1000文字小説(102)・ADHD・雨の後楽園ホール(癒やし)
「信じられるか?」
書き込みだらけの手帳を見せる。
『漢方』と記されている。
今日は、通院日だった。
漢方医院。
重度のADHD。
「何があったの?」
美彩が微笑む。
水道橋駅から、後楽園ホールに向っている。
美彩が首からかけているタオルには、応援しているボクサーの名前が入っている。
この手帳は、今年に入って5冊目。
汚い手帳は、俺そのもののよう。
再生紙のロゴマークが入っているが、年に5冊も手帳を使ったら全て台無し。
世界中の絶滅危惧種の動物たちから、ブーイングを浴びそうだった。
雨が降ってくる。
今日は、デート記念日。
当時、大学のアイドルだった美彩と初めてデートした日。
15年前の後楽園ホール。
ボクシングファン。
無名のアマチュア選手。オリンピック候補にも、プロにもなれないようなどうしようもない選手だった。
偶然、ジョギング中の選手とすれ違ってから試合に足を運ぶようになった。
その選手は、どこか俺に似ていた。
「ADHDの治療薬が、やっと処方されるようになったんだ。だから患者にも劇的な改善が見込まれるらしい」
苦々しかった。
その漢方医院では西洋医学の薬も扱っている。
「どういうこと?」
「数年前まで、出せなかった薬が日本でも認可されたんだ」
「ADHDの分野で、日本は米国に20年以上も遅れている。自分がADHDに気がついた時は、まだ薬が出なかった」
「嘘でしょ?」
「本当。だから今まで、漢方や針治療。メモを取ることなどで対処するしかなかったんだ」
『ストラテラ』
漢方医院で貰った錠剤の紙袋。
「俺はついていない。不幸だ。医学が遅れていることで、人生の20年間を無駄にしてしまった」
「バカ」
「バカ?」
「うん。私、その何度も確認するクセが好きだったの」
「初デートの時、私、行かないつもりだったの。向い側の店から、ずっとアナタを見てた。大学授業の予習をしながら。あそこのファミレスって、ここが丸見えなの」
美彩が、ファミレスを指している。
(え)
俺は、驚いて手帳を落とした。
強くなる雨に文字が滲んでいく。
「でもね、何度も何度も、メモばかり見て、時計をチェックして、雨の中、傘もささずに右往左往しているアナタを見ていると、この人、案外いい人かもって思えたの。だから、そのまま後楽園ホールに向かった。これで良かったと思ってる」
雨の中、あの日の後楽園ホールが光り輝いている。