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依存的な甘えを赦す 境界線を侵される感覚
以前の職場に遊びに行ってきました
久しぶりに会う人たちの中に
甘えからベタベタと手を触れてくる人がいました
以前からそのようなスキンシップを取る人です
過剰なスキンシップを要求されていると感じて嫌悪感と逃げたいという感覚を覚える自分を感じました
これは以前からもずっと感じていたものでした
その手を払いのけたいがそんなことをしてはいけないという葛藤が起き我慢する私
相手を嫌悪する気持ちがあるが拒絶することに罪悪感を感じます
私は一体何を信じているのだろう
この嫌悪感、拒絶感からのメッセージを受け取りたい
自分という境界線を侵される感じです
入ってきてほしくない
肉体の皮膚という境界線の内側が私と信じている
自分で許可したものしか私は触れたくない
触れられたくない
本来の私達に守るべき境界線など存在しない
完全なる一体性です
そこにズレを感じていることは分かります
次の日
この私の感じた嫌悪感に逃げずに取り組みなさいというメッセージとしてやってきた体験がありました
住まいの敷地内にいた迷い猫を保護したのです
まだ仔猫のようなあどけなさがある可愛い子でした
しかしものすごく甘えん坊で
私に心を許した瞬間からずっと付き纏うように体をスリスリしながら私から離れたくなくてしがみついたり頭を体に押し付けてきます
分離不安症なのかと思うほどで部屋にひとりにするとずっと鳴いて私を呼び続けます
私はあまりのしつこさに「猫も可愛いだけじゃダメだなぁ」とその甘えを問題行動と捉え咎める思いを感じていました
私はその甘えてくる態度に防衛をしています
手を触ってくる〇〇ちゃんと、この仔猫を使ってそれを体験し「自分勝手な押し付ける甘えはいけない」と裁くことで自我の救済(分離感)を信じています
私はコレを受け入れたくないという思いと不快感
強引なスキンシップをされることで私は何を恐れているのだろう?
私の何かが擦り減る感覚
奪われる感覚
間違って分離を信じている心では私のことなどどうでもいい態度の依存的な神のいうことを聞かなければならないと隷属感を感じ神の子が嫌悪している
世界でそれが投影されている
関係性の問題なのだろうか?
対等ではない関係性を信じることで痛みの投影を起こしている?
本来の私たちはどちらかが奪われて疲弊させるような関係性など存在せず愛を与え合うだけ
それが真の依存関係
自分の中からメッセージの答えを探そうとしましたが納得感のある答えは見つからず眠ることにしました
そして数時間後猫たちに起こされ
その時に聖霊から答えが与えられました
ある曲が頭の中に流れていたのです
その歌詞から真の自分というものを思い出しました
わたしは自分の聖域を守ることだけをする小さな存在(人間)ではなく
器の大きな(無限な)普遍的愛であり霊的な存在として
支え
守りたい
そのことができると忘れていて葛藤という罪悪感を感じていました
自分が人間であると信じていたなら忘れたままでいることが最善の選択となります
この罪悪感は本来の自分を思い出したいという私の強い欲求でした
霊的な私は自己犠牲など感じずに対応できる私を知っています
そのことを出来事が起きた時に思い出していたならば
私は〇〇ちゃんに「しがみついていなくても大丈夫だよ、私はあなたの話をしっかり聞くからこの手を離しても大丈夫だよ」と罪悪感を持つことなく伝えられるのです
過剰に甘えてくるように見えていた
〇〇ちゃんも仔猫も
私には深くて大きな愛があるということを思い出させる為に目の前に来てくれた兄弟でした
私は自分自身である愛を信頼し頼りに生きることができるということを忘れていました
これまでの私は
自分にとって都合の悪い相手や出来事を拒絶することが当たり前でした
傷つきやすい卑小な自分からしかこの世界で生きてこられなかった
やっと自分はそんな存在ではないというメッセージを受け入れられる自分であることが嬉しく幸せでもあります
仔猫は24時間後に飼い主さんが見つかり無事お家に帰っていきました