24京都・街の湧水、郊外
84神護寺の「閼伽井」
高雄・神護寺の「閼伽井(あかい)」は、国宝の薬師如来立像が安置される本堂の左手、やや坂を下った右側の斜面にあった。斜面地に横穴を掘り抜き、現在でも水が浸み出している。底に深さ10㌢~15㌢ほど水がたまっていた。
「閼伽」は仏に供える水が出る井戸のこと。神護寺の若い僧の話では、「閼伽井の水は底が浅いため、濁りが混じって飲めない」という。仏に供える水はどうしているのかを聴いた。「近くに水がわく別の場所があり、この湧水を使っている」と説明された。
閼伽井は山の傾斜地の下部を横に掘り抜いてあった。目測だが、横穴は高さ約1・2㍍、幅約1・2㍍、奥行き約2㍍ほどの大きさ。奥行きのどん詰まりは岩盤、穴の両脇には石積みになっていた。
横穴は構造的に泉湧寺の塔頭寺院「来迎院」の「独鈷水」の井戸とほぼ同じような造り。「独鈷水」は底にたまった水を柄杓(ひしゃく)でくんで飲用できる。
神護寺の閼伽井は横穴がぽっかり口を開いているが、前に柵があって閼伽井の中には入れない。底は30㌢ほど掘ってあり、水がたまっていた。閼伽井の上はスギ林と常緑広葉樹の森。この森に降った雨が地下に浸透し、閼伽井に浸み出している。
閼伽井の水は下にある池に注いでいた。池にはきれいな水がたまっていた。
空海が最澄の推薦で神護寺の住持を809(大同4)年から14年間務めたという。仏前に水を供えるため、自ら掘った井戸とされている。空海は嵯峨天皇の帰依を受けて、醍醐寺から嵯峨天皇が住んだ大沢池のある離宮まで通い続けた。大沢池の池畔にある閼伽井も空海が自ら掘ったと伝承されている。
大沢池畔の閼伽井は水が涸(か)れているが、神護寺の方は水が浸み出し、現役で生きている。それだけで貴重で国宝級だと思った。神護寺ではこの閼伽井の水は供花を生ける時に使い、仏前には閼伽井の近くにある別の井戸の湧き水を使っているという。
神護寺があるのは右京区梅ヶ畑高雄町。寺伝や寺のホームページによると、神護寺の前身は平安遷都の提唱者だった和気清麻呂が奈良時代の781(天応元)年に私寺として建立した高雄山寺。清麻呂が没すると、高雄山寺の境内に清麻呂の墓が設けられ、和気氏の菩提寺としての性格を強めた。清麻呂の子どもは亡父の遺志を継ぎ、最澄、空海を相次いで高雄山寺に招いた。
空海は15歳で讃岐(香川県)から上京し、都の大学で学んだが突然、個人的に僧となる「私度僧」になった。31歳の時、東大寺で受戒し、官僧となった。その後、遣唐使船に乗って入唐した。空海は官僧ながら私度僧の身分で乗船した。共に乗船して入唐した最澄は私度僧とは身分も位も比類出来ないほど高い官費の学問僧だった。
私度僧が入唐した場合、20年間の在唐期間が義務付けられていた。だが、空海はわずか2年で帰国した。在唐期間があまりに短い約束破りのいわば罪人で、京の都での役人の追跡を逃れようと九州など各地を転々とした。最澄の計らいで帰国から3年後にようやく京都に入ることが許され、高雄山寺に招かれた。本当は最澄様様なのだ。
高雄山寺は824(天長元)年、寺名を神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ、略して神護寺)と改め、一切を住持の空海に託した。994(正暦5)年と1149(久安5)年と2度の火災で本尊薬師如来を残して全山壊滅の状態となった。平安時代末期に再興したのは文覚だった。
神護寺も明治時代初め、薩長藩閥政府の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)、神仏分離令のあおりを食らった。現在、御苑近くにある護王神社は神護寺境内にあったが分離されて移転した。
護王神社は狛犬(こまいぬ)でなく、狛猪(いのしし)。なぜ猪か、なぜ足腰の守り神か。神社の説明では、「道鏡事件」で和気清麻呂が大分県の宇佐八幡宮に赴いた際、「多くの猪が清麻呂を守って道案内したから」としている。しかし、神護寺の急な長い階段を登り降りし、山深い境内を歩いて納得した。やはり犬ではなく山暮らしの猪がふさわしいと思った。
神護寺は、平安京造営に功績のあった和気清麻呂が河内(大阪)に神願寺を設けた781(天応元)年ごろ、ほぼ同時期に山城(京都)に高雄山寺を建立したことが始まり。
高雄山寺では、802(延暦21)年に最澄が法華経の講演をする「法華会」が開かれ、812(弘仁3)年には空海が住持に就いた。824(天長元)年、神願寺と高雄山寺を合併し「神護国祚真言寺」)となった。
85醍醐寺の「醍醐水」
醍醐寺・上醍醐の「醍醐水」を飲みに行った。泉は仏に供える「閼伽水」とされ、開山の昔から湧き出ている。お堂前の水くみ場で水をくむとモーターが作動して水をくみ上げる仕組み。ガブガブ飲ませてもらった。水は癖がなく、口当たりが良く、うまい水だった。
清龍宮のわきにあり、准胝(じゅんてい)観音堂の跡地の下にある。三方を斜面に囲まれた谷地にあり、泉が湧き出しても何ら不思議でない場所。水は超軟水という。
醍醐寺の説明によると泉がわいていた場所にその後、穴を掘り、井戸仕立てにした。井戸はお堂の中にあって見ることはできないが、深さ約1・5㍍、広さ約2、3㍍のサイズという。「結構な量の水がたまっている」といい、醍醐寺修験者たちもこの水を飲んでノドと心を癒すという。
いわれ書きや伝承によると、平安時代初期の874(貞観16)年、空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が草庵を開山した。聖宝が、山の神の地主神・横尾明神と出会った場所で落ち葉をかき分けると泉がわいていた。聖宝は泉のわく場を石組みにして泉の水を仏に供える閼伽(あか)水に使ったという。聖宝は醍醐水にちなんでこの地を「醍醐山」と命名した。
聖宝は草庵に准胝(じゅんてい)観音と如意輪(にょいりん)観音をお堂に祀(まつ)るようにして、准胝堂と如意輪堂が876(貞観18)年に建立された。ここが醍醐寺開山の地となった。
准胝堂は西国33霊場の第11番札所で、2008年8月の落雷で全焼してしまった。准胝観音像はかろうじて運び出された。1968(昭和43)年、下醍醐に准胝堂が再建され、准胝観音像を安置。仮の札所はこの観音堂に移された。特別公開の日は拝観できる。焼けた観音堂は再建予定で、お堂があった場所は空き地になっている。
この上醍醐に対して、下醍醐がいわゆる醍醐寺。907(延喜7)年に醍醐天皇の勅願で薬師堂が建立された。不動明王、降三世夜叉(ごうざんぜやしゃ)明王、軍茶利夜叉(ぐんだりやしゃ)明王、大威徳明王、金剛夜叉明王が安置される。現在の「五大堂」は豊臣秀頼が再建した様式を再現して1940(昭和15)年の再建。京都の人たちからは通称「五大力さん」と呼ばれる。
926(延長4)年には釈迦堂(金堂)も建立。大伽藍の「下醍醐」の主要な建造物が建ち並んだ。醍醐寺金堂は豊臣秀吉の発願から紀伊国有田郡湯浅(和歌山県有田郡湯浅町)にあった「満願寺」本堂が移築された。秀吉が紀州征討を行った際、湯浅地域を支配していた氏族が降伏。居城の満願寺を秀吉に明け渡すことを条件にして焼き討ちを免れた。
五重塔(国宝)は京都市内で最古の五重塔。平安時代後期の951(天歴5)年に建立された。高さ38㍍。大地震や大型台風で一部が破損し、そのたびに修理が重ねられてきた。塔の内部には平安絵画の壁画も残る。
応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔だけが残されるだけとなった。特に応仁の乱の最中だった1469(文明元)年秋には、周辺集落の村民たちが寺に納める年貢を半分にすることを要求して暴動を起こした。僧兵たちが武装して農民たちを弾圧した。
長い歴史があれば、暗い時代もある。一方で、安土桃山時代には、天下人となった秀吉が、1598(慶長3)年に花見の宴を醍醐寺で開いた。この「醍醐の花見」には秀吉の正室・寧々(ねね)ら着飾った女性が多く参加して華やかだったという。花見の跡は上醍醐に行く参道沿いにある。
下醍醐の奥にある「女人堂」から先は聖域で拝観料とは別料金の入山料が必要。
閼伽水とは別に上醍醐に近い参道の途中にある「不動の滝」の水もうまい水だった。不動明王のわきに小さな沢をせき止めたとみられる石組みからの流れる滝口の樋(とい)がある。落差4㍍の人工瀑布(ばくふ)。登った2023年4月3日昼には樋から水は流れていなかったが、水は出て水盤に注いでいた。備え付けの柄杓(ひしゃく)で水を受けてガブガブ飲んだ。冷たくて、うまい水だった。腹痛などの異常は全くなかった。
上醍醐に登る参道わきにはほかに2カ所、水を飲める水場がある。清浄な空気感があふれる中にきれいな水があって、いかにも奥山に入ったという感じがした。
86日向大神宮の「朝日泉」
日向(ひむかい)大神宮の霊泉「朝日泉(あさひせん)」は、内宮(ないく)の下、階段昇り口の右手にあるカギのかかった小さな祠(ほこら)の中にあった。奈良時代、天智天皇が神体山の「日山(かみやま)」と名付けた「新明山(しんめいやま)の西麓に鎮座していた。
神明山は神体山とあって、斧(おの)や鉞(まさかり)で樹木が伐採されない「斧鉞(ふえつ)の森」。朝日泉はカシ類を中心にした、うっそうとした常緑広葉樹が茂る森に育まれていた。
神社によると、朝日泉は「穴を掘った井戸ではなく、水が湧き出して底に水がたまった状態」という。小祠(しょうし)は「朝日泉御井(あさひせんみい)神社」と呼ばれる。毎年・元旦の午前3時から始まる若水神事の時だけ、扉のカギを開けて霊泉をくみ、神々に供えられる。この若水神事の時以外には扉は開かない。
小祠の扉はだいたい元旦午前3時から朝まで開けられる。コロナ禍の前、正月三が日は内宮の前に水がめが置かれ、参拝者に水が授与され、霊泉を飲むことができた。しかし、コロナ禍になってからウイルス感染を心配して、霊泉は飲めなくなってしまった。霊泉そのものは見ることも泉の水を直接飲むことはできない。
ただ、神社の特別な計らいで霊泉の水が飲めるようになっている。霊泉からやや離れた外宮(げく)入り口階段下の手水舎から出る水は朝日泉と同じ源泉。朝日泉を引水している。
神社は奥ゆかしく、この水が「朝日泉」の水とは宣伝していない。手水舎の張り紙には「(水をくみあげる)ポンプの具合が悪い」としか記されていなかった、水は竹筒1本の樋(とい)からしか出てなく、水盤に水はたまっていなかった。それでも、十分、水は飲むことができる。
手洗いだけではもったいないので、水を飲んだ。やわらかく、口当たりの良い軟水だった。「生水は遠慮してもらっているが煮沸すれば飲める」と説明されたが、生水で十分飲めた。神社の計らいに感謝した。
朝日泉のいわれ書きによると、平安時代の貞観年代(859~877年)、清和天皇のころ、都に疫病が流行した。清和天皇は神のお告げで、この霊泉を人々に与えたところ、疫病が鎮まったとされる。天皇は霊泉を「朝日泉」と名付けたという。平安時代初めと同じ水が飲めるのは感動ものだ。神社には数多くのパワースポットがある中、この霊泉こそホンモノのパワースポットではないかと思った。
日向大神宮は東山36峰の1つ、神明山(日山)の山頂近く、山科区日ノ岡一切経谷町にある。創建は神話時代約1500年前以上の古墳時代のころといい、京都最古級の神社の1つ。487年ごろ、天孫降臨の地とされる九州・宮崎県に相当する日向(ひゅうが)「高千穂の峰」から神の宿る場所を移したとされている。
地元では大神宮は、京の都の伊勢神宮として「ひゅうがさん」と呼ばれる。大神宮から南東の方角に伊勢神宮があり、山頂付近に伊勢の遥拝所がある。正月、伊勢神宮の代参として多くの参拝者でにぎわう。(続く)(一照)