1000文字小説(63)・カフカ狂の女(奇妙な話/怖くない話)
僕はあれ以来、古書店に足を踏み入れたことはない。
それどころか図書館すらも嫌だ。
大きな本屋で立ち読みすらしなくなった。
今では電子書籍か、ネットで買った本しか手に取ることはない。
全ては、あの出来事がトラウマとなっている。
学生時代は、誰でも金がないものだ。
読書家を自認する僕は古本ばかり買っていた。すでにコレクターといってもいいほどだった。
神田などの古書店を巡って、洋書和書に関わらず気に入った本にアルバイトの金を注ぎ込んでいた。
希少価値のない数百円単位のものが多かったが、時には希少本にも手を出した。
金がない学生が希少本を手に入れるのは、なかなか大変だ。
良いものはすぐに売れてしまう。
そこで、ある秘策を考え出した。
狙っている希少本を別の本の下に隠しておくのだ。
この秘策で僕は昭和初期に出版された「カフカ全集」を一冊ずつ手に入れていった。
全12巻。全集が自室の本棚に揃っていくのを見るのは楽しい。
だが、ラスト一冊となった時、ある事件が起こった。
その日、古書店に行くと狙っているラスト一冊が、見当外れの場所に隠してある。
もう一人、カフカ全集を集めているヤツがいるのか。
僕は本をいつもの場所に戻した。
翌日、古書店に行くとまた別の場所に隠されている。
(誰だろ?)
僕は、腹が立ってきた。
相手を見つけてやろうと棚の陰で立ち読みしながら相手を待った。
だが、すぐには現れない。
それから3日後、犯人がわかった。
若い女だった。
竹久夢二が描くような大正ロマン風の着物姿の女である。
女はカフカ全集をいつものところに隠して店を出ていく。
僕は負けじと、いつものところに本を戻す。
カフカ狂の女との闘いは、その年の夏が終わるまで続いた。
幕切れは突然だった。
ある日、いつものようにカフカ全集を手に取ると
「わ」
僕は声を上げた。
表紙に赤黒いものが付着している。
血だった。
女のものか。
ラスト一冊となったカフカ全集には、何かイキモノの血がべっとりとこびりついていた。
僕は古書店を飛び出すと、そのままわき目もふらず走り出した。
自宅に着くと
(きもちわるい)
僕は洗面所にいって手を洗い続けた。
震えながら石鹸やアルコール、あらゆる消毒液をつけて、一時間位かけて手を洗った。
左手を確かめたが、血は跡形もなく消えている。
未だに、あのカフカ狂の女の詳細は不明だ。