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1番目アタール、アタール・プリジオス(23)彼の命



 *



イオクの話は続いた。

赤ん坊をあやすエクトラスの手は、骸骨のように骨が浮き出て肉がなかった。
それでも、彼は息子だという赤ん坊を自分の“御守り”のように大事に扱う。これが無くなっては、自分自身が崩壊してしまうと思っているかのように。
赤ん坊は、彼の心の支えなのだと、イオクは思った。


「…御司祭、感謝する」


少し温めた山羊の乳を哺乳瓶に入れ、青年に差し出すと、彼は涙を浮かべて、イオクの心遣いを噛み締めるように、抑えた声で礼を述べ、それを受け取った。

赤ん坊は、美味しそうにそれをゴクゴク飲んだ。ご馳走を平らげた後のように、嬉しそうな笑顔を浮かべている。


「可愛らしいお子様ですね。…特命司祭様」


イオクが話しかけると、赤ん坊の父親は削げた頬に皺を集め、赤ん坊と同じように無邪気に微笑む。やはり親子なのだな…よく似ているとイオクは思った。


ただ、父親であるこの青年は、恐らく何らかの病に冒されている。この痩せ方は普通ではない。食事を数日抜いたとて、ここまでにはならないだろう。


「特命司祭様…お子様が眠られたら、少し私にお身体を診せていただいても宜しいですか? 私にはわずかながら、医術の心得がございます」


イオクの父は医師だった。

町の医療院で20年ほど働いた後、スッタレルという村に派遣医師として赴任した。そこで母と出会い、結婚して、彼を含めた4人の子どもをもうけた。
その父の生業を見てきた彼は、医師になるための勉学に大いに励んだ。

仲の良かった弟が不慮の事故で死んだのをきっかけに、司祭になることを決意し、今に至っているが、そういうわけで元々は医師になろうとしていたのだった。


「…はは、僕には、死相が出ているかな?」


「失礼ながら…少なくとも、栄養が足りていません。宜しければ、しばらくこちらで養生なさることをお勧めいたします。費用はお気になさらず…10年後でも構いませぬゆえ」


「ああ…あなたは、素晴らしい方だ…出会いに感謝しなければ。ならば、診てもらえるだろうか」


「無論です」


赤ん坊が眠るのを待ってから、2人は寝台のある部屋に移り、エクトラスはそこに仰向けに横たわった。



心臓が弱っている…。

青年司祭の心音を聴きながら、イオクは己れの心臓が締め付けられるような思いに唇を噛んだ。
この前途有望な若い司祭が、命の危機に瀕しているというのに、己れのような中年のここで一生を終えるような男が何事もなく平穏に生きているという皮肉な現実に、いたたまれない心地になった。

ほかの臓器も、この様子では正常とはいえないだろう。横腹には暴行で蹴られたような痕もある。肋骨に大きな異常はなさそうだが、内臓に損傷がないとはいえない。また触診を繰り返すも、やはり栄養不良による不具合が手に伝わってきた。


「…あと、どのくらいなのかな」


エクトラスは、独り言のように呟く。



「はい、診察はもうすぐ終わりますよ」



イオクが答えると、青年は口元だけでクスクスと笑った。




「…僕の命、だよ」




その言葉の柔らかい切っ先が、胸底までグサリと刺さるのを、イオクはぐっと奥歯を噛んで堪えなければならなかった。



「……養生なされば、何年でも生きられますよ。まだお若いのですから」



それは、願望に近かったが、不可能ではないとイオクは本心から思って言った。


「…あなたは、本当に良い方だね。本気で僕を助けようとしてくれている…でも、自分の身体のことは、自分が1番分かる。僕は…保って1年ってところだろう? 放っておけば、数日で死ねる」


エクトラスの声は小さく息も荒かったが、その響きは決して暗くはなく、明るく快活でさえあった。死への悲壮感は全く感じられない。



「だから、僕はあなたを頼る。僕は1日でも長く生きたい…こんな身体になったのは自業自得なんだけどね…。
レミを…息子を、安全な場所に届けなくちゃならない…妻と約束した…息子を守り抜く…それだけは、果たさなくっちゃ、妻に叱られてしまう。あの子がいるから…僕は生きることを、まだ諦められない。
そう…レミは僕の命を繋ぎ止めてもいる、本当に、愛しく大事な存在なんだよ」



「では、私の治療を受けて下さいますね?」



「ああ…宜しく頼むよ、御司祭。あなたのお名前は?」


「イオクです。準司祭、クスリル・イオクと申します」




「…イオク準司祭。息子と僕を…救うように」



エクトラス・ブラグシャッド・アペル司祭外交官特級(特命司祭)は、片頬で微笑み、クスリル・イオク準司祭に、そう命じた。



 *




アリエルは、目を閉じて聞いていた。


震えが止まらない。


口を閉じると、イオク準司祭はゆっくりとアリエルに視線を向けたが、何も言わず、続いてロエーヌのほうを見た。


「イオク様、それで彼はこちらで養生をされたのですか?」


ロエーヌはかすかに頷いてから、黙っているアリエルに代わり、質問をした。


「はい…10日ほど。できれば1ヶ月は滞在していただきたかったのだが…冬場だったので、滋養のある食べ物が少なかったのも残念でした…それでも、私が出す食事を無理しながらも『美味しい、美味しい』と言って、食べて下さった」


「それで、回復は…」


「少し体力は戻ったように見えました、しかし…ご病気が治癒できたわけではないので、お元気になられたとは冗談にも言えない状態でした」


「そうですか。…その後、どこかへ行くなどとはおっしゃっていませんでしたか?」


「ああ、それならば、都へ向かうと…ご実家に戻るとのお話でした」


「つまり、アペル家のお屋敷に帰るということですね…」



ロエーヌは確かめるように言葉を継ぐと、アタールの顔を見る。

彼女の師は、こっくりと頷いた。


「分かりました。ありがとうございます。貴重なお話を聞かせていただきました」



ロエーヌが礼を述べ、立ち上がると、


「お待ち下され、ロエーヌ様! いま少しだけお聞かせしたいことが」



イオクは、慌ててロエーヌを引き留めた。










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