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小説無題#8死と眠りの違い

 どのくらい時間が経ったのだろうか? 目を開けると辺りは真っ暗になっていた。柳は目を凝らして時計を見ると針は六時二十分を示している。もしや朝まで眠っていたのか? 柳は起き上がって窓へ寄り、目下に拡がる首都高を見下ろした。首都高速道路は交通機能が完全に麻痺している。大名行列の様な車列が下り方面へとゆっくり流れ、その始まりと終わりはここからだと見ることが出来ない。見慣れた帰宅ラッシュの風景だった。柳はほっと息をついた。良かった、昏昏と十五時間も眠り続けた訳では無いようだ。
 とはいえ寝る以外にやる事が思いつけない。柳はもう一度ベッドに戻ろうとしたが、布団を被ろうかというタイミングで旅行の準備を全くして無い事に気づいた。別に旅先で着の身着のまま一週間過ごすというのも悪くないかも知れない。しかしこれまでの人生で一週間同じ服を着るという事が無かったので少しだけ怖くもある。何故人間が毎日身体を洗い、服を着替えるのか、ただの文化や風習という枠に収まらない合理的な理由が有るのだろう。尤も殆どの人々はいちいち理由など考えもしないだろうが。
 とにかく荷造りをしておかなければ。後回しにすればする程未来の自分を苦しめる事になる。柳はさっそく荷造りを始めた。歯ブラシ、電気シェーバー、充電器、暖かいインナー、替えのパンツ、セーター、ウィンドブレイカー、ニット帽、ネックウォーマー── 思いつく物を手当り次第床に広げ、本当に必要なものかどうかを精査した上でキャリーケースに詰めていった。出来るだけ荷物を軽くしたかったが、とはいえ向かう先は真冬の日本最北端だ。手ぶらで行って凍え死んだら元も子も無い。柳には今回の旅が恐らく人生で一番過酷な旅になる予感があった。だからこそ不足は許されないのだ。
 一時間ばかりこれは要るあれは要らないと取捨選択を重ね、ようやく荷造りが終わった。防寒具の類で布陣を固め、電気シェーバーや歯ブラシなど現地調達出来そうなものは置いて行くと決めた。無いとすぐに困るという訳でも無いし、何より重要な事は如何に寒さに耐え海を見続けられるかにあった。本来の目的を見失ってはならない。
 柳は夕飯を食べていない事に気づいたが食事を摂る気にはならなかった。代わりに雨でくたびれた煙草のボックスから最後の一本を取り出して吸った。明日の行き道で煙草をカートン買いしよう。
 柳は用心深く煙草の火を消し、水道水を一杯煽って再びソファに横になった。柳の寝室のドアは長い間固く閉ざされたままになっている。
 別に眠くも無かったが柳は寝てしまいたかった。いっそ永遠に眠り込んでしまっても構わない。人は何故死を恐れるくせに眠りを恐れないのだろうか? 死と眠りに違いなどあるのか? あるのはその状態に至る過程で痛みを伴うかどうかだ。しかしこの隔たりがあまりに大き過ぎるのだろう。世の中には生きる意味が分からず、でも死ぬのが怖いからと亡霊のように生きる人々がいる。柳もそういう人々のうちの一人だった。そのくせ嬉しいだとか楽しいだとかいったポジティブな感情をちゃっかりと感じてしまっているのだ。自分が何を求めて何がしたいのかさえ分からない。こんな矛盾をはらんだ不完全な『肉体』という名の乗り物は柳を何処に連れて行こうと言うのだろうか? 柳はただ観測者として事の顛末を見届けるしか無かった。

 柳は寝返りを打ち体勢を整えてから目を閉じた。人はいずれ死ぬし眠りに落ちる。その殆どが本人の意に反するかたちで。今はその時で無くともいずれその時はやってくる。しつこいようだが希望どうりになる事など殆ど無い。気づいた時には既に事が進行している。意識は現実を離れ幻想の世界を旅する。そして無意識の自分が意識的な自分に警告するのだ。

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