「冥福を祈る」とは何か
年の瀬、高校の先生をなさっている知り合いの方から電話があった。「最近周りで亡くなる方が多くなってきたけれども、そのたびにみんなが弔電やLINE等で“冥福をお祈りします”というメッセージを送り合っていて、このことばは浄土真宗では不適切ですよね?」という内容だった。
テレビでも弔電でも弔辞でも「ご冥福をお祈りします」が定型文となっており、それに疑問を持つ人はあまりいない。昨今よくわからないマナーが氾濫するなかであっても、この「ご冥福をお祈りします」に意義を唱えるマナー講師は管見の限りでは見当たらない。ましてや訃報に慣れている人などそう多くない世の中で「ご冥福をお祈りします」という定型文から敢えて外れるのは勇気のいることかもしれない。
このような場合「お悔やみ申し上げます」「お寂しゅうございます」など、遺族の気持ちに寄り添ったことばを使えば十分なのではないだろうか。
「ご冥福をお祈りします」が浄土真宗で用いられないのには理由がある。「冥福」は岩波仏教辞典では、「冥界(死後の世界)における幸福.また,死者の冥界での幸福を祈って仏事をいとなむこと」と説明されている。冥界とは、死後の世界を指すがそれは死者が“さまよう”世界のことを言うため、真宗門徒が帰依する阿弥陀仏が作った浄土とは異なる世界を指す。真宗門徒は冥界に行くことがないため、そこでの幸福を誰かが祈る必要はない。
さらにいうと、浄土真宗開祖の親鸞聖人の教えでは、人間の祈りの力で亡くなった人が幸福になったり不幸になったりすることはない。あくまで仏様の願いの力で浄土に行くのであって、この世の人間が行う行為(追善供養)によってでない。
ではなぜわたしたちは手を合わせ、念仏を唱えるのか。それはその阿弥陀仏への敬意の表現であり、阿弥陀仏のその願いを受け取るためである。
「冥福をお祈りします」、それは死者を気遣っているように見えて、亡くなった人を勝手に迷いの世界(冥界)にいるという前提を作り出してしまう、ある意味では残酷な表現かもしれない。同様の表現に「草葉の陰から見守っていてください」というものがあるが、これも亡くなった人を勝手に「草葉の陰」においやってしまう表現であるため注意が必要である。爽やかな草原をイメージすればいいのかもしれないが、草葉の陰といわれるとミミズやムカデと一緒にいるような感じがしてしまう….
「訃報に際しまして、ご冥福をお祈りいたします。〇〇さん、天国でどうかゆっくりしてください。草葉の陰から見守っていてください。南無阿弥陀仏」という弔辞があった場合、これでは亡くなった方が一体どこにいるんだということになる。天国なのか、冥界なのか、草葉の陰なのか、浄土なのか。
しかし、だからといって「浄土にご往生なさいまして、おめでとうございます」などと通夜や葬儀の場で言うのは明らかに配慮を欠いている。そのような認識が強く根付いているコミュニティなら可能かもしれないが、なかなかそういうことはありえない。私でも、もし家族が亡くなった際によその僧侶からそのような言葉をかけられれば絶句するだろう。「めでたい」と言い切ることができないところに人間の悲しみがあるのだから。
浄土真宗のご門徒であれば亡くなられた方は仏様の浄土に往生なさったこと、またご家族は深い悲しみにあるということ、これを理解しておけば礼を失するようなことはないのではなかろうか。