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どちらで見たいか? レッスンを日常に応用出来るように

私は弱い
私は強い
矛盾した自分がいます

弱い私でいる(在りたい)時
人から何かをしてもらうことが満たされることだと勘違いし
相手の善意、親切心などを奪い自分の欠乏感を埋めようとしています
(この自分は随分癒されたので投影されることが少なくなりました)

強い私でいる(在りたい)時
自分(自我)の強さを頼りにしています
助けてあげたい
アドバイスしてあげたい
正しさを教えてあげたい
私が出来ることがあれば何とかしてあげたいなどの考えが発動されます
見せかけだけの善良さが表現されることもあるかもしれません

思考力、判断力、行動力が自分より劣ると判断した目の前の人を
自分より弱い立場に起き

その弱さをさらに弱くさせ
自分の自我的な強さを頼りに
その弱さを持っている人に対してさも手助けしたかのように感じ
自分の信頼出来ない自信を補強する為に相手から奪ったものを自分像に付け足そうとしています


世界で人間はこんなことをしています
人間意識で生きてると信じている限り
強いものが、弱いものを助ける
正しいものが、間違いを正す
善良さから人助けをする
知識がある人が知識不足の人に教える
など
当たり前過ぎて疑問を挟む余地はまずありません
無意識で自我意識に突き動かされています
自分の善良さからしていたと思っていたことがまさか自我の戦略とは驚きです

おそらく、自分ひとりで立てる計画がどれも防衛にほかならないと知覚することは、容易ではないだろう。しかし、そうした計画のすべてが、実現すべき目的をもった防衛である。(ワークブックレッスン135.14)

奇跡講座下巻/中央アート出版社


ですがコースの学習者として
日常でレッスンを活用することを思い出したいです

私は最近特に
強い自分で在りたいと
目の前の人に口を出したくなったと気づい時

私の考えには何の意味もない。
(ワークブックレッスン10)

奇跡講座下巻/中央アート出版社

この言葉を思い出すことが大切だと感じています

私が誰かの役に立ったという思いや
誰かを助けてあげれたと思った時
私が何かをしてあげた訳ではありません
私がその体験を与えてあげたという考えは自我の傲慢さからきています

私達のその体験は時間の中のそのタイミングで完璧に用意されていたものです
それをどう見たいかのみ私が決めることができます

自分の強さが傲慢さからのもので、目の前の人から奪おうとしていたと自覚できた時、自分はここにいないことが思い出されます

目の前の人に弱さを見て
私が何かをしてあげれたと満足感や達成感の感覚を覚えるなら自我思考なので相手から何かを奪っています

真の私達は助けたり助けられたりする関係ではありません
一方のみが与えられたり奪われたりする関係でもありません
例え目の前の人が自分より劣って見えていたとしても同じ源の神の子です

あなたは彼のまとっている肉体を彼と混同し、両者を一つのものと判断することで、積極的に彼を肉体につなぎとめておこうとしているのである。ここで神が攻撃されている。もし神の子がただの肉体にすぎなきいのなら、神もまた肉体とならざるをえないからである。
(レッスン72.4:4〜5)

奇跡講座下巻/中央アート出版社

その間違った思考を赦しに使う為に目の前に現れ
弱さや、強さの価値判断せずにいられないものを肉体にまとい教えてくれようとしてくれています

大切なことは今目の前に起こっている体験です
そこに赦しが用意されています

当たり前の日常に、自分達を神の子として見たいのか、人間の私とあなたとして見たいのかが常に用意されています

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