶん部活動の朝練に向かう子達なのだろう。皆んな寒そうに肩をすくめている。無理もない、今日は随分と冷え込んでいた。柳が女生徒達の様子をぼんやり眺めていると、その一群の後方に松葉杖を突いた子がいるのが見えた。その子は右足首にギプスをはめていて、ブロンドの髪には赤いカチューシャをしている。柳はその子に見覚えがあった。そう、つい昨日出会ったばかりの碧眼の少女だ。その少女は隣の子と談笑していたが、笑顔はどこか力無かった。きっとこの子は部活動の厳しい練習中に怪我をしてしまったのだ。そしてチームの主力メンバーである自分が怪我をしてしまった事でチームメイトに対して申し訳なさを感じている。だからこそ、朝練に顔を出して連帯の気持ちを送っている。そしてその気持ちをチームメイトは受け取っているのだ。
 ただの他人である柳だったがその様な光景をありありと思い浮かべる事が出来た。言葉に出さずとも想いと想いは交差して相手に影響を与える。部活動というのはそういったコミュニケーションの一種なのだろう。
 柳はただぼんやりと碧眼の少女を眺めながら想いを巡らせていたが、不意に少女と目が合ってしまった。柳は急いで目を逸らしたが、それが逆に不審さを増してしまった。気付かれたかもしれない。碧眼の少女は隣の子に耳打ちをした後、その子と一緒に足早に去ってしまった。周りのチームメイトは二人の様子を何事かと眺めているだけだ。
 その時不意にロシア帽の男が柳の脳裏に浮かんだ。ロシア帽を深く被り、狼の様な鋭い視線をこちらに向けている。そしてその視線からは何人たりとも逃れる事が出来ない。どこに向かおうと身を隠そうとたちまち見つかってしまうのだ。碧眼の少女はロシア帽の男と無関係では無い。

 想像の中で男が拳銃を向けた。銃口の奥では冷たい死がこちらを覗いてる。

 我に返ると柳は駆け出していた。ここに居るとまずい。碧眼の少女はロシア帽の男を呼びに行ったのだ。そしてまた柳を追いかけて来る。柳は前後不覚になりながら走った。柳自身、自分が何処に向かおうとしているか分からなかった。そもそも自分は何処から来たというのだ?

 それでも体は自然とどこかへ向かっていた。一挙手一投足に迷いは無い。
 柳は商店街に入り、寂れた雑居ビルの階段を降り、昨日来たばかりの喫茶店の前まで来た所で異変に気付いた。玄関ドアが開きっぱなしになっていたのだ。店主は普段、ドアを開けっ放しにするのを極端に嫌った。この喫茶店のドアは開ききるとバネのストッパーが掛かって開きっぱなしになってしまう。閉じない事に気付かない客に『ドアを閉めろ』と店主が苛立ち混じりに注意する場面を柳は度々目にしてきた(柳も初めて来た時に怒られている)。しかし今日に限ってドアは開け放たれ照明の明かりが漏れていた。ざわざわと心が逆立つ様な感覚に襲われた。
 柳が恐る恐る店内を覗くと中は随分と荒れていた。一枚板で出来た木製のカウンターテーブルは至る所に穴が空いていて、照明も幾つかが割れて床に散乱している。
 ──柳は店内に入った。
 見渡してみると思いのほか荒らされた形跡の様なものは無い。家具は整然としていたしルイ・アームストロングの首振り人形は相変わらず首を傾げたままこちらを見ている。どうやら柳が感じる『異変』なるものはカウンターテーブルの辺りに集中している様だった。
 柳は足音をひそめてカウンターに近づいた。床に散らばったガラス片がじりじりと音をたてる。

 ──まるでこれは昨夜見た夢の様じゃないか──
 カウンターの上には飲みかけのコーヒーカップと灰皿が置かれたままになっていて煙草が一本灰皿を外れたままテーブルを焦がして消えている。しかし何処にも人影は無く──いや、人が倒れている。カウンターの向こう側で太った中年男性がうつ伏せで倒れていた。そしてそれがこの店の店主である事は紛れも無い事実であった。
 柳は息を呑み瞼を押さえてもう一度見てみたが、視覚情報として読み取れる事象は何ら変化を見せなかった。荒れた店内、穴だらけのカウンター、その向こうで血を流して倒れている店主。解釈はさておいてもこの光景というものは何処か現実からかけ離れて見えた。幸い柳は外科医をしていた事もあり、血を見る事に抵抗は無かった。死んだ人もそれなりに見てきた。だからこそこの状況に動揺しつつも平静を保てているのだ。
 柳は店主の様子をじっくりと観察してみたが恐らくは死後あまり時間が経過していない様だった。外傷も頭部以外無い様だ。
 「どちら様?」
 不意に背後から声が聴こえた。
 柳が恐る恐る振り返ると入り口に中年女性が立っている。とても恰幅が良く花柄のボタンダウンシャツを着た女性だ。
 「どちら様?」もう一度女性が訊いた。
 柳は答えなかった。
 「主人に用ですか?」
 女性は質問を変えた。その視線は柳を恐怖の対象としているようだった。もう柳の選択肢はひとつしか残されていなかった。
 柳はゆっくりと息を整えた。頭の先から足の先までたっぷりと酸素を循環させる。そして意表を突くいて走り出した。入り口に居た中年女性を突き飛ばし階段を二段飛ばしで駆け上がると一目散に駅へと走った。キャリーケースが乱暴な動きをしながら後をついてきている。遠くの方で女性の叫び声が聞こえた気がしたが柳には構っている余裕など無かった。

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