やはり伊藤若冲「白象群獣図」はプロジェクションマッピングだった【確信】

前回、伊藤若冲「白象群獣図」がプロジェクションマッピングであったという仮説を提示したが、その時点では妄想であった。
プロジェクションマッピング自体を伊藤若冲が発明したとでもいうのか?
しかしこの度、「写し絵」なるものが江戸時代に隆盛していたことが、分かった。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/eizogaku/68/0/68_109/_pdf/-char/ja
オランダ渡来と思われる幻燈が18世紀後半には見世物として広まった。関西で「錦影絵」といわれた最初の文献が1779年大坂で刊行された「天狗通」。「白象群獣図」の制作年が1772年–1787年頃。若冲自身が幻燈を見る機会があったかは不明だが、丁度時期的に「ちょい若冲はん、わい大坂でな、こないなもの見てきましてん」と、あたらしもん好きな京都人のこと、聞き伝えにて知る機会は十分にあったのではないか。
錦影絵はスクリーンに投影したが、これを建築物である寺社の格子に投影したらどないなりますやろかを屏風上で行ったのが若冲と想像する。
「白象群獣図」で、地の格子の縦ラインと図の輪郭が合致しているのは無生物である方解石の縦輪郭のみである。それ以外の登場モチーフである動物は、折角丁寧に描いた格子のラインを無視するがごとく配置されている。即ち、無生物は地に固定されているが、いきものである動物は地にとらわれず空間を自由に動き回っているところを想像しとくりゃす、という意味が込められている。
寺社の格子という立体物に投影することを想定したことで、プロジェクションマッピングの厳密な定義である「建築などの"立体物”に映像を張り合わせる」と合致することとなった。

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