1番目アタール、アタール・プリジオス(34)『ムジク・トゥクル』
*
夜が明けた。
オルゴールの村のお伽話のような朝が始まる。
殆ど眠らずにいたアリエルは、まだ布団の中で微睡んでいた。ロエーヌも起きてはいたが、眠そうに目を擦っている。
「お、おはよ。おは、よう、アーリェ。お、おはよう!」
1人だけ元気な大男は、にこにことアリエルの枕に埋まった顔を覗き込む。
アリエルは寝不足の少し不機嫌そうな顔で、彼を見上げる。わずかに当たる朝陽にかすかに青みがかった瞳が己れの眼差しを捉えると、彼はそれだけで嬉しくなって、少年のまだ柔らかい白い頬にそっと触れた。
「パルムさん、おはよう…」
熱いくらいの掌が、アリエルの頬を暖めた。
室内であっても、冬の空気は氷のように冷たい。
ゆえにその熱は、ただそれだけで彼の身も心も和ませてくれた。
アリエルは表情を緩ませ、パルムを愛しげに見つめる。
「ア、アーリェ、き、今日は…い、行こう。こ、こう…工房に、い、行こう!」
「…工房? …ああ、オルゴールの工房だね? 宿屋のご主人のお兄さんの…」
「ええ。午後から、行ってみましょう。『星も行くように促している』…そうですよね? お師匠様」
ロエーヌも口添えする。
どうやら、占星天文学の権威のお言葉のようだ。
「…うん。分かったよ、分かったけど…あと少しだけ眠らせてほしいな」
しかし、その言葉を博士の『幽体』が諫める。
「もう起きよ、朝食の時間が無くなるぞ。この地域のチーズ料理は絶品なのだぞ」
「先生は、前にもここに来たことあるの?」
「ある。べつの弟子とな。その弟子が絶賛しておったのを思い出した」
「へぇ…」
アリエルはようやく布団から上半身を起こし、着替えをした。
民宿『マグナ・トゥクル』の主人の案内で、3人と1霊は、オルゴール工房『ムジク・トゥクル』へと足を運んだ。
民宿のある表通りから裏道に入り、こじんまりとした民家が立ち並ぶその一角に埋もれるようにしてある。
その扉には目立たない小さな文字で店の名らしきものを書いたタイルが貼ってあった。
しかも、この国の言葉ではない。
「…アリエルさん」
振り返るロエーヌに、アリエルは頷く。
「うん…」
それは、ゼルゼ語だった。
アリエルの亡父エクトラスが好んで使っていた北の未開地の言語だった。
民宿の主人、バシル・サーキが扉を叩く。
「兄さん、お客様が見学したいそうなんだ。入らせてもらうよ」
返事を待たずに、扉を押し開けると、中には作業机でモノクルをかけた1人の初老の男がオルゴールらしきものを製作していた。
「兄のガーケル・サーキです。このオルゴール工房『ムジク・トゥクル』の主人です」
「…おれ以外、おらんがな!」
ガーケルはこちらを見もせず、発条部品をいじりながら不機嫌そうに大声で怒鳴った。
工房は、静かでがらんとしていた。
ガーケルがちくちくと機械をいじる微細な音が、大きく響く。
「兄さんてば、怒鳴らないでよ。ぼくは兄さんのオルゴールの素晴らしさを世に広めたい。旅のお客様に、いつも兄さんを紹介したいと思っているんだよ?」
「頼んだ覚えはない」
一行は黙って顔を見合わせる。
「あのさ…『詩を綴れ』のオルゴールはある?」
そんな空気の中、アリエルが口を開いた。
ガーケルは睨みつけるように、ぐわっと彼に大きな目玉を向けたが、アリエルはガーケルの厳めしい顔を落ち着いた目で見返していた。
「無いの? あれば、欲しかったんだけど」
「…無いわけがない! トゥクル様の讃美歌のオルゴールはすべて作ってある」
そう言って、ガーケルは奥の部屋に入っていくと、左手に小さな木箱を持って戻ってきた。
質素な木箱を開けると、中には青い宝石のような艶のある円形の美しい小箱が入っていて、蓋には緻密な蜂と蝶、野苺と蔓草の彫り物が施されていた。
「まあ、なんと美しいオルゴールでしょう」
ロエーヌが思わず感嘆の声をあげる。
蜂と野苺はトゥクル、蝶はパナタトス、蔓草が優雅に絡む様は詩文を綴ることを表しているようだ。
「へえ。見た目は確かに綺麗だね……ぜんまいを巻いてもいい?」
アリエルはガーケルの返事を待たずに、オルゴールのぜんまいをギィギィ巻いた。
「こら、ぼうず。勝手にいじるな!」
ガーケルは叫んだが、それ以上の言葉は繰り出せなかった。
音色が空気に漂う。
『詩を綴れ』の曲が風のように軽やかに流れて、鼓膜と心にきらきらと響く…。
少年は陶酔の微笑を浮かべ、かすかに身体を左右に揺らしていた。
その瞳は青みがかって、そこから自然に湧き出した涙が星のように青い光を瞬かせながら、頬を流れ落ちていく。
「…アリエルさん。瞳の色が」
ロエーヌに耳元で囁かれ、彼はようやく我に返った。指で目を擦って、涙を拭うと、深く息を吐き出して、ガーケルを見つめた。
「ありがとう…素晴らしい音です。思わず引き込まれてしまった。思い出の曲なんです、聞けて嬉しかった」
「…へえ、そうかい。それは良かったな。ところで、ぼうず、名前は?」
「アリエル・オットー、だけど…?」
「アリエル? そうか、じゃ人違いか」
「人違い?」
「ああ。…15年くらい前か、お前によく似た男が来てな、お前と同じく『詩を綴れ』を聞きたいと言ってきた。無論、聞かせてはやったが、買う金が無いって話で、代わりに出来ることがあればやるから譲ってくれと申し出てきた」
「譲ったの?」
「いや。結局、持っていかなかったが…おれは何も要らないと言ったが、看板代わりにどうかと言って、小さなタイル板に何語かも分からない字を書いたものを渡してきた。でも、まあなかなかいい字だと思ったんで、目立たないが貼ってある」
「あれは、ゼルゼ語の『ムジク・トゥクル』だよ」
「ゼルゼ? 知らんな…」
「北の辺境の国だからね」
「そうか、よく知ってるな」
「べつに…それより、その人は赤ん坊を連れていた?」
「ああ、それでしたら。わたしがお預かりしておりました…アペル家の司祭様でしたね」
バシルが口を挟む。
「そうだ、アペルだ。あのアペル家の…」
「はは。エクトラス・ブラグシャット・アペル特命司祭…でしょ?」
アリエルは、笑って言った。