山下澄人『君たちはしかし再び来い』(読み終わった)
読み終わった。
おととい書いた「外出するな、驕り高ぶるな」の後の章(というか、短編)の「石垣を破る」、「わたしはわたしと待ち合わせていた、」と始まる短編は、読み終わって、「ドッペルゲンガーの話だった」と思ったけれども、読んでいるときはそう思っていなかった。ドッペルゲンガーの話が面白いと思ったことがないが、これはおもしろく読んでいて、お話ではなく、本当にもうひとりの自分がいた感じがして、これが連載されたときに読んだら、「山下さん大丈夫だろうか」という感じがしただろうか。ドッペルゲンガーに会った人はもうすぐ死ぬという話がたしかあったから。今もちゃんと生きていて8月のラボでは元気でいらっしゃるのを見たし、Xにも投稿しているので、元気なのはわかっているのだけれども、この本の中ではずっと病気で、あぶなかった。この短編では、別に病気ではなかったが、そこも含めて、大丈夫なのか、という感じだ。
一昨日は、一人称に戻っていたと書いたが、途中からツスィが出てきた。私としゃべっている。一方で、私はエレベーターに乗って知らない男に、あなたが別の場所にいた、と言われていたりする。でも、録画された男は私じゃなかった。と思ったら、ツスィと私が話をしている。これは、同じ私が時間を遡ったり、思い出したりしているのだと思って読んでいた。自殺した女の人の名前が山下さんだ、とツスィが言っている台詞があったから、最後の場面で、ツスィが喫茶店の中に「山下さん」がいた、と言ったとき、その自殺した女性がいたということ? と思ったが、読み終わって、あ、山下澄人さんか! と思って、そこで初めて、「ドッペルゲンガーの話だった!」と思った。
つまり、「わたしはわたしと待ち合わせていた、」と最初の最初に書いてあったときにもそうは思わず、途中も全然そう思ってなくて、最後にやっと「!」となった。
山下さんの小説を読んだ後に何か書くと、自然に、ものすごくわかりにくい書き方になるけど、それが楽しい。
その次の章は、この本の最初の短編の物語の書き直しで、猫の話が付け加わっている。山下さんは、最初の短編が気に入らなかったと言っていて、実は、私は、最初の短編はあまりそこまで面白いと思っていなかったので(対山下さん比で)、なんとなく嬉しかった。書き直されたこれは面白かった。最初の短編は、小島信夫の「小銃」を読んだ時に感じた小難しさというか、ちょっとありきたりさがあった気がした。でも今ネットで調べて「小銃」ってどんな話だったっけ、と読んでみたら、ぜんぜん間違ったことを言っているかもとも思ったが、まあ、書いたままにしておく。
最後の短編、「君たちはしかし再び来い」は、登場人物の誰が誰なのかよくわからないままに読み終わってしまった。もう一度読んだらわかるかもしれない。終わり方がよかった。