『高松次郎 リアリティ/アクチュアリティの美学』より、高松次郎《題名》

大澤慶久氏著『高松次郎 リアリティ/アクチュアリティの美学』水声社、2023年
高松次郎《題名》という題名の作品。第一印象は、やっちゃったな。塗料を床にこぼして、こりゃ拭くのが大変だ。ウエスウエス、溶剤溶剤。
1斗缶から赤ペンキがあふれ出て、結構な範囲で木の床にこぼれている。本書にはカラー図版で1971年の初回バージョンが載っている。が、再制作に伴いいくつかのバージョンがある。このカラー図版のバージョンをver.1.1とする。
その構想時に描かれたものと思われる《ドローイング》には本作のスケッチと「単体(一つのもの) 自己同一性 えのぐ 容器」といった言葉などがある。これをver.0.1としてみる。ver.1.1と比較するとスケッチは床のえのぐの範囲が正方形に近く、より狭い。
「高松次郎 題名」で画像検索すると、Art Site Horikawa-IIに本書に無い画像が2種見つかった。うち一つが、ver.1.1同様、床に直接置かれているものの、ペンキがこぼれているのではなく、筆で床に正方形の面が絵画のように薄塗りで描かれ筆あとも見える。この程度の汚し方ならすぐ拭けそうだ。その真ん中にペンキを満々とたたえた1斗缶、その蓋の三方を切り取りめくられているのは他ver.と同じだが、何らかの工具でピシッとまっすぐ180度本体外側に折り曲げられている。これをver.1.0としてみる。他ver.の蓋は人力でぐにゃりと曲げられており、本体に近い部分は曲面となっている。
ペンキの範囲はver.1.0→1.1とすることが可で逆は不可。蓋の状態はver.1.1→1.0とすることが可で逆は不可。
おそらく、ドローイングに従って、ver.1.0を工作してみたものの、あまりに作為的に過ぎると考え、ver.1.1を再制作したものと推察する。ver.1.0と1.1ともアトリエでの制作。
次に同年1971年東京都美術館に出展されたもの。この際、床を汚すことが禁じられたため床の上に鉄板を載せ、その上で制作された。Art Site Horikawa-IIにこのver.の写真が展示室壁面の関根伸夫「空相」シリーズの版画とともに写されているが、「高松次郎 題名」と書かれているであろうキャプションカードが鉄板の上、こぼれたペンキの付近に置かれている(ver.2.0とする)。
一方、本書掲載の図版ではキャプションカードが鉄板の外、美術館の床の上に置かれている(ver.2.1)。
ver.2.0では、キャプションカードを鉄板の上に置いたと思われる学芸員は、床を汚さぬよう要求したのは都美であり、ver.1.1を知っている者として当然鉄板は汚れ防止の一道具にすぎず、展示室の壁同様に背景でしかないと考えた。というより、観者の動線のみを考え、そこに置いた。
ところが、再入館した高松がこれを見、やや?、ぼくがこの鉄板を持ち込み、その上にペンキ缶を置いたのだが、鉄板も含めて作品ではないか、と思い、キャプションカードを鉄板の外に移動させたと想像する。更に、おや?この作品は〈単体〉即ちペンキ缶の中のペンキ、ペンキ缶表面全体を覆っているペンキ、ペンキ缶の外にこぼれだしているペンキ、このペンキの3様態がすべて一つのもの=自己同一性であるという着想であったが、ここにおいて、ペンキ、その容器である缶、それらを支持する鉄板と複数の異なるものによって構成してある、と気付いたのではないか。
その後、さまざまな物質を組み合わせて構成する〈複合体〉シリーズの端緒となったと推察する。
作品の一部となった鉄板は以降、構成的にずらして置かれたり(ver.3)、増殖したり(ver.4)再びミニマルに戻ったり(ver.5)する。
そもそもの作品の主要な企図は、(高松の言葉)「アトリエで作品を作るのに使っている最中の、側面にびっしりとラッカーの付いた一つの缶が完璧な物体のように見えたときもあった。」(日々の芸術活動の結果、作為的ならずしてそこにあることとなったものをフレームを通してみえたもの←ver.-0.1としたい) (著者記述)「それをそのまま作品として提示するのではなく、芸術の制度的な枠組み(作品タイトル)との関係においてそのリアリティが堅持されるよう作品化すること」であった。

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