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差し出せない意欲 そこに慈愛があるのか無いのか
奇跡を行う機会は私が用意するが、あなたにその準備と意欲がなければならない
(T1.Ⅲ.1:8)
イエスは意欲を差し出すように私たちに語りかけています
でも必要なのは意欲だけとは言っていません
準備と意欲が必要と言っていることを簡単にスルーして意欲、意欲となってしまうのが自我なのです
準備が整わなければ意欲は差し出したくても差し出せるものではありません
それが普通です
当たり前です
それを咎める必要はないのですが
差し出すべきという信念が強ければ
差し出せない自分を責め
外側の学びに対してモチベーションが湧かない、やる気を出して取り組もうとしない学習者に対して「何でやらないの?コースはモチベーションを求めてるよ」と相手につい苦言を呈したくなる投影を必ず知覚します
それは優しさや思いやりからかもしれませんが相手をその状態で良しと見ていないので心の痛みを感じるはずです
本当はどうしたいのか?
自分の本心に気づくことはとても大切です
準備が整っていない自我思考の中で、学び実践をしていた時の私は
本当はやりたくないけれど
意欲を差し出すことが正しいし
これをしなければ私は苦しみから脱することは出来ないからやらなきゃ、学ばなきゃ、実践しなきゃと
強迫観念に迫られるように取り組んでいました
でも自分が理想とする意欲は出てこずテキストを読もうと思ってもつい動画をダラダラと観て気晴らしばかりしたり
実践しようと思っても思考がグルグルして何をどう見れば良いのかさっぱり分からなく混乱しながら取り組んでいました
そしてそんな自分は「やっぱりダメね」と責めたくなる気持ちを隠していました
今、自分自身と繋がり準備が整った状態の私が意欲について感じているのは
私は本当は赦したい
赦しの視点から見るならば私の感じてる苦痛は幻想だと分かると知っている
でも、今すぐそれを赦すことはまだしたくない‥私の選択としてまだこれを握りしめていたいと分かっている
すぐ赦しをしたくない時こんな葛藤が自分の中にあります
それでも赦すタイミングは必ず来ることを確信しています
コースのイエスは
準備が整っているのに何故赦しをしようとしないのか?と
準備が整った状態にあるものに意欲を差し出すようにと優しく語っています
準備が整った状態とそうでない状態ではこれだけ自分の内側の考え方が違うのです
本当は赦したいのか?
本当は赦したくないのか?
自分の本心に気づくことは大切です
どんなに抵抗しても自分の本心からの願いでなければ何をやろうが赦しをやろうが結果として苦痛、苦しみは一切消えないのが心の法則です
抑圧している本心を探してみることはとても良い訓練になります
例えば
本当はパンを食べたいけど身体に良いのはご飯だからご飯を食べよう
本当はお風呂に毎日入るのは嫌なんだけど、それじゃぁなんかだらしない人だから毎日入ろう
本当は毎日仕事行きたくないけど行かなきゃお金が入らず生活に困ることになるから頑張って仕事行こう
仕事などで自分の意見が求められる場で本当は自分の言いたい意見があるけれど、これを言ってしまったらなんて思われるだろう怖い
またはこれを言ってしまったら相手との関係にヒビが入ってしまうかもしれないから当たり障りのない発言にしておこう
など私達は常に本心とは違う選択をして自分の正しさ(自我に)身を委ねている事に気が付くことになります
本心に気づいたからといって全て本心の通りに行動する事を勧めているわけではありません
気づいたなら自分は自我の命令に奴隷的に従う事を何の疑問も感じずやっているんだと客観的に自分を見ることが出来ます
否定せず、説得せず話を聞いてあげるなら自分が自分のいちばんの理解者となれるのです
出来なければ出来ない自分にただ気づくだけです
咎める必要など全くありません
出来ない自分に寄り添っていきます
ある願望はとても叶えられないびっくりなことを聞く事になることもあると思いますが、それも否定せず静かに「そっかそう思ったんだね」「教えてくれてありがとう」と優しく接してあげます
これが表面的でなく真から出来るようになったならイエスが求める準備が整った赦しが機能する状態になっています
自我思考を無自覚に採用していた時にはとても考えることなど出来なかった正しい心という側面の自分との出会いです
慈愛を知っている自分との繋がりを感じることになるのです