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1番目アタール、アタール・プリジオス(40)一時休戦
*
《女の子なんて、嫌いだよ。君もね…!》
突然、声を怒らせると、彼は再々ぜんまいに挑んでいった。
…あたしに、言ったんじゃない。
《君もね…!》の「も」の中には、自分も含まれているのは感じるが、彼の視線は…。
彼は明らかにオルゴールをじっと睨んでいた。
オルゴールに言ったの?
オルゴールの妖精に…?
シェルフィは思う。
本気なの?
こいつ…本気で聴こえるの?
“妖精の声” が?
信じられない…。
そして、彼の手の温かかったこと。
マメが出来かけて少し固かったけれど、手つきはとても優しくて、本気で温めてくれようとしているのだと、確かに思えるものだった。
男の子に、こんなふうに手に触れられたことなんて今まで1度もなかった。
女のくせに機械油の付いた汚い手だと、学校で同級の男に撥ね付けられたことはあったけれど。
どうしていいのか分からなかった。
驚いて、逃げてしまった。
少しだけ「悪かったな」と思う。
でも、突然触ってきたほうが悪いのだ…。
「アーリェ!」
不意に、大男の声が響いた。
オルゴールのほうを見ると、少年が…アリエル・オットーが、ぜんまいを掴んだまま、意識を失ってオルゴールにもたれかかっていた。
大男が彼をオルゴールから引き離し、近くの長椅子の上にその身体を横たえた。
少年の両方の手のひらには血が滲んでいた。
マメが潰れたのだろう。
それだけでなく、爪も少し剥がれたり割れたりして裂け目が赤黒くなっている。
加えて、親指の脇と人差し指の根元は青い痣が染みのように広がっていた。
それなりに強い痛みの中、それでも諦めず巨大なオルゴールのぜんまいと戦っていたことを物語っている。
こんな…女みたいに細っこい腕のくせに!
なにそんなにムキになってるのさ!
そう思いながらも。
「…ちょっと! ここまでやっておいて、終わりなわけ!」
シェルフィは、叫んでいた。
…アラアラ。ヤッパリムリダッタヨウネ、ザンネンネ、ホロヴィルノ神官の血ヲヒイテイルトイウカラ、キタイシテイタノニ。ワタシノ歌声ヲ、キカセテアゲタカッタノニ。ヤッパリ神官デハナイタダノ子デハ、ダメナノネ。アキラメルノネ。
…ウフフ、ウフフ。
妖精の声が頭の中に響いた。
…ああ。うるさいオバさんだな。もう50年は越してるんだろう? このオルゴールに住みついて。
…エエ、ソウネ。
…なぜ、ホロヴィルの島にこだわるわけ?
…ソレハネ、コノ、オルゴールガウマレタトコロダカラヨ。ツマリネ、ワタシガウマレタトコロナノ。
…生まれ故郷ってことか。
…ソウネ。
…俺も、ホロヴィルで生まれたらしいよ。全然覚えてないけど。
…ソウナノネ。ワタシハ、オボエテイルワヨ。ソノトキノオモイデヲ、ウタウノ。キカセテアゲタカッタ…。
妖精は己れの故郷に想いを馳せたせいか、その声にはさっきまでの威勢がない。
しょんぼりと俯いているように感じられる。
…なぜ、条件をつけるの? 聞かせたいなら、歌ってくれればいいのに。
…キマッテルジャナイ。ホントウニキキタイトオモッテイル人ニシカ、キイテホシクナイカラヨ。
…ふーん。
…仕方ないな。
…?
…聴いてやるから、もう少し。
アリエルは、息を吐き出す。
…待ってろ。
頬っぺたを、誰かがペチペチ叩いている。
誰だよ…と思い、目を開ける。
「寝てるな! せっかくあたしが手伝ってやるって言ってるのに!」
「…シェル、フィ、さ…ん?」
目の前に、綺麗な群青色の瞳がある。濃くて強い光を放つ凛々しい双眸に一瞬心を奪われそうになった。
あんまり近くて、息がかかるほどだったから、びっくりもした。
「…そうか。やる気に、なってくれたんだ。はは…もう、見放されてるんだと思ってた…そうか。良かった。ありがとう。嬉しいよ。本当に、本当に…嬉しいよ!」
言いながら、アリエルは彼女の手をグッと握った。握った瞬間、痛みが走った。
顔を顰めて、手を離し、自分の両手を見ると、真っ赤な血に染まっていた。
シェルフィの顔と手を交互に見る。
彼女は痛そうではない。
だが彼女の手は、彼が握りしめた指の形を写すように赤く汚れていた。
「…ああ、ごめん。手、汚しちゃったね」
アリエルが謝ると、シェルフィは顔を真っ赤にして彼に言った。
「馬鹿! 怪我してんのは、あんただろ! まず手を洗いな! それと、ぜんまい回すのは、手当てしてからだよ! そんな手じゃ、何度やったって、無駄だからね!」
シェルフィの怒声を聞いた後、少しだけ間を置いて、アリエルは青ざめた顔で微笑んだ。
「…君って、いつも怒ってるね。大丈夫だよ、俺は君をいじめたりしない。俺は仲良くなりたい。仲良く、手伝ってほしい…はは、もちろん、爪やマメの手当てをしてからさ」
ゆっくりと、彼は痛そうにしながらも起き上がった。パルムが心配そうに眉を下げている。
彼は皆に向かって「ごめんなさい」と頭を下げた。
「一時休戦する。明日も展示してるのかな?」
ロエーヌが、警備の男に訊いてくる。
「…明日の午前中まで、だそうです」
「午前中…そうか、午前中だけなのか。仕方ないね、ははは…じゃ明日の朝一番から頑張ろう」
「…アリエルさん。大丈夫ですか?」
ロエーヌが確認するように、彼に問う。
「しょうがないじゃん。何とかなるよ、きっと。ねえ?」
アリエルは、まずパルムを見る。次にシェルフィを見る。
そして、ロエーヌを見て、最後に師匠である『幽体』アタール・プリジオス博士の若いのに重みを感じる渋い顔をじっと見つめる。
博士はただ黙って、こくんと大きく頷いた。