note読者を飼うということ。
ズッコケシリーズをご存知の方は、私と同世代であろう。ハチベエ、モーちゃん、ハカセの3人組が活躍する少年向けの冒険小説といったところか。私はこれを20作以上所持していて、半年に一度新刊がでるのを楽しみにしていた。
「あなたは臆病ですな。」とタクワンこと宅和先生が、小説家に詰め寄るシーンがある。あれはたしか「ズッコケ文化祭事件」という作品だった。新谷さんという児童文学作家と酒を酌み交わすシーン。
「あなたは、自分の中に理想の子供のイメージをもっている。その子供に向けて小説を書いてらっしゃる。」
そのページの隅っこに、酒に酔ったタクワン先生のイラストがあり、ムッとした表情の新谷先生のイラストもあった。
「だが、本当の子供は、そんな純真無垢な子供ばかりじゃない。もっと悪知恵が働いて、ときには残酷なこともするものだ。あなたは、その自分の子供のイメージが壊れることが怖いのだ。」
このページの隅っこに、体育すわりをしている子供のイラストがあった。
僕は当時小学6年生ぐらいだったが、子供向けの小説にこんな大きなテーマをもってくるのかと、子供のくせに感心してしまった。(子供の頃って自分が子供のくせに、自分が子供であることを客観視して驚くというような、不思議な体験ってありますよね。)
「何か作品を書く、という時に、自分は他人を心の中に飼っているのだ。その他人は、自分が描いた理想の他人であって、本当の他人とは違う。」
これは、かの平成の大女優、芦田愛菜氏の「人を信じるという事はどういう事か」を述べた、すばらしい動画にも通じる。彼女も、「人を信じるときに、自分が信じたい理想像を押し付けて、その理想像を信じてしまうけど、本当に信じるという事は、その理想像とは外れた部分が見えたとしても信じるという事だ」という趣旨のことを高校生かなんかで言っていて感心したものだ。
それにしても、ズッコケシリーズというのはすごい。那須先生は、タイムトラベルや、サスペンス、山や海、学校、結婚、リーダー論と、とにかくあらゆる場面に、この3人組を連れて行って、そこでハラハラドキドキさせる冒険譚を魅せる事もあるが、上記のような、大人にもドキッとさせられる大きなテーマを盛り込んでしまう。
僕は当時から、文章を書くことは好きで、小学5年生の学校の宿題で出た日記については、先生を驚かせてやろうと、エッセイ調の文体で書いたところ、人生で一番というくらいその先生に絶賛されて、その時の自信と誇りが今も自分を支えていると思う。その絶賛の仕方が、「先生」という肩書を飛び越えて、本当に人間として笑って面白がってくれていることが、当時の僕には本当に自信になったものだ。松澤先生には、いつかお会いして感謝を述べたい。
さてnoteだ。「noteが書けない」というのは、ひとえにこの「心の中のnote読者の暴動」によるものである。自分が書きたいことを、ただ鼻歌を歌うようにのびやかに書けばいいのに、いざそこに「誰か」がいると、急に唄えなくなってしまう。
現代は、「いいね」「スキ」が見える化しているから、猶更だ。そうやって過去を振り返ったり、傾向と対策みたいなことを考えると、ろくなことはない。実際のnote読者なんて、それこそ鼻歌をうたったり、ベッドでうだうだしたり、うんこしたりしながらこのnoteを読み、ただの感覚でスキを推しているのだから。てきとうでいいのだ。
ちなみに、ズッコケ文化祭事件では、ハチベエ、モーちゃん、ハカセといった、生き生きとした子供の姿に触発された新谷先生が、昔ながらの純真な児童文学から脱却して、新しい子供像を描いた小説を上梓することで終わっていた。
自分の中にある他者をアップデートすること。実はこれが、「自分の成長」に直結しているという事を僕らは忘れてはいけないのだろう。