【約30年前の綾子と千鶴と岩井先生の話】
※二次創作
※notBL、not夢、ほんのりGL(千鶴←綾子)
※今後正史が出た場合削除予定
扉の向こうから、きゅきゅ、たん、だんっ、ぎゅ、とリノリウムがポワントとの摩擦で鳴る音が聞こえてくる。主な照明が落ちた後の暗い廊下で、私は扉の横の壁に背を預けてその音を聞いていた。ドア下の細い隙間から廊下へと部屋の明かりが差し込んでいる。
「おう、綾ちゃん。どうした」
廊下の向こうから聞こえた声に俯いていた顔を上げると、暗がりから岩井さんがぬっと姿を現した。その長い手足を持て余すように立っている。
「岩井さん……」
「綾ちゃん、また背が伸びたか? 子どもはちょっと見ないとどんどん大きくなるなあ。この前までいーちゃんいーちゃんってひよこみたいについてきてると思ってたのに」
「もう……やめください」
からかうような物言いに苦笑で返す。普段から人を食ったようなところがある岩井さんだが、なぜか昔から私には優しい。母の仕事場についてまわっていたよちよち歩きのころから遊んでもらっていたものだからすっかり失念していたが、実はすごい人なのだ。早くからプリンシパルとして生川はるかバレエ団の黎明期を支え、円熟期を迎えた近年ではダンサー業と並行してコレオグラファーとしての活動も始めているという。現役振付家でありながら既にレジェンダリーコレオグラファーと名高いパトリック・バシュラール先生が生川の誇るオリジナル演目『GEISHA』を提供してくださった際、主役であった岩井さんと何か通ずるものがあったらしい。それ以来バシュラール先生を師としている岩井さんのコレオ作品はじわじわと海外でも評価されはじめている。岩井さんの作品を見れば、彼が決して人を食っただけの性格の人物ではないことがわかる。人間を嫌いながら人間を愛し、人間に惹かれ続ける人の作品だと思う。そんな人をいーちゃんだなんて、と長じてから気づいて以降、他の生徒の手前もあり、呼び方も接し方も気を付けている。
「……千鶴か」
部屋の中から聞こえてくる音に気付き、鋭く扉へ一瞥をくれた岩井さんが言った。
「そうです。自主練してるみたいなんですけど、あの……」
言ってよいものか言いよどむ私を岩井さんが先回りした。
「この前のコンクールのことだろ。聞いたよ」
「はい……」
「森真鶴ねえ。俺も映像見せてもらったけど、天才っつーよりバケモンだな、ありゃ」
「……」
「”ジュニア部門での出場最後の年に毎年獲ってた優勝を種違いの妹にかっさらわれる”――って、あいつよっぽどキいたんだろうな」
「……ええ」
そう。先日行われた全国規模のバレエコンクールで、千鶴は生まれて初めてトップを逃した。優勝したのは彼女の父親違いの妹、森真鶴。ジュニア部門の年齢規定に達したということで今回がコンクール初出場だったらしい。確かにこれまで下の部門でも他のコンクールでも彼女の名前は見たことがなかった。あんな子が出ていれば確実にどこのお教室でも噂になっていたはずだ。それくらい、彼女は圧倒的だった。軽快そのものなのに、比類のない正確さと安定感。心の動きがそのまま体の動きになったような音楽的直観力と表現力。舞台に登場してポーズするだけで辺りが明るくなるほどの美しい容姿。見る者全てを惹きつける、暴力的なほどの、華――。
「私も出場したので森さんの演技を間近で見ましたが……いえ、レッスン審査の段階から、彼女は既に生徒のレベルでないと思いました」
「なんか昔千鶴を捨てたとかいう母親に教えられてんだろ? どんな教育してんだか」
「……私、千鶴の気持ちを考えるとあの日からなんて声を掛けていいかわからなくて……」
両手に持っていたレッスンバッグの持ち手をぎゅっと握りしめる。
「それでこうやって暗い中立ってんのか」
「……」
しかし岩井さんの言葉に素直に頷くことができない。
違う。それもあるけど、それだけじゃない。まだ嘘がある。
「そうで、でもそれだけじゃくて、千鶴と顔を合わせたら私……」
いま、何か見えそうになっている。目を逸らしていた自分の中の何か美しくない感情がちらちらその端を覗かせている。直感的にそう思ったが、その一端を掴んで引きずり出す勇気が持てず、代わりにバッグの持ち手をぐちゃぐちゃとよじった。
何も言わない岩井さんの促すような優しい瞳に、私は再び俯いて固く目をつむる。
「私、私……」
つっかえたように言葉が出てこない私を見かねたのか、岩井さんが穏やかにそれを引き継いで紡いだ。
「――綾ちゃんは、千鶴に勝ってほしかったんだな」
「……!」
はっとした。岩井さんが私の気持ちを代弁したことで、それをインデックスに、私のもやもやしていた気持ちの中身が一瞬にして集合整理され、理解できるようになった。あの日から千鶴に抱いていた罪悪感のようなものや偽善に似た気持ち。どうして私は千鶴に声を掛けられなかったのか。
それは、言ってはいけないことを、言ってしまいそうだったからだ。
「そ、う……そうです。私、千鶴に勝ってほしくて、森さんがいくら上手くても勝ってほしくて……でもそんなのは本人が1番思ってたはずだし」
「まあな」
「でも、私やっぱり千鶴が負けたのが嫌だった。私、絶対、絶対にちづちゃんには、ずっと1番でいてほしかったの……!」
口を両手で押さえ下を向き、潜めた声で静かに思いの丈を叫ぶと、ぽとりと数粒、床に雫が落ちるのが見えた。岩井さんは、首を直角に曲げた私の後頭部に軽く手を置いた。腕が長いから距離があっても楽に届く。こんなときに少しおかしくなってしまった。
「綾ちゃんは、ずーっと千鶴に1番を譲り続けてきたもんなあ」
凪いだ海に住む生き物みたいな軽さと安らかさで、岩井さんが言う。
「だって、千鶴は天才だから」
千鶴が生川に入ってきて以降、この言葉は常に私の呪詛であり免罪符だった。
初めて千鶴と同じレッスンを受けたとき、すぐにそのそなわった天賦の才に気づいた。まだ十にも満たなかった千鶴は、それでもあっという間に頭角を現し、私の周りにいたバレエ団の”えらいひとたち”の注目を一身に集めるようになってしまった。それはもちろん、私の母――このバレエ団の創設者である生川遥もだ。将来性のある千鶴のため、母はあれこれと環境を整えた。まだ一部木製だったり劣化が始まっていた教室の床をより高品質なリノリウムに張り替え、団の外部や海外からも講師を呼び寄せたり、積極的に生徒のコンクールへの参加も募るようになった。幼い私は「どうしてこんなに色々やるの? ちづちゃんが来たから?」と不満顔で母に食ってかかったが、「いいタイミングだったのよ」と母は微笑むだけだった。ちょうどバレエ学校のほうもレベルが高まってきている折で、確かにそれも大きな要因だったと今となれば理解できる。そして恐らくは資産家である千鶴の家からまとまった額の寄付も受けていたのだろう。ただそんなことは知らない小学生の私は、単に贔屓されているように見える千鶴が疎ましかった。
しかしいくら疎ましくても、同じレッスンを受けるたびにお互いの歴然とした力量差に打ちのめされる。海外へも進出したプロのバレリーナだったという彼女の母譲りの美しい肢体は、成長するに連れてますますバレエ向きに進化していった。彼女の芯のある強さが、何を踊っても役に説得力を持たせてしまう。いい意味で「何を踊っても五代千鶴」。そんな天才少女の不思議な引力の前では、私もいつの間にか彼女を認めざるを得なくなっていた。それどころか、日々間近で千鶴の踊りを見ていた私は、もはや彼女の1番のファンであるとも言えた。
「ねえ、さっきのソテ・アラベスクすごく綺麗だった。どうやってるの?」
「うーん……前に進む力と後ろ足を引っ張る力を均等にバランスとる感じ?」
「ちょっとやってみるわ」
「見ててあげる」
そうやって切磋琢磨していくうち気付けば仲良くなっていた私たちは、コンクールなんかへ出向くのもいつも一緒だった。岩井さんは私が「ずっと1番を譲ってきた」と言ったが、それは誇張表現だ。お教室にだってコンクールにだって、千鶴抜きでも私より上手な子はたくさんいた。仮に千鶴がいなかったとしても、私はバレエで1番になることはできなかったのだ。
それでも隣に千鶴がいれば、と思った。私がバレエで1番になれなくても、千鶴が1番になってくれる。その千鶴の1番隣に私がいればいいのだと。千鶴が本番直前のウォームアップで、本番の舞台で、はたまたワークショップのレッスンで、その振り上げた脚を以て人々の注目を集めるたび「もっと見て。うちの千鶴は素晴らしいでしょう」と私は誇らしい気持ちになった。既に彼女は、私の偶像だった。
そんな彼女が。
あの日、森真鶴さんによって崇拝対象を打ち砕かれてしまった私は、もうその壊れてしまった像をどう扱っていいのかわからなかった。壊れたままで置いておくのか、破片を拾い集めてもう一度作りなおすのか、また別の像を見つけるのか――。そんなことがぐるぐる無意識化を巡りながら、今日まで肝心の千鶴本人とろくに会話もできずに、私はどうしようもなくここに立っていたのだった。岩井さんの一言によって、それがまざまざと白日の下に晒されてしまった。
「はーー……」
目が明いた子猫のような気持ちだ。細く息を吐いて息継ぎをするように真上を向く。一瞬にしてカタルシスを得、ついでに本音も吐き出してしまって、酸欠のように頭がぼうっとした。岩井さんの声が私の漂った意識を引き戻す。
「まあでも、あの手のバケモンは稀にいるが、意外と長続きしないかもしれないぞ」
「え?」
腕組みした片手で細い顎を撫でさすりながら岩井さんはなんでもないように言ったが、私はその言葉に目を見張った。
「出来上がっちゃってるからねえ。最初っから”わかっちゃってる”と、バレエやってても面白みもなんもないんじゃないかと俺は思うね」
「そんなものですか」
「バレエってのは終わらない修行みたいなもんだろう。それが苦しくもあり楽しくもあるが、はなから悟ってるやつらには何の必要性も感じられないのさ。案外バレエなんてさっさと飽きて辞めるかもな」
「そんな、あんなに資質が揃ってるのに……」
信じられない気持ちで私も顎に手を添える。しかし、人をよく見ている岩井さんの予言めいたものは当たることが多い。
「ま、持たざる人間からしたら腹の立つ話だわな」
「岩井さんは持ってる側の人間です」
膨れ面でそう返すと、岩井さんは笑った。
「森真鶴のことはともかく、千鶴は今後の生川の団にとっても必要なダンサーだ。あいつのことだから大丈夫だとは思うが、万が一これで潰れたりしないよう、綾ちゃん、気にかけてやってくれ」
「わかりました」
「……いつも損な役回りを押し付けて、悪いな」
「いいえ。ダンサーとしてではないですが、私だって今後の生川を担う人間です。生川の将来のためになることなら当然引き受けます」
珍しくすまなさそうな顔をする岩井さんに、私は背筋を伸ばして答えた。
長く在籍してきた生川はるかバレエ学校の卒業まで残すところもうおよそ1年。千鶴は卒業後生川のカンパニーに入り、素晴らしいダンサーになるだろう。私も、大人にならなくてはいけない。そのためにいま必要なのは一人相撲をとることではなく、例え恐ろしくともこの扉の中にいる相手に面と向かって向き合うことだ。
私の決意を見てとったのか、岩井さんは
「本当に、どんどん大人になるなあ」
と言い再度私の頭部に手を伸ばしかけて、やめた。その代わり、レッスンスタジオの扉の取っ手を掴んで思いっきり開いた。
「おい千鶴! とっくに時間過ぎてるぞ! 綾ちゃん待ってんだろうが!」
「えっ、綾子?」
眩しいスタジオの中に足を踏み入れると、驚いた顔の千鶴が息を乱したまま立っていた。ほっそりした長い首に汗が伝っている。
「ごめん、待ってたの? 何か用?」
「ううん、何でもないの。閉める時間だから呼びに来ただけよ」
全くもっていつも通りの千鶴に、私は少し拍子抜けする。連日待ち伏せしていた私は彼女がここのところ毎日居残り練習していたことを知っているので、もっと鬼気迫る様子の千鶴を想像していたが違ったようだ。
汗を拭く横で岩井さんがオーバーワークだのなんだのお小言を言っているのを千鶴はうんざり顔で受け流しながら、私に近づいてきて素早く耳打ちした。
「ねえ、オーロラのバリエーション、踊れるようになったの。あの子より上手くできてるかどうか、今度綾子がチェックして」
いたずらっ子のようでありながらその実真剣な表情に、私は思った。
なんだ、ちっとも壊れてなんかいない。やっぱりあなたは私の偶像だ、と。
≪引用・参考文献≫
「漫画「ダンス・ダンス・ダンスール」ジョージ朝倉」『季刊エス』2020年7月号,60-67,徳間書店
佐々木 涼子・瀬戸 秀美(2000)『魅惑のとき―BALLET DANCERS』あんず堂
綾子のはらわたが煮えくりかえるまであと数ヶ月