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1番目アタール、アタール・プリジオス(28)本当の主人




 *



アリエルは、パルムに頼んで分厚い本のようなあの黒い手帳を譲り受けた。

パルムは、アリエルの願いを叶えてあげられるのが嬉しくて、にこにこと上機嫌に「い…い、いい、いい…よぉ!」といつも以上に吃りながら、しかし手のほうは滑らかな動きで、さっと差し出してくれた。


アリエルは、それをゆっくりと特別な神宝を大司祭から頂戴するように恭しく受け取った。



「…ありがとう。パルムさん」



傷んで少し破れた皮表紙をじっと見つめ、その手触りを幾度となく確かめるように指で撫でていたが、やはり我慢できなくなってしまい、胸に当ててぎゅうっと抱きしめた。



「もう、離れない。ずっと…」



手帳は父の直筆の文字で溢れている。
数多の言語を自在に操れたという父エクトラスの才能を、彼もそれには到底及ばないだろうけれども、少しは受け継いでいる。
父が好きだと話していた北方の未開地ゼルゼの言葉も大方は理解できたし、現地人の発音に近いかどうかは自信がないが話すこともできた。
だから、この父の日記を兼ねたゼルゼ語で書かれた手帳の内容も恐らくほぼ解読できる。

今までは、早世し顔も覚えていない父の存在をあまり良く感じていなかった。むしろ恨みを抱いてさえいたし、肉親という感覚も薄かった。
また、それに縋りつくのも何となく子供っぽくて格好悪い気がしたため、今まではパルムに借りて何となくパラパラと捲りながら流し読みをしていた程度だった。
しかし、次の宿では、夜から午前中の間ずっと舐めるように読み耽ろうと思う。


「俺って、父さんっ子だったんだな…まぁ…そりゃそうか。母親は俺を産んですぐ死んじゃったんだもんな…」


呟いていると、部屋の中扉が開いて、隣室のロエーヌが入って来た。


「アリエルさん。支度はもういいですか?」


ロエーヌは既に荷物を背負い、腰に普段使いの剣を穿き、懐中時計を首に掛けた出立ちだった。

この懐中時計は、聖剣『時空』のもう一つの姿だが、まだ剣の姿に戻る様子はなかった。
いずれ戻るはずだと断言した、水晶玉の姿の天才占星天文学者アタール・プリジオス博士も、今のところ、また何か起きる可能性があるのだろうと言うに留まっている。


「大丈夫。俺の持ち物はこの手帳と短剣と巻物、それに“先生”だけだから。ロエーヌ姉さんの荷物、少し持ってもいいくらいだよ」


彼はちらりと、机の上に鎮座している水晶玉を振り返る。


「…そうですか。では、あなたにはこれを預けましょう」


そう言って、ロエーヌは首に下げていた懐中時計を外して、アリエルのほうに差し出した。
少し錆びているのは仮の姿なのだろう。その聖なる力を発揮するときは、剣の形のときと同じように、強く輝くということを彼はもう知っていた。


「…いや、それは1番まずいと思うけどな」


「なぜです?」


「だって、それは聖剣士が持つべき物でしょ? 聖剣『時空』なんだから…」


「私が持っていても、たぶん何の反応も示しません。なので、あなたが持った方がよろしいかと」


「でも」


アリエルは食い下がるも、姉は少し寂しげに微笑み、蒼い湖のような美しい眼を軽く伏し、彼に優しく言った。


「思いますに、『時空』の本当の主人はあなたですよ」


「え? まさか…俺、剣なんて扱えないよ」


「そんなことは関係ないでしょう。鞘を抜けるかどうかだと言いましたよね? 
私はそれを手にして抜きましたが、あなたはそれに触れることもなく抜いたのです。
『時空』はあなたの怒りを恐れて、自ら“懐中時計”という本性を晒しました。
つまり、主人の前にひれ伏したのです。
それは、既に『時空』自身があなたのものだと認めたことになりませんか? アリエルさん」


「そんな、たまたまだって! それに袋からは出たけど、鞘からは抜けてなかったよ。そのまま砕け散って、懐中時計になっちゃったんじゃんか」


「違います。起こるべくして起きた出来事です。鞘から抜けずに砕けたということは鞘も砕け、尚且つ刀身も砕けたということです。
しかも聖剣自ら進んでそう為したのです。単に手を使って抜いた以上の意味合いがあることは間違いないでしょう。
それに加え、懐中時計に変化し、主人であるあなたへの最初の奉仕としてあなたが望む過去へ誘ったのだと私は思います。
実際にはお師匠様の指示であなたの生誕の時となりましたが、あなたの声に反応したのでしょう。
それに『時空』は今は古びた懐中時計に過ぎませんから、あなたが持つことに何の不都合もないでしょう」


「そうかもしれないけどさ…」


アリエルはまた水晶玉を見た。
それに応えるように、アタール・プリジオスはきらりと艶めく。



…ロエーヌの言うとおりにしろ。彼女は直感でそう感じているのだ。剣士の直感を侮るな。



「分かったよ…」



彼は諦めて、ロエーヌの手から懐中時計を受け取り、首に掛けた。時間は合っているようだった。どうやら使えぬ骨董品というわけではなく、まだ“今”という時を刻み、生きている。

あのときのような、盤面のぐにゃりとした歪みも今は見えない。どうやら普通に持っていられそうだった。


「ア、アーリェ、じ、じゅ、準備、ば、ば…万端だ、ね…」


「ああ、そうだね。あとは、準司祭様にご挨拶するだけだね」


パルムの笑顔に釣られて、彼は笑ったが、どうにも落ち着かない。
本当の主人は自分だと言われても、まだ信じられない。
道中で聖剣の形に戻る可能性だってある。そのときはやはりロエーヌの手に渡すしかないだろう。


…では、行こうか。アリエルよ、くれぐれも私と巻物を置いていくなよ。


「分かってますよ。『幽体』になってくれれば、忘れることもなく、荷物にもならず、軽くて済むんだけどね」


アタールの声を聞き、少年はぼやきながら、巻物を懐中に仕舞う。


水晶玉は一応、青いビロードの布切れに包んでから、彼は持っている小さな荷物入れの中に、短剣と共に押し込んだ。








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