「そんなオカルトありえません!」というオカルト

他の方の記事を拝見して、太字機能とかあったのか…と今更気付いた。

どうせなら、学んだ機能を活かしてみたい…と思うので、少しだけそれらしく出来そうな話題で書いてみよう。

と言うわけで、標題のテーマである。

1.オカルト的なものとは

そもそもオカルト的なものとは何か。
言ってしまえば「現代科学では証明することのできないもの」である。

古来より伝わる魔法や呪術をはじめ、やれ宇宙人だ、やれ気の力がこうだ、と言った具合で続いていく、様々な「ハズレ値」の総体だ。

けれど、確かにそれを信じている人もいる。
しかも、ぼくらは「肯定する」ことはしない一方で、「否定する」こともできない。

ぼくらがオカルト的なものを否定する理由はただ一点、「現代科学に受け入れられていない」ことに尽きるからだ。

論理の中にないものは、論理によって否定することさえ叶わない。
だってほら、論理の範疇にないんじゃ、論理で扱いようがないからね。

そう、実はオカルト的なものは、積極的に排除できるような要素を持たないのである。

2.オカルト的なものはなぜ嫌われるか?

嫌われるか、という言い方が悪ければ、なぜ信じてもらえないか、でもいい。
とにかく、否定も肯定もできない宙ぶらりんなものが、それでもなお、なぜ社会からここまで受け入れられないのか、である。

一言で言えば、社会的な規範に馴染めないから、常識に反しているから、こうした点に尽きるだろう。

何をそんな当たり前な…と言われるかもしれないが、いやいやちょっと待ってほしい。おそらくは、こうした話を聞いたことがあるのではないだろうか?

・コペルニクスによる証明が行われるまで、太陽が地球の周囲を回っていると信じられていた。
・ダーウィンの進化論が普及するまで、人は初めから人として生まれたと思われていた。
・中世の戦場では、怪我人の治療のために、本人ではなく武器に治療を施していた。
・キリスト教の聖書によるならば、地球は平面に決まっている。

エトセトラエトセトラ。

※もし上記に「いや、私はそれを信じているんだけど…」という人がいたら、ごめんなさい。
でも、現代の科学を基礎にすると、これらはオカルト的なものなんです。
貴方を否定する記事でないことは保証するから、もう少し我慢してね。

人間はかくも愚かしい…などと言って悦にいるのは簡単だけれど、ではなぜこんなことが起こるのだろうか?

かつての正しさが笑われるようになり、今の正しさに至るまで、何が変わったというのか?
地軸がズレたわけでも、世界線が変わったわけでもあるまいに。

かつてと今を分けるのは、一体何なのだろうか?

3.狂っているのはお前だよ、と国家は言った

ミシェル・フーコーという哲学者がいる。
哲学、というジャンルに収まるかは怪しいほど、巨大な知性を持った人物だ。

上記の議論の論拠は、この人の著作に求めることが可能かと思うので、ものすご〜くざっくりと、簡単に紐解いていこう。

フーコーの仕事は色々あるけれど、今問題になるのは、次の点だと思う。

◯「知の枠組み」の議論について

標題の通りに書いて、原語では「エピステーメー」と読む。らしい。外国語は難しいね。

これは、アルチュセールと言う哲学者の「徴候的読解」という方法を発展させたもの…なのだけれど、難しくなるので割愛。
簡単さのため、区別付けずに説明するので、詳しい人、もし気になるならごめんなさい。

これは、「時代における制約」の話。

ある時代において、めちゃくちゃに先端的なことを考えついたとしても、世界には受け入れてもらえないし、なんなら自分自身で表現もできないよ、というもの。

そんな残酷な、と思うかもしれないけれど、でも話を聞くと確かにそう思える。

いわく、その新しさを受け入れる「枠組み」が整っていないと、先端的な知識の新しさは上手く表現しきれない、と。

一番代表的な例が、言葉の限界。
その時代に生きている以上は、その時代の概念や言葉、因果関係や常識を使って語らなければならない。
けれど、新しい議論は、新しいがゆえに、対応するツールが何一つ揃っていない。

そうすると「あいつはデタラメを言っているんじゃないか」とみられて終わってしまう。
あるいは「なんだ、今ある議論の焼き直しか」と呆れられて、有象無象と一緒に埋もれる羽目になってしまう…という、そんな話である。

「新しいもの」がを新しく語るには、新しい道具立てが必要だ。
けれど、そうした道具が揃ったことは「新しいもの」が常識に変わった後、語れるようになってから、初めて気付かれるものなのだ。
…いや、やっぱ残酷な話だな、これ。

◯「正常と異常」を分けるもの

では、その時代の中において、正常と異常、「今理解できるもの」と「理解できないもの」を分けるのは、いったい何か。

フーコーは、これを「国家による規制」だと言う。

「すわ陰謀論か!?」と思った方、少し落ち着いて座ってほしい。ステイステイ。
100%間違いではないんだけど、いわゆる陰謀論とは毛色が違うからさ。

ここで議論されているのは、先ほどの「知の枠組み」が如何にして作られるか、と言う話。

フーコーは、精神病の時代ごとの取り扱いを丹念に調べて、こう結論づけた。

「国家や科学、医療などが、正常と決めた者が正常であり、異常と決めたものが異常である。」

「なんじゃそら」という話だが、これこそが科学や社会の発展そのものでもある、というのだ。

かつて、精神病者は神とされていた。
村で暮らしているとき、人が個人個人として生きていた時代。
信託を下したり、何か人には見えないものが見えるものとして、大切にされた時代があった。

けれど、時が下って、時代は資本主義の黎明期。
人々は産業革命とか資本化とか色々あって(色々ありすぎて書けない…マルクスの資本論あたりを読むと詳しくわかるよ)、街に繰り出して「労働力」となっていった。

さて、「よい労働力」と聞いて、貴方は何を思い浮かべるだろうか?
この点も、今とは異なると思う。まさに、知の枠組みの変化によって。

今はクリエイティビティやら創造性やらが持て囃されているが、時は大「生産」時代。
大量生産の安物をどれだけ安く早く多く作れるか、それだけが絶対正義の時代であった。

この時代において、正義は「画一性」であり、悪は「外れ値」にほかならない。
では、ここにおける「外れ値」とは何か。

賢明な貴方ならお分かりの通り、「精神病者」がその一例である。
正しくは、労働力として一定の基準に満たないことを指していたんだけど、ここでは割愛。

もちろんこれは一例に過ぎないが、こうして、世の中に「正常」と「異常」が生まれる。

「正常」とは、ある時代において、その社会の役に立てる資質があると認められること
「異常」とは、ある時代において、その社会の役に立たないと烙印を押されること

では誰がその烙印を押すのか?
それは、国家であり、医療であり、企業であり、人々であり、社会である。

当時は特に、医療の発展が大きかったらしい。
理由としては、精神における病の研究が猛烈に進んでいたため。

そのゆえもあって、国家と医療が協力体制を築いて、ひとつを基準を作り上げた。

これが「正常」と「異常」が、個性から病に変わった瞬間である。
違うことが、ただ違うことではなく、悪しきことというレッテルを貼られた瞬間である。

「異常」とは、国家や医療によって後付けで作られた、制度的な病なのである。

もちろん、本人の精神の安定のために、精神医療を受けることは大切だ。
こと現代において、それは疑いようもない。
社会的な異常と心理的な病の区別は難しいけれど、今まさに自分が辛い現実がもしあるのなら、遠慮なく医療を頼ってほしい。

けれどその始まりにおいては、「経済」のために「医療」が口実とされて、「国家」によって大々的に差別され、規制され、収容所送りになっていた、そんな経緯があったのである。

◯「規律=訓練」という常識の作り方

難しい話が続いたけれど、申し訳ない、もう少し耐えてほしい。

そうした国家が作り出した常識は、さりとて国家や医療機関の中でのみ通用する、はずである。

こうした発想が「アウトブレイク」したのは、いったい何によるものか?

答えは、「教育」である。
難しくいうと、「思想の再生産」となろうか。

ある一つの思想を、学校の教育で、企業の教育で、国家の広報で、国民全体にしらしめるのである。

いわく、正常とはこういうことだ。
いわく、異常とはこういうことだ。

これを、国の「正答」として教え込む。
第一世代は違和感がある。
第二世代は、微妙な違和感を持つ程度になる。
第三世代では、それが常識にすり替わる。

こうして、国家が作った正しさは、人々の心の中に入り込む。そうすると、不思議なことが起こってくる。

人々自身が勝手に、自分の正常性や異常性を判断して、異常であることに罪悪感を持つようになるのだ。

この異常性をどう処理するか。
それに役立ったのが、「教会」における告解だった。
大聖堂の個室で罪を告白する、アレである。

罪の告解には、3つの段階がある。らしい。
※ぼくは信徒じゃないので未経験だけど。

①罪を告白する
②その罪を「赦して」もらう
③告解した罪を「置き去りに」社会に戻る

いかがだろうか?
教会は、正常性を保つための装置なのだ。

こうして、国家が作った正常と異常を、人々の側が勝手に運用し始めて、常識が生まれる。

「規律=訓練」。
人々を訓練した、その結果が出たわけである。

そして、ここで訓練された「正常と異常を分かつ判断基準」こそが、常識とオカルト的なものを隔てるもの、その正体なのである。

4.オカルトは「新たな知恵の領域」の可能性もある

はてさて、いよいよクライマックス。
大きな回り道をしたけれど、本題に戻ろう。

オカルト的なものは、確かに現代社会では「異常」とされている。
けれど、正常と異常を分け隔てるのは、あくまで国や医療による「現在時点の知の枠組み」において、なのである。

人は、オカルト的なものに対して「非常識だ」「あんなものを信じるなんておかしい」と言うだろう。
だけれども、その人々の言葉と思考も、現代時点の常識による「規律=訓練」にどっぷり浸かったものである。

非常に重要なことに、ここでの「正常と異常」「規律=訓練」からは、今あるもの、現在時点での常識しか生まれてこない。

たとえ本当に正しさを持つ、新たな知識であろうとも、「いまここ」に適合できないなら、まとめてゴミ箱にポイ。
そうした過程を、当然のこととする姿勢なのだ。

しかし、世界は変わっていく。
良きにつけ悪しきにつけ、それこそ進歩なのか退化なのかよく分からないけれど、とにかく変わるものは変わっていく。

パラダイムシフト、という言葉は、どこかで聞いたことがあるだろう。
トーマス・クーンという哲学者が創り上げた概念である。
この人は、科学サイドから哲学を論じた人だ。

フーコーが「常識が再生産される仕組み」を解明したのなら、クーンは「常識が塗り替えられる仕組み」を解明した人物である。

塗り替えられる。
そう、かつての常識が変わったように、今ある常識とて、いつ覆されるか分からないのだ。

コペルニクスが笑われていたように。
ダーウィンが嘲われていたように。
オカルトなんてありえない、そんな言葉こそが思い込み、言うなれば「オカルトを否定するオカルト」なのだ。

昨日まで嘲笑されていたものが、明日には世界中の常識に変わるかもしれない。
今日までは日陰ものだった街談巷説が、一年後には社会を書き換えているかもしれない。

AIのシンギュラリティなんて待つまでもなく、世界はいつ書き換わるか分かったものではない、とても不安定なものなのだ。

さて、そうした場所、イマココというぼくたちの生きる場所において、改めてオカルトとは何か。

それは、ひょっとしたら明日の常識かもしれやい。
もしかすると、宇宙が終わるまで非常識のままかもしれない。
はたまた、宇宙が終わって初めて、それが当てはまる世界が到来するのかもしれない。

このまで長文で語っておいてなんだが、「なんとも言えない」というのが結論である。
だって、こうして語っているぼく自身も、「現代の常識」という引力圏に囚われている一人だし。

だが、なんとも言えないというのは、なんとでも言えるということでもある。
だって、それが間違っているのかどうか、「今の時代」にとらわれたぼくたちには、判断のしようがないのだから。

ひとつだけ言えることがあるとすれば。
オカルト的なものは、想像力の源泉である。
信じれば必ず叶うとは言えないけれど、人の想像しうることは、必ず実現可能ともいう。

ならば、オカルトとは、次の時代の、はたまた次の次の、いやいや更に次の次の次の…
はるかな未来における常識を予言した、いわば未来科学のフロンティアーーーなのかもしれない。

あらゆる出来事は、何もかもが変わった後…言い換えれば、終わった後になってから、初めて気付かれるもの、なのだから。

ーーーところで、なんでこの記事書いたの?
ーーー今年のほん怖、良かったなあって。ぼくも香取慎吾さんに助けて欲しい。

この分野の先人に倣って、最後に一言。
信じるか信じないかは貴方次第、である。

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