1番目アタール、アタール・プリジオス(8)新しい人生
*
あの家の“鎖”を、
引きちぎって、出た、
あの日から。
たどり着いた、今日…。
…不思議な『水晶玉』と出会い、
アリエル・レミネ・オットーが、
新たに、生まれ落ちる…。
午後の日が差す。
彼は顎近くまで伸びていた自分の黒い髪を鏡を見ながら裁ち鋏でジョキジョキと雑に切り落とし、耳たぶくらいまでの長さにした。
「長さはこんなものかな…」
呟くと、僧侶にもらった『髪の毛の色を変える粉』を少量の水で溶かし、木べらで塗布し、豚毛の櫛で馴染ませる。
きつい臭いが部屋に充満する。
窓をわずかに開けて換気した。
「上手く出来てるといいけどな」
頭皮がヒリヒリして、皮膚には良くない感じはあったが、捕まらぬよう、逃げ続けるためにする、免れ得ない一つの試練のように思えた。
それに、このくらい。
“あれ”…に、比べれば屁でもない。
彼は、そっと自身の左胸の上の方を押さえて、一瞬ぎゅっと顔を顰めた。
「さあ、アリエルさん。そろそろ髪を洗いましょう。良い塩梅に仕上がっていると思いますよ」
彼の『姉』と名乗ることになった僧侶ファンダミーア・ガロは、『聖剣士』として賜った男名ロエール・オットーを女性風に変名したロエーヌ・オットーと名乗り、彼のお守り役として同行してくれるという。
その彼女の勧めで、髪色を変えてみたのだ。
洗面台の冷たい水で洗い流し、乾いた綿地の大きな布で満遍なくごしごし拭いた。
鏡に映る、これは…自分?
真っ黒だった髪が、橙色に近い明るい赤茶色に変わっていた。
「どうですか? 見違えましたね」
「これ、返って目立たない?」
「それより、貴方がレミエラス・ブラグシャッド・アペルだったと気づかれないことのほうが重要です…そうだ、これも」
そう言って、彼の『姉』は机の引き出しから何かを取り出す。
「眼鏡です。ホアの聖戦で戦死した長兄の形見なのですが、度は入っていません。目が悪かったわけでもないのに、格好付けて掛けていたようです…かなり印象が変わりますよ」
思い出し笑いをしながら、少し涙ぐむ。
鈍い銀色の細い丸縁眼鏡だった。
アリエルは、自分に差し出されたそれを受け取って掛けてみる。
確かに、昨日までの自分とは違って見えた。
別の人間、だ。
もう、あのレミエラス・ブラグシャッド・アペルの陰鬱な貼り付けたような薄ら笑いは浮かんで見えない。
自分は、アリエル・レミネ・オットー。
美しき聖剣士、ロエーヌ・オットーの末弟。
少し野暮ったいけれど、どこにでもいそうな16歳の本好きの少年だ。姉に憧れている。
愛読書は『衰えぬ美と愛』。僧侶ガロの本棚の隅にあったレッカスール神を讃える本だ。
「髪色が気になりますか? それなら帽子を被ってもいいし…」
沈黙する彼が気になったのか、ガロが近づいてきて訊く。
「…違うよ。ただ、俺の、新しい人生が始まるんだなって思ったんだ」
「ああ。そうですね…」
蒼い瞳を潤ませたまま、彼女は微笑む。
彼らの師、500年前の天才占星天文学者アタール・プリジオスは今は大人しく机の上で『水晶玉』のまま、無言でやり過ごしている。
「今晩、出ましょう」
そんな師を、横に見ながら、今はまだレッカスール大寺院の僧侶ファンダミーア・ガロである彼女は目の前の少年に告げる。
「私は夕食の前に少し買い物に出ます。帽子と外套を買ってきましょう。あと…何か護身の術をお持ちですか? 特に無ければ、とりあえず短剣をご用意しますが」
「…体術はちょっと習ったけどね。武器を扱ったことは無いんだ。姉さんに教えて貰わないとね」
アリエルが苦笑したとき、部屋の扉をこんこんと叩く音がした。
「どなたですか?」
僧侶が問いかけると、もう一度こんこんと鳴らす。
「…ああ、パルムですね。どうぞ、入ってよろしいですよ」
扉がゆっくりと控えめに開いた。
隙間から覗くように部屋の中を見て、恐る恐る大きな身体を滑り込ませ、背後で閉じる。
のっそりとした大柄な男は、まず僧侶に頭だけちょこんと下げてから、奥にいる自分がこの部屋に運んできた少年の姿を見つけて、嬉しそうに口角を上げて笑う。
「アリエルは、私の末の弟ですよ。旅の疲れで眠ってしまっていましたが、もう大丈夫です。あなたのお陰です」
「あ、運んできてくれて、ありがとう」
アリエルがお礼を言うと、パルムは更に嬉しそうに無邪気な笑顔を見せて、彼に駆け寄ってきた。そして、両手をいっぱいに広げたかと思うと、がばっと勢いよく彼を抱きしめて頬ずりをした。
「…うわ、どうしたの? パルムさん」
「恐らく、疫病で亡くなった幼い弟さんを思い出しているのだと思いますよ」
「アーリェ、かわい…よか、た。げん、き。よか、た。う、うれ、し…」
パルムは一生懸命に声を出し、気持ちを伝える。僧侶の姉は、彼が『唖者』であることをアリエルに小声で教えた。高熱病による脳障害も少しあるようだ。
「…へえ。そう、俺が元気になったから、喜んでくれてるんだ。ありがとう…はは、でも可愛いってのは、恥ずかしいな。俺もう16なんだし」
「アーリェ、かわい、かわい…」
頬ずりを続けるパルムの髭で、彼の頬が少し赤くなってしまった。
それに気づいた男は慌て、急にしょんぼりした顔になった。
「アーリェ、ごめ、ご、ごめ…」
「…いいよ。怒ってないし、痛くもないよ。大丈夫だよ」
アリエルはそう言って顔を綻ばせ、男の頭を優しく何度も撫でてあげた。