黒部市美術館「海と生きる 記憶をたどる物語」展
黒部市美術館「海と生きる 記憶をたどる物語」展行ってきた。
昨年秋に黒部市民等対象に当展への作品募集のチラシをもらっていた。(2023年9月25日締切)
生地小校舎を描いた作品が2点あったが、いずれも用紙に対して校舎が右肩上がり、つまり水平線が斜め右上になっている。写真を撮る時にカメラ右側を下げるとこうなるが、絵でこの発想はなかった。どういう意図があったのだろうか。今年の地震を踏まえてなら分からないこともないけれど、昨年描かれたはず。
その生地(黒部市生地地区)について、1154年の海嘯によって青海原となり、その後人々が戻ってきたことから、生まれた地に帰るという意味で生地というようになった、この大津波の原因は海底地滑りという説があるという。
Wikipediaによると、「1154年9月19日(9月26日)(仁平4年8月10日) 富山付近で地震 - 新川郡で陥没、死傷者多数と称す(『越中古文抄』)」「富山県黒部市にある新治神社では、文治元年(1185年)の大津波により新治村が浚われて海に沈み、その後、より内陸部に新治村が再興されたと伝わる」12世紀に2回大津波があったということか??
同じくネット上「日本海地震・津波プロジェクト」では1848年発見の「越中国新治村海嘯被害取調図」に被害年が文治元年(つまり1185年)と記載があるにもかかわらず、「1154年に記録されたものではない可能性もある」と書かれている。(https://www.eri.u-tokyo.ac.jp/project/Japan_Sea/2-1-2nihonkai_150928.pdf)
大津波があったのは1154年・1185年どちらかなのか、どちらもなのか。
石田小学校の出前授業で制作された作品に「人の「レジリエンス」の力強さを知ることができました。」と作者コメント。たぶん自分が小学生の頃だったら、こんなこと言えてない。
以前、黒部市美術館で拝見した高慶敬子さんの作品も出品。
東日本大震災の記録。気仙沼市、明治三陸大津波到達8.5mを示すポールの上にある照明器具がもぎ取られている。「「これ以上の津波は来ない」という迷信は非常に危険だ」
「過去としての今が未来を救った地域の歴史となるよう、私たちは最大限の努力をしなければならない」
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