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小説無題#17 侵入者


 柳の家は北池袋にあり、首都高速道路を見下ろせる分譲マンションの二十三階、二三〇五室だ。建物内に入ると、広々したエントランスホールにはひな壇状のウォーターフォールがあり、ベルトパーテーションに守られるように置かれたグランドピアノはひとりでにショパンの幻想即興曲を奏でている。もしかしたら透明人間が実際にダンパーペダルを踏みながら鍵盤を鳴らしているのかも知れない。
 照明にしろ音響にしろ空間を満たす香りにしろ全てが上品で、それでいてその上品さをひけらかしてくる感じが何とも憎らしかったが、とても嫌いにはなれなかった。シトラスのアロマディフューザーの香りやグランドピアノが奏でる音楽が奥村のほの暗い気分を解きほぐしてくれたし、人工の滝は思わず見とれてしまうほど興味深かった。この空間こそが大都会の中に有りつつも殺伐とした俗世から隔絶された結界の内側なのだ。三重の自動扉と警備員によって厳重に守られ、中に入るにはこのマンションの鍵を持っている、もしくは内側の人間に招かれる必要がある。
 そのようなマンションの強固なセキュリティをするりと抜け、受付に座っているすらりとしたお上品なおば様に笑顔で会釈をし、エレベーターで二十三階にむかう奥村は別に魔法を使った訳でもインチキをした訳でもなく、ただ柳の部屋の合鍵をもっていて受付のおば様とは顔見知りになっていたというだけの事だ。

 何故柳の部屋の鍵を奥村が持っているのか? その理由は至ってシンプルで、柳の合意を得て奥村が合鍵を預かっているのだ。
 奥村が柳から合鍵を預かるに至った経緯は幾つかある。そのうちの一つは最近の柳の精神状態にあった。精神の不安定な状態が続き、ひどいときには起き上がる事もままならずインターホンにすら出られなかった。最初のうちは対面での打ち合わせを中止して携帯のメッセージでのやり取りに変更するなどして対応していたが、あわや一人では部屋を出られず公判を欠席しそうになるという一件があって以来、奥村が柳の部屋の合鍵を預かるという結論で合意に至ったのである。インターホンに応じない(応じる事が出来ないと判断出来る)場合には合鍵を使い部屋に入る事が出来るという書類契約も交わしてある。もちろんそれには条件もあって柳不在の状況で入室した場合は理由も含め必ず報告する事。入れるのはリビングまでで、柳や美幸個人の部屋は開けてはならない。部屋から勝手に物を持ち出すなどもってのほかだ。それらの条件が守られなければ契約は破棄されるとある(契約書を作ったのは奥村自身なのだが)。そして今それらの条件に沿って奥村は契約を履行しているまでだ。

 エレベーターは義務的な速度を保ったまま二十三階まで上昇し、奥村を外に吐き出した後、忙しなく下の階へと降りていった。もしエレベーターに心があるならば散々にこき使われてうんざりしているに違いない。そんなことを思いながら奥村は二三〇五室を目指す。
 目指すと言っても一フロアに十部屋しかないのでそんなに大変なことではない。エレベーター前の共用廊下を突き当りまで歩いた正面の部屋が、柳の住む二三〇五室だ。廊下は足元と天井を照らす間接照明だけで照らしだされ、床に敷き詰められたベルベットのタイルカーペットが暗号のような幾何学模様を作り出している。まるで自分が事の真相に迫っている映画の主人公になったかのようなスペクタクルだ。この先に政府の陰謀や真犯人が潜んでいてもおかしくは無い。


 奥村が初めて違和感を覚えたのは二三〇五室の前まで来た時だった。なんの変哲のない見慣れた光景に溶け込む異変は、まるで月明かりに照らされた柳が風に揺られているような不気味さを含んでいた。

 何かがおかしい

 だが奥村にはその違和感の正体が分からなかった。一見して変わった様子は無い。

 奥村は玄関ドアの前に立った。辺りは不自然なほど静まりかえっている。近くを首都高速が走っているなんて到底思えない程の静寂だ。まるで誰かがここら近辺の音という音を盗み去ってしまったかのようだった。若しくは内と外が完璧に隔たれた結界の内側だからこそ外界の音が聞こえないのかも知れない。どちらにせよ状況は異常事態であることは間違いなかった。
 奥村は玄関ドアの前に立ち、コートの内ポケットに忍ばせておいた合鍵を取り出してゆっくりと鍵を挿して…挿さらなかった。
 何度試しても鍵穴に鍵は入らなかった。

 奥村は合鍵の方をじっくりと確認した。間違いなく柳から預かった二三〇五室の鍵だった。奥村は鍵穴を覗いてみた。薄暗くてよく見えなかったが目を凝らすと、鍵穴に何かが詰まっているのが見えた。今度はスマートフォンのライトで照らしてみる。どうやら細長い金属のようなものが途中で折れて鍵穴に詰まってしまっているようだった。

 誰かが鍵を開けようとした?

 奥村はドアを開けようとして…開いた。

 プッシュプル型のドアノブは手前に引いただけでいとも簡単に部外者を招き入れた。結界なんてものは初めから存在しなかったのだ。
 奥村はそのままそっとドアを開け隙間に身体を滑り込ませて中に入り、静かにドアを閉じた。

 玄関には柳の靴が散乱していてここ最近の柳の荒れた生活の息づかいが感じられる。玄関から真っ直ぐに廊下が伸び、その両脇にはトイレとバスルーム、脱衣所がある。廊下の突き当たりのドアを開けるとリビングルーム、その奥がキッチンと寝室だ。廊下はうす暗かったが、リビングのドアの隙間からは太陽光が溢れていた。

「柳さん。居らっしゃいますか? 奥村です」

 返事は無い。

「柳さんお邪魔しますね」

 奥村が発した声はそのまま空間に吸い込まれた。もしかするとこのマンション自体が音を吸収する性質を持っているのかも知れない。
 薄暗い玄関で靴をぬぎ、奥村はリビングに向かった。何やら甘い線香のような独特な香りがする。

「柳様はもうここに戻られる事は無いでしょう」

 リビングのドアの向こうから誰かの声がした。

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