僕は君になりたい。 第38話「Moon Water 心が波のようにうねる僕…」
#38
「はぁーあァ…!」
家に帰った僕は、大きく息を吐き出して窓から見える夜空を見上げた。
あいにく空は曇っていて、人魚姫の悲しい運命を見守る優しい天使たちの羽ばたきは見えない。
それどころか暗い黒雲の間から今にも灰色の竜がトグロを巻いて、グァーッと大きな洞窟のような口を開き、青白い炎を吐き出してきそうな気がする。
僕の心、なんか調子悪い。
風邪薬を飲んでベッドに横になった。
そのとき、携帯電話が鳴った。
この着信音…。
僕は慌て、手を滑らせてしまった。
床にドスンと思った以上の音を立てながらも、着信音は響く。
床に手を伸ばし、ようやく電話を握った僕は一度だけ深呼吸をしてから応答した。
「もしもし…?」
ーあ、流伊くん? 大丈夫? 寝てた?
声はかすれて、小さな咳がコホコホと続いた。
「あぁ…オレは、ちょっとのど痛いだけ。薬のせいで、何となくぼんやりはしてるけどな…お前はひどいのか?」
ーうん、ごめんね。急に熱が出ちゃって…インフルエンザかもしれないからって念のため休んだんだ…検査は陰性だったけどね。だからさ、流伊くんも、体調不良で先に帰ったって美咲ちゃんから聞いて…心配になっちゃってさ。大丈夫そうなら、良かったぁ!
「まだ、熱はあるのか? 無理するなよ」
ーありがとうね。流伊くん、優しいから心配させたくなくてさ…連絡しなくて、ごめんね。
苦しそうに鼻をすすり、咳を繰り返す。
「……べつに。もういいよ…大事にしろよ」
ーうん! 流伊くんもね!
「…分かってるって。じゃあな」
僕が電話を切ろうとした瞬間、かすかにつぶやく声がして、ドキリとした。
…好き。
電話は、向こうから切られた。
ツーツーツー…
何コールか数えた後で、僕はやっと電話を切った。
☆
なんだなんだなんだなんだ、なんだ?
胸がズキューンとなって、いても立ってもいられない。
この気持ちは、なんだ?
「あいつ、オレのこと弄んでんの?」
ズキューン、が止まらない!
…好き。
と、つぶやかれただけなのに、心が騒いで海の波のようにうねりまくっている…。
…好き。
リピート機能が馬鹿になったように、エンドレスに綾香の「好き」が頭の中でこだましている。
「わあ〜…参ったな、もう、困るよォ〜!」
その夜、僕はあまりよく眠れなかったが、仕事だったので翌朝は万全とはいえない状態ながらも、のろのろと起き出して、朝の食卓についた。
「あんた、もう風邪は良くなったの?」
「大丈夫だよ。事務所で吸入器やってから、リハ行くから…口パクじゃなくやれたらやるよ」
「ガラガラ声じゃ、女の子っぽい感じ出ないわよ」
母が笑いながら「気をつけなさいよ」と言って、のど飴をくれた。
僕はトーストをくわえたまま、小さくうなずく。
分かっている。
こののどの違和感が風邪とかではなくて、声変わりの兆しだったら、どうしようかと思っている。
まだ期限まで半年ある…最後まで乗り切れるか非常に不安だった。もしかしたら、途中撤退もやむを得ないかもしれない。
声変わり、とは無関係であってほしい…。
だが、可能性は高い。
もうすぐ中3なのだ。
声変わりしていない同級生のほうが少ないのが、現実だった。
今日は、無理しないほうがいいのかな…。
もうすぐ、アルバムの発売イベントやライブがある。宣伝を兼ねたテレビ出演だって増えてくる。
そう思えば、それまで大事にケアしておくほうがいいだろうと思うのだが。
迎えに来てくれた誠さんの車の後部座席に座ると、僕は訊ねる。
「あのさ。オレ、のどが痛くなりかけちゃってるんだけど…今日は歌っても大丈夫かなぁ?」
「…歌えなさそうか?」
「いや。なんとかなるとは思うんだけど、来週からアルバム発売イベントとかあるじゃん。そういうの、気にしなくていいのかな…って思って」
「…歌えそうなら、歌えよ。確かにアルバム発売イベントも大事だけどさ、この仕事だって同じくらい大事だ。アルバム発売イベントのほうを調整してもいいんだしよ」
「それでいいの?」
「いい。だって、アルバム曲だって、口パクできんだから」
「まあ…そうだけど。ソロの『満月』だけは、口パクしたくない」
「分かった。そこらへんは、マネージャーの俺に任せておけよ」
誠さんは、いつでも全力でやるべきだと思っているようだ…でも、僕は自分にリミットがあるから、しかるべきところでこそ頑張るべきだと思うのだ。
特にアルバム曲は大事にしたかった。
やがて現場に到着した。
「おい、お前…今日、大丈夫なのかよ!」
楽屋に入ると、綾香がドレッサーの前に座っていて、細かいハート柄の入ったピンクのマスクをしたまま雪乃さんにヘアメイクをしてもらっている。
僕は薄化粧とつけ毛をして、すでに女装はしていたが、思わず女っぽくない口調で声を張り上げてしまった。
「…えへへ。大丈夫だよ、熱下がったし。声もちゃんと出せるようになったから」
「無理すんなって。まだ目がとろんとしてるぞ」
「本番になれば、シャキッとするよ〜っ!」
鏡の中の僕を見つめながら、綾香はニッと目だけで笑ってみせる。
アイドル根性だけなら、負けるかもな…。
でも、スマイルの質は、僕のほうが断然良い。病気のせいもあるだろうが、彼女のスマイルはぎこちない。
「本当かよ」
「心配性だね! でも、そんな優しい流伊くんも大好きなんだよね♡」
「お前な…」
僕らが喋っていると、雪乃さんが吹き出した。
「おーい! ノロケるなぁ! そこのオシドリ夫婦! まだ朝よ!」
僕は顔の赤みを隠すように、うつむいた。
押し問答したのが、恥ずかしかった。
「うらやましいでしょ! 雪乃さん! …ッ、ゴホゴホゴホッ…!」
綾香は調子良く叫んで笑ったが、同時に激しく咳き込んでしまった。せっかく整えてもらった髪がわずかに乱れる。
「…ったく、何してんだよ」
僕が呆れた声を漏らすと、綾香はゼイゼイいいながら、僕にウィンクした。
「えへへぇ〜」
語尾を上げた照れ笑い。
なんだ、それ。
僕は目を逸らし、自分の支度にかかった。
荷物をロッカーに入れて、厳重にカギをかける。
カギを回しながら、僕は深呼吸をしていた。
バカ野郎…。
なに、今更かわい子ぶりっこしてるんだよ…。
そうではない。
あれが、彼女の“素”なのだ。
分かっている。
わざと僕の気を引こうとしていたわけではないことくらい…。
しかし、あざとい!
あれを見て、胸がズキューンとしない男なんて。
男じゃない!
もちろん、僕の彼女であるから、ほかの男なんかに手出しさせるつもりはないけれど。
天然で、あざとい…って、危険過ぎるぞ。
お前も!
ほかの男どもにも!
……僕にも!!
あ、ヤバい…オレ、仕事前になに考えてんだろ。
慌てて首を揺するが、昨夜の「好き」の囁きと同様に、やはりズキューンは止まらなかった。
「うーん…」
苦しいんですけど、どうしたらいいですか?
僕は動悸が静まるのを待って着替えをしたが、フリフリの衣装に着替える自分に、今まで感じたことのないほど強い違和感を覚えた。
僕は…。
男、だよな?
やはり、限界が近づいている気がした…。
☆
写真集の撮影も、今日で3回目だ。
もうすぐ2月も終わりを迎える。撮影は予定では4月半ば頃までと聞いていた。
基本は隔週日曜日の午前中だったが、諸都合で平日や土曜日になることもある。
今日は海辺の様子がシセイさんの理想に近い状態だということで、平日急遽夕方に呼び出された。
「ごめんなさいね、琉唯ちゃん! どうしても今日以外にはなくて…」
「あ、はい…」
「悪いけど、説明は後でするから…。みんな急いでスタンバイして!」
そう言うと、シセイさんは早速スタッフたちに指示を出すとカメラを構えた。
今日は海辺のテラスのデッキチェアに横たわるような姿勢から始まった。服装は前回までとは異なり、長袖の白いワンピースを着せられた。
陸に上がってからの『人魚姫』というシチュエーションらしい。
「…なんか、この1か月くらいで、ずいぶん大人びた目になってきたね。いいわぁ〜。ゾクゾクしちゃう! すごく色っぽくなっちゃって♡…恋してるのね!」
パシャパシャと色々な角度から撮られながら、僕は少しぼんやりとしていた。
が、不意に聞こえてきた「恋してるのね!」という言葉に“ドキン”としてしまった。
彼女の照れた笑顔がチラつく。
…えへへ。
ああ! クソッ。
やめてくれよ、もう!
僕は胸中で半泣きになっていた。
オレ、いま『人魚姫』なんだぞ!!
「立ってみてくれる? ちょっと、おぼつかない感じで…」
シセイさんの声にハッとして、僕はデッキチェアから足をそっと下ろし、木の床に素足を着いた。
…冷たい。
そこから、手をイスに着きながらゆっくりと立ち上がると強い風がびゅうっと吹きつけ、ワンピースの薄い裾を舞い上げた。
レースのカーテンのように、それは宙を泳いだ。
僕はそれに驚いて、少しよろめく。
同時に、目にゴミが入ってしまい、ぱちぱちすると、つーッと一筋涙が流れた。
その瞬間を、逃さんとばかりにシャッターの連写音が鼓膜を叩く。
「最高! さすが、持ってるわね! 月城琉唯は! いいのがたくさん撮れたわ」
シセイさんが、うれしそうに叫ぶ。
その日の撮影は、その一幕を撮り終わると終了した。夕焼けもだんだんと夜空に吸い込まれた。
「お疲れ」
着替えを済ませて、車に乗り込んだ僕に誠さんが言った。
「…ああ、うん。お疲れ」
「急で大変だったろ? 事務所じゃなく自宅まで送るよ」
「ありがと…」
「元気ないな、風邪悪くなったか?」
「分かんないよ。今夜は早めに寝る」
「そうか…」
車を発進させた誠さんは、ヘッドライトの角度を直した。
「…オレさ」
僕は自分でも無意識に近い状態で、誠さんに話しかけていた。
「ん?」
何を話そうとしているのだろう?
「オレさ…なんか、もうダメな気がする」
何がダメなんだ? オレ。
「…女の格好、したくない」
言い終えた途端。
なぜかぐっと目蓋と奥歯を噛み締めていた。
誠さんは、日暮れでふやけたような麓の町を背景に、車を路肩に停めた。