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コロナ軽症者:宿泊療養施設の暮らしとその後

2020年9月末現在。
国内では8万人以上が罹患し、今も毎日多くの感染者が出ている、新型コロナウイルスという病気。
それなのに、いざ自分がかかってみると、なぜこんなにも情報が少ないのか、と驚きます。自分がTwitterをしていないことを差し引いても、メディアなどでは重症者情報は散見されるものの、軽症者向けの施設はどういうところで、何が必要で、そこで罹患者がどう感じているのかが、ほとんど見えてきません。状況共有の方向に向かわないのは、自分もかかった、とは言いづらい、この病気の特性があるのかもしれないし、また、人によって状況、症状があまりにも違うこととも大きいかもしれません。
私自身はブログなど記録好きな方ですが、罹患当初はわりと発熱が辛かったのと、自分のこれからへの不安感とで、とてもPCを開く気力になれませんでした。しかし、宿泊療養施設を退所後に、その体験をメモとしてまとめた方がいいのではないかと思いました。
以降のメモは、宿泊療養施設の入所中に書き留めた内容が基本なので、読みづらい点はご容赦下さい。
誰かに何かを主張するつもりはありません。どなたかの主張を受け止める余裕もありません。
医学的な知識も持ち合わせていない、罹患者としての声です。医療の状況は変化しているので、本編はあくまでも2020年9月末時点での個人的な体験の旨、ご理解下さい。
今回は神奈川県の担当、地域の保健所、病院関係皆様が多く動いて下さったことを実感しました。
敬意の念とともに心からの感謝を申し上げます。

目次:
●発症経緯(夫)
●自分の感染
●移送
●神奈川県療養サポート
●入所生活
●どこまで公表するか
●退所
●コロナ後遺症
●発症経緯(夫)
最初に感染したのは夫です。夫は半年以上在宅勤務を続けていましたが、発病前に仕事のために都内に合計2回外出していました。外出時はマスク着用したものの、満員電車にも乗車しています。外出時の昼食で同席した方に罹患者が出ていないそうです。

9月3日(木)に夫が夜間に咳き込みだし、その時点でマスク着用をお願いしました。
9月4日(金)の朝から、夫に37.5度前後の発熱があり、オンライン会議に使っている仕事部屋に移ってもらい、以降は食事、就寝、生活すべてを別部屋に切り分けました。
トイレは使用前にLINEチャットで宣言してもらいました。部屋を出る時に消毒、必ず蓋をしてから流すことを徹底し(これはとても重要らしい)、使用後に手を洗った後に部屋に戻ってから再びLINEチャットで報告。すぐに私が、夫が使った後のドアノブ、操作ボタンなど都度消毒しました。4日間で消毒薬を1本使い切り。福祉に関わる友人のアドバイスで、台所洗剤を薄めた液に雑巾を浸して拭いても有効と聞き、可能な箇所は洗剤で洗いました。また床にウイルスが落ちることも想定して、洗剤を浸した雑巾で洗面所、トイレ、廊下を床拭きしました。私は掃除が苦手なのですが、家の中がきれいになってしまうという副産物も。
室内換気は、風の流れを作ることが大事で、構造上L字型になっている風呂場などは、扇風機を使って玄関からの外気を通すと効果的、とアドバイスを受け、サーキュレーターを設置して換気。備え付けの換気扇も、風呂場、トイレともに24時間つけっぱなしでした。
9月5日(土) 夫は熱が下がったものの、念のため発熱外来へ。地域の個人病院で、院外の駐車場に設置されたワゴン車でせきや発熱の患者を診て下さり、医師判断でPCR検査も実施してもらえます。初診でしたが、翌週も仕事で外出予定がある旨予定を伝えたところ、唾液検査を受けさせて頂けたそうです。
9月7日(月) 朝9時に病院から陽性反応の連絡。同居家族も外出はしないよう指示あり。以降、夫を窓口に保健所や県から連絡が次々と入るようになりました。
8月30日(日)に会っていた、別居息子にも連絡し、最寄りの保健所に連絡してもらいました。保健所にはすぐにつながり、発症の2日前からを濃厚接触とするため、判断が微妙なのでこちらの自治体が濃厚接触と判断するか次第、と言われました。その後、こちらの自治体から別居息子は対象外とする、と連絡ありました。
「神奈川県が判断した濃厚接触者は、同居息子と私の二人とし、PCR検査を受診する医療機関を調整中」と、私たち居住地の保健所から連絡が入りました。
罹患する前は、濃厚接触者とは、2週間位遡って、一緒に仕事したり食事したりした人のことを含むのでは、と思っていました。しかし、コロナに関する濃厚接触者の定義は、保健所によってずいぶん違うようです。厚生労働省の基準がコロナが流行し始めた当初とはかなり変わってきています。マスクをしているか否かで大きく違うようです。この頃には街にはわりとマスクをしないで歩いている人も増えているなと感じていたので、マスクがそんなに大事なのかと驚きました。
夜20時頃に保健所より夫あてに電話があり、翌日午後に民間救急車によって宿泊療養施設に移送するとの連絡が入りました。その後も20時半頃に「療養のしおり」がメールで送付され、21時頃には救急隊からの連絡が入るなど、表には見えないところで多くの方々が切れることなく働いていて下さっていることを実感しました。ちなみに、この民間救急車の発動はすごくお金がかかるそうで、1回5万円くらいだそうです。
その後、私と息子のPCR検査結果によっては家族全員で自宅療養となる可能性を考え、夫の移送は一旦延期して頂きました。結果として息子は陰性、陽性となった私と夫は、9月10日(木)にそろって入所となりました。発症後6日目の移送なので、自宅内感染リスクは実は高かったかもしれません。息子が不必要に自室から出てこない性格だったのが幸いしました。夫は結局最初に熱が出た以上の症状はなく、自宅待機中はもちろん、入所期間中も普通にリモートワークでバリバリに仕事をこなしていました。後から発症した私が後遺症で苦しんでいますが、夫の場合は最初にかかった病院で、PCR検査を受けたものの、陽性となる可能性があまり想定されずに、通常の風邪と同様の抗生剤を処方されたことが、実はかなり効果的だったのでは、という気が個人的にはしています。

●自分の感染
私は親の介護があり、都内に往復は何度かしていましたが、普段からマスク着用、外出後の手洗い、消毒、調理前の手洗いなど基本的なことは気をつけておりました。保健所の公式な判定は家庭内感染となっていました。

私の発症は9月8日(火)。前日に右脇下のきしみ、当日朝から筋肉痛、軽い頭痛、倦怠感から始まりました。発熱推移は、朝5時半頃に36.0度→9時頃に37.3度→10時頃には38.1度と急上昇しています。症状は、頭痛、筋肉痛と、インフルエンザと似た症状です。
13時に解熱剤を服用し、PCR検査を受けに指定された病院まで車を運転していきました。発熱しての運転は、普通に考えると危ないですが、他に移動手段がありません。
その後は、17時頃は37.1度でしたが、体感温度は39度くらいに感じられるほどきつく、また激しい頭痛がありました。19時頃に38.0度、21時頃に37.5度と推移しました。食欲が無かったのはこの日だけで、他の日は喉の痛みはあるものの、それなりに食べられました。

9月9日(水)は、明け方から鼻づまりの症状、頭痛、息を吸った時の右胸あばら骨3番目に痛みが出てきました。夜から喉が焼けるように腫れ、処方されていたカロナール500で熱が下がると楽になるので、解熱剤を使いながら使い捨て手袋をして食事作りや入所準備を進めました。頭痛や、鼻の脇の頬骨の膿んでいる感じは、その後数日続きました。
16時前に、神奈川県庁コロナフォローアップセンターから体調確認の電話が来ました。神奈川県は「神奈川県療養サポート」というLINEアカウントに対して、罹患者が1日に2回健康報告をする仕組みです。この日にLINEで回答した15時の定時回答について、具体的にどのように症状が悪いのかの聞き取り調査が電話でありました。
この日は、夕方は36.3度と低めなものの、喉はかなり腫れていました。深呼吸した時の肺の下の方のしめつけるような感じが気になり、なるべく肺炎に進行しないようにと、ネットで話題になっていたコロナに有効である呼吸方法を試したり、寝る時は腹ばいになったりしました。大昔の妊娠時に取っていたシムスという体勢も取りました。入所中もなるべくこの姿勢で寝るようにしていましたが、いかんせん宿泊療養施設のベッドがヨガマットほどの硬さで辛かったです。

入所以降、数日は鼻水が出て、喉の痛みも引き続いていましたが、平熱に戻っていきました。
療養半ばから喉の痛みがなくなるのと引き換えに現れたのが、味覚障害・嗅覚障害です。
きっかけは、入所3日目の朝に、LINEビデオで家族と話をしながらスムージーを一口飲んでいた時です。「しょっぱ!昨日と全然違う味!」と驚く私に、夫が「え、昨日と同じものが配られているよ」と言ったこと。味覚症状は様々なパターンがあり人によるらしいですが、私は甘味だけが感じないタイプ。塩味は感じるのでお弁当は食べられました。しかし、匂いは全く感じず、珈琲は水の味。お茶も風味はなく、ロクシタンのクリームは無臭でした。あぁ、自分は本当にコロナなんだ。ちょっとだけインフルのような症状が出ただけかなって思ったけれど、やっぱりコロナのウイルスが自分の中にいるんだと思って、本当にこわくなり、さめざめと泣いてしまいました。(普段はそんなキャラじゃありません)
症状としては、その後もずっと、仰臥位だと胸の上に何かが乗っているような苦しさがあること、鼻の奥に粘度が高い鼻水があって緑黄色の痰が出ること、右ほほの鼻のツボと言われる個所に花粉症の時と同じような重い痛みがあること、鼻の奥から脳に向かっての頭重感と薄い頭痛が消えないこと、などが続き、下痢も一貫して残っていました。
発症して1週間頃に急変する例もあるからと聞いていたので、それまでは毎日、明日の自分がどうなるのかという怖さでいっぱいでした。それを過ぎると、コロナの魔の手に追いつかれないように、とにかく「時よ早く過ぎて」という思いでいっぱいでした。しかし、結局魔の手にはたぶん最初から体をわしづかみにされていたのだということを、後遺症で実感することになります。

●PCR検査
話は前後します。
9月8日(火、夫の感染翌日)に、保健所から私と息子のPCR検査を実施する病院を指定する電話連絡が入りました。
この時点ですでに38.0度の発熱があることを確認された上で、車で30分かかる病院に運転で来られるかを聞かれました。炎天下を徒歩で向かうかの二択をせまられ、安全運転で向かうと伝えるしかありませんでした。もしこの時に民間救急車をお願いしていた場合は、手配などでさらに受診が遅くなった可能性が高いようです。
病院の受付は、14時半到着を厳守。運転1時間前にカロナールを服用しましたが、気休めにもなりません。無症状の息子も同乗していたので、運転中は空気の流れに気を付けました。運転席側の窓を閉め、助手席から後方2席に風が流れるように窓を開けました。
病院に着くと、総合玄関前の外の丸椅子に座って待つように指示をされました。目の前の総合玄関は閉ざされ、その横に片側を壁につけた状態の大きな災害テントとプレハブ小屋を組み合わせたような仮設建物が設置されていました。写真を撮るような心境にはとてもなれませんでした。
青い防護服の看護師さんがビニール袋を両手で開き、診察券と保険証を入れるように広げます。入れた袋の端をつまんで持って中に向かう様子は、まるで汚染物扱いですが、これが一番安全なのでしょう。看護師さんの防護服の背中はガムテープで止められ、靴も同じ青い不織布の素材でカバーがされていました。
前の人が呼ばれてからけっこうな時間が経ってから、息子と私が一人ずつ呼ばれました。おそらく一人分ずつその都度準備していたのでしょう。小屋の中は、災害時用ほどの大きな冷風機が中から外に向けて風を送っていて、比較的涼しく感じましたが、それでもまだ夏の暑さは残っています。酷暑時のスタッフ負担はいかばかりだったかと、ぼうっとした頭でも思いました。
まず、手動式血圧計による血圧測定、脈拍、SPO2の測定。それから、聴診器で胸の音を聴かれました。今は胸の音はいいけど、レントゲン撮ると真っ白になり始めということもあるから、多めに撮りましょうと言われました。
喉がかなり赤いことを確認され、「あー、たぶんね、かかっているよね」と話した時のドクターの、痛ましい者へのなんともいえないまなざしが忘れられません。そしてPCR検査。細長い綿棒で両鼻にそれぞれつっこまれました。わりと奥の方までぐりぐりとやられたので、終わってから「自分は大丈夫だったけれど、息子は感覚過敏の傾向があるので、このPCR検査は受けるのが難しいかもしれない」と話すと、無症状の人は唾液検査のみと言われたのでほっとしました。それから、いったん建物を回り込んで一般道路を歩いて、建物裏手の職員駐輪場だったらしい場所に誘導されました。トタン屋根から吊り下げられた白いビニールで仕切られた、オープンブースが10個並んでいました。中には非常にせき込んでいる人もいて、辛そうでした。後から、後から、人がどんどん途切れずにきていました。。
唾液の抗原検査は、直径2cmくらいの透明なプラ筒で先が三角すい状の、太いクレヨン形状のボトルを渡され、唾液をそこに入れるように言われました。夫が受けた民間病院では、レモンと梅干の絵が渡されていたようですが、こちらは手助け無し。ゆっくりでいいです、あせらないで、と。息子は時間がかかったみたいですが、私はとっとと出して、その後、小さなプレハブ小屋に移動して採血。この時の先生は、わりと簡単な保護着の着方で、ゴム手袋だけだったため、「あれ?スタッフによって温度感が違うな」と感じました。

息子は唾液検査のみで、私はレントゲン待ち。裏手から病院の建物に入るように言われて行くと、そこはビニールカバーなどなく、普通にレントゲン検査室でした。仰向けに寝ると、筒状のMRIっぽい機械に吸い込まれたものの、うまくいかず2回撮影。その後、立った状態で前向きと横向きで撮影。その間、息子はひたすら会計を待ち、外テントで会計を済ませていました。
途中から雨が降ってきたのですが、トタン屋根に雨の音が鳴り響き、なんともいえないさみしい雰囲気に。ビニールカバーの上にも雨が降ってきて、降りこみそうな勢いでした。
PCR検査は無料と聞いていたけれど、実際には検査料など合計で9,990円かかりました。レントゲン代などらしいですが、これはいずれ返ってくるのかなぁ。痛み止めでカロナール500が10錠処方されました。入所中はこれが頼りでした。
14時半に病院に到着後、結局16時頃までかかり、カロナール処方と会計待ちの最中に、抗原検査の結果として陽性が判明しました。陽性+と書かれた用紙の衝撃度といったら。

帰宅後、自宅療養はあきらめ、陽性が確定した親2名の隔離を決断しました。保健所に夫から連絡すると、病院については肺炎または高齢者でないと入れないらしく、高熱くらいなら宿泊療養施設とのことでした。陽性と診断した病院と連携し、今後の移送先を決定するとのこと。この時、2人一緒で入所したい旨の希望は伝えたそうです。
18時に私のスマホに保健所から聞き取り調査の電話がありました。この時、相談ごとがあった際の日中連絡先、夜間連絡先の両方を教えて頂きました。電話奥のあわただしい、おびただしい電話説明の様子から、世間では「電話がつながらない」と言われている保健所の裏で、こんなに遅くまで多くの職員の方が働いているのかと驚きました。
「ごめんなさいね、お熱がある時にお辛いでしょう」という優しい言葉かけにかなり救われたし、毎日のこんな激務の中で一人一人に寄り添う言葉をかけているのかと、胸がいっぱいになりました。

また、神奈川県としての公表についての説明も頂きました。性別、年代、家族構成は夫と子、勤務は会社員、などが公表資料に出るらしい。居住の区名は出さないが、記者から個別に聞かれた時には、公表資料以上の情報を話すことはある。しかし、個人が特定されないようにするので安心してほしいということでした。
(神奈川県の患者発生状況の公表。個別の罹患者については、各市の記者発表資料の中で、年代、家族構成、職業、居住地、発症日、症状、特記などが公表されています)
https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ga4/covid19/occurrence.html

陽性と診断された翌日も、保健所、県の担当など、実に多くの方からこまめに何度も何度も電話連絡が入り、かなり調整して下さっているのがわかりました。この時の決定権は市の保健所ではなく、県なのだそうです。
宿泊先はアパホテルがよかった…とは入所後も思いましたが、そんな勝手なことは言えません。夫婦同じところにして頂けた配慮に感謝です。県からの連絡で、移送先は、ホテルではなく宿泊療養施設となることに加えて、必要な所持品を一気に電話口で言われました。所持品として何を持っていくかは、実際にはROさんのnoteをバイブルのように参考にしました。
https://note.com/r000/n/nd3eaab932e6b

その後、夫と一緒の移送が決まり、民間救急隊から夫に連絡が来ました。自宅近くにお迎えに来るけれども、サイレンは鳴らさないこと、また近隣の目もあると思うので待ち合わせは自宅から離れたどこがいいかなどを聞いて下さり、ナビを見ながら相談をしていました。こちらからお願いする前にそこまで配慮して下さることに驚きました。保健所、県、救急隊。多くの人がかかわっていることを実感しました。

●移送
9月10日(私の発症から3日目)、移送当日の10時頃に、息子に陰性の連絡が来て、ほっとしました。
14時頃に指定された場所に行くと、ほんとに救急車がいて、防護服を着た救急隊員に促されて中に入る感じでした。人が見たら、うわぁ、あれ、もしかしてっていう感じ。運転席の救急隊員との仕切りはかなり頑丈で、向こうの声は聞こえませんでした。夫が座ったのは進行方向に対して前向き。私は苦手な横向き。スーツケースが動いてしまうのを押さえていました。白いビニールカーテンで仕切られていたのが、たぶんカーテンの向こう側はストレッチャー。カチャカチャいう音が聞こえました。けっこうなスピードで高速道路に乗っていたと思います。連れていかれるんだ。これから自分たちはどうなるのかな、明日の自分はどうなるのかな、天気は晴れているのに、涙が出て止まりませんでした。
病院の敷地に入る時、坂の下で病院の赤い制服を着た医療スタッフが誘導した後、救急車がゆっくり坂を上り、敷地内で止まりました。夫だけが先に行きました。車内に一人だけ残されてこれから、自分は10日間ひとりなんだ、そう思ったら、マスクの下の涙が止まらなくて、止まらなくて、救急車を下りる時は号泣していました。古い建物の床に貼られた赤いビニールテープに沿って歩いて受付に行くと、封筒が置いてあって、目の前に書類があったのでただただ必要事項を書いて箱に入れ、人気が無いエレベータを上り、エレベータを降りると、そこは廃墟の施設が音もなく広がっていました。もう使われていない設備だけの、諸行無常の響きだけが感じられる施設。指定された部屋に行くと、青い、青い空が眼前にうそみたいに広がっていました。もう他の人と普通に接することはできないという絶望感、これから自分の体がどうなるのかという不安感、死ぬことと今はとても隣りあわせなんだという実感で初日はずっと泣いていました。涙が止まらなくて、止まらなくて、こんなに泣けるものなんだって、新しい自分と向き合っている気分でした。
PCR検査中や、救急車で移動中の写真なんて、撮る余裕はなかったです。そんな物見気分のことをして、後で急変して、あの時の自分は何していたんだっていう気持ちになるのは恐ろしいと思いました。というか、ほんとにメンタルパニックだったと思います。

●神奈川県療養サポート
陽性が確定してから、「神奈川県療養サポート」というLINEアカウントとお友達登録することになります(罹患者以外は登録できないようです)。毎日、8時と15時に体調を入力するタイプの質問がLINEチャットがきました。指定時間内に応答がないと30分後にリマインドされます。
内容としては、咳が出ますか? 鼻水、鼻づまりはありますか? 喉は痛いですか? 吐き気はありますか? 頭は痛いですか? だるいですか? 手足の節々は痛みを感じますか? 下痢はありますか? けいれんやしびれはありますか? 目の充血はありますか? よく眠れますか? 食欲はありますか? 現在の体温? 現在の酸素飽和度(部屋に装備されたSPO2の機械と体温計で測定) でした。これがまた、微妙にヒットする項目があったりなかったり。味覚障害は医療的な質問には該当しないようです。ずっと続いている胸痛についても項目にはありませんでした。
入所当日、そして項目に異変があると、電話で確認が入ります。わりとこまめに見て下さっている印象でした。LINEでのやりとりは、後日、自分のログにもなりました。
療養生活については療養サポート窓口、症状についてはコロナ119番にワンタッチでかけられるようになっていて、夜間でも、休日でもすぐにつながりました。
毎日SPO2の測定があるので、ネイルをしている人は入所前に外すように言われました。

●入所生活
軽症者向けの宿泊療養施設なので、病院でもない、ホテルでもない、今は使われなくなった施設に収容されていました。廊下には「立ち入り禁止」の大きな文字が目立つテープが至るところに貼ってありました。その施設は、まるで夜逃げ状態のように、前の生活感が残った状態なのに人気が無くて、明かりだけが照らされていて、夜は怖くてたまりませんでした。

人生初の、人と切り離された異空間。廃墟に隔離されているというのが当時の感覚でした。
違う階とはいえ、夫と同じ場所にいることは心強かったです。とにかく全く情報が無い状態で部屋に入ることになったので、エアコンのダイアルなど「あれ?そっちの部屋はこうなっているの?」というやり取りを写メしたり、電動ベッドの使い方や、リネン類の案内など、初日はかなりLINEでチャットできて、それだけで時間が埋められました。生まれてからだいたい、家に自分一人でいたことなんて一度もなかったので、気がおかしくなりそうでした。

施設の1階に医師と看護師が常駐されているそうですが、そのことは全く感じられませんでした。のどの痛みを訴えても、ご自身でトローチなどを用意して頂かないと、こちらではなにもできません、という答え。薬は?と聞くと、届けるのに2日かかりますが、それでもどうしてもというのなら、というお答え。感染症には根本的な治療方法がなくて対処療法、とは知っていたけれども、「水でうがいを」と言われた時は、あーそういう感じなんだ、と認識が足りなかったことを入所してから知りました。入所前はちょっとそこまで頭がまわる余裕はなく、胃痛や他症状が少なかったのは幸いでした。

8時、12時、18時がお弁当の配布時間。「今から配布をするので、入所者は居室内にて待機を」と館内放送がありますが、建物の一番端の部屋にいた夫にはよく聞こえなくて、私が毎回内容をLINEで伝えていました。元が無菌室だったから、聞こえにくかったのかもしれません。
朝はローソンのおにぎりかサンドイッチに、ヨーグルト、スムージー、レトルトパックのポテトサラダ。わりと量が多いし、いい金額しているなと思いました。昼は揚げ物たっぷりの弁当。夜も同様。女性にはかなり多い量。揚げ物は食べられなくて、副菜とお米を少し食べましたが、お米はわりと美味しかったです。水とお茶のペットボトルは自由に持っていける形でした。
ご飯の時間は、自宅に一人で留守番をしている息子、離れて暮らしている息子、別の階の夫、私とで、ラインビデオをするようにしていました。「なに作ってるの?」と息子に聞いたり、「お母さん、今日もまだ味覚はまだ戻ってない?」などという話をしながら、30分くらい一緒に食べている感じで過ごしました。一人でずっと過ごしていたら、声帯が弱くなって声も出にくくなるかなと思っていたので、つきあってくれる家族がありがたかったです。

入所2日目以降は熱も下がり、体調は基本的によかったです。テレビのNHKのみんなのたいそうとラジオ体操を1日2回していました。
自分の普段の生活行動を考える機会もありませんでしたが、起きたらごはん用意して、洗濯や掃除してから買い物行って、お昼と夕飯の用意をしてから事務仕事のパート行って、という「ザ・かあちゃん」な生活をしています。どこの奥さんもそうだと思いますが、座るのなんて、ご飯食べる時とパート仕事している時、テレビ見る時くらいじゃない?ということで、入所中はサイドテーブルの高さをマックスにして、ずっと立って生活していました。
Wi-Fiがあることは事前の療養の案内に書かれていました。たまたま、今年の私の誕生日プレゼントが薄型PCだったのでとても重宝しました。私は世の流れと同様、自粛生活をきっかけにNetflixの韓国ドラマにハマっていたのも幸いでした。韓国ドラマ、Nintendo Switchのあつもりで時間を過ごすことができたので、PC無かったら死んでいたかも。

入所期間の後半は、夜にほとんど睡眠をとることができていませんでした。夜の廃墟感が怖くて、照明をつけて、音楽もつけて寝ましたが、普段はそんな習慣がないので日本語の音楽だと歌詞が脳に刺さってきます。韓国ドラマのオリジナルサウンドトラックは、うつらうつら聞こえていても内容が脳に入ってこなくてよかったです。

療養型施設での入所生活は、noteなどでお見かけするホテル型とはずいぶん違う内容でした。施設に備えられていたもの、持って行ってよかったもの、無くて困ったもの、自宅にあってよかったものの記録は別にする予定です。

●どこまで公表するか
勤務先の直属上長に、罹患したためしばらく休む旨の連絡を入れました。人事部案件になると言われ、以降は人事部担当者の方とメールで連絡をしていました。
悩んだのが同僚や友達への対応です。
「お休みしているね、どうしたの?」
「聞いてるかもだけど、うちの会社からまたコロナ出ちゃったんだって!」
「まさか、あなたじゃないよね? 心配だから教えてね。」
といった連絡が何件も入ってきました。本当に心配して連絡してくれているのはわかったので、言った方がいいのかどうかと悩みましたが、家族にも相談して、基本的に誰にも言わないことにしました。
以前にも親の介護で頻繁に休んでいたこともあるので、家庭都合で休んでいる、と全員にお答えしました。この友達には言って、別の友達には違う理由を言って、などということをする心の余裕もなかったです。「あの時はそう答えるしかなかったから」と後からいくらでも言える、と家族がアドバイスをしてくれました。
一方で、地域の医療情報などは知りたかったので、看護師、保健師、地域福祉の仕事をしている友人数人には伝え、情報を教えてもらったり、自分の体験を伝えたりしました。

●退所
退所にあたって一番心配だったのは、これから自分に風邪の症状が出たり、病気になった場合はどうすればよいか、です。そもそも、今後の人生でコロナって既往歴として書くべきなのかどうか? インフルエンザと同じ扱いなのか? 謎すぎます。
すでに世の中にはコロナに罹患して、入院や施設療養して、治ったといって社会復帰されている方は多いのに、その皆さん方はどうされているのでしょう。
入所前に予約していた人間ドックからは、病院側から一方的にキャンセルされてしまいました。届いていた提出書類の自己申告書には「味覚障害・嗅覚障害の人は受診不可」と記載されています。後遺症が無くなるまで健診が受けられないのでしょうか。

胸痛、頭痛など微妙な体調不良が続いていたので看護師の友人に聞くと、退所後1カ月はコロナ症状については検査ができる病院に行ってほしいということでした。それ以降は症状を聞いて医師判断となるようです。検査ができる病院って、どこなのでしょう。
コロナ症状とは関係ない、皮膚科や歯科についてはどうでしょう。言わずに受診して、話の流れで「先月まで入所していまして」と話したら、空気が変わるのでしょうか。これから自分は医療機関とどのようにつきあっていけばいいのでしょうか。それはいったいいつまで続いて、いつになったらもう言わなくてもいいことになるのでしょうか。

退所前日に療養サポート機関から電話が入りました。
その点について不安を伝えると、「でも発症してから10日で感染力はなくなりますから」という答え。これが神奈川県のスタンスなのですね。でも、患者の現実として、このはざまにいるとつらい。体調不良の時に実際に行く病院はどうすればいいですか、と伺うと、まずは療養サポート窓口に相談して下さいとのことでした。
もともと肩を痛めていたので整形外科に行きたいけれど、そういう時も罹患したことを伝えた方がいいのですか、と聞くと、それは言わなくてもいい、という答えを頂きました。実際に受診した時の会話の途中でコロナの罹患者だとわかったら、どういう対応をされるのかは不安になります。

発熱が残っていると療養期間が延長されてしまうのですが、熱がなかった私は予定通りの退所となりました。先に退所した夫の場合は、お迎えのタクシーが最寄り駅まで送迎して下さり、そこから電車で自宅に戻りました。私の時は、その夫が車で迎えに来てくれて、施設前のゲートに到着したという連絡を私にもらい、施設の係の方に到着した旨の連絡を内線電話で入れました。その後、施設のゲートを開けて頂き、玄関前に駐車して待ってくれていました。忘れ物があっても返却できません、と言われていたので、しっかりチェックしてから、雲が美しく見える窓を背に扉を閉めて、スーツケースを持ってエレベータで玄関まで降りていきます。千と千尋じゃないけど、もう、振り返っちゃだめだ、なんて思いました。

●コロナ後遺症
退所時点でまだ残っていた症状は胸の痛み、黄緑色の痰と鼻水、下痢、頭重感と時々の頭痛でした。
退所して初日は、とにかく自宅に戻ってきた安ど感しかありません。自分の洗濯ものを洗い、使っていたものを戻し、夫が用意してくれた食事を頂くと、眠くなりました。家のマットレス、全然違う。ぐっすり眠ることができました。施設では2時間以上続けて眠ることができなかったのですが、家に戻ってからは、夜は10時過ぎに寝ることができました。
困ったこと。そして今なお、困っていること。今一番不安に思っていること。それは、明け方の発熱です。
毎朝、必ず5時前後に発熱するのです。退所して数日は、キリキリとした軽い筋肉痛を伴いました。「え、うそでしょ、なに?」という不安とともに検温すると、36.3度。それから10分後に37度ちょうどで止まりました。普段の体温が35.9度前後の私にはちょっとした発熱です。嫌な感触が残ったものの、1時間ほどで36度ちょうどまで下がりました。
翌日も、決まって毎日、明け方に36.9度か37度ちょうどの発熱があります。36.2度まで下がることが多いのですが、日によっては36.8度のままの時もあります。36.6度だと、2分の違いですが、それでも体の扱いはだいぶ違ってきます。
胸の痛みはずっと続いています。断続的に、というより、時々きゅーっと締め付けられる、うぅぅと胸を押さえたくなる程度の辛さです。胸の中央、周辺組織の痛み、吸った時の痛みなど。押すと痛くて、押したら凹むんじゃないか?、このままはがれるんじゃないか?、肋骨の中の組織が変わっているんじゃないか?毎日こんな症状が起きたら、心筋炎にならないのかなという不安があります。
発熱も、胸の痛みも、体にとってはすごく負担になっているように感じています。でも、内科を受診したらいいことあるのでしょうか。どこか受け入れて下さるのでしょうか。コロナ外来とかってできないんでしょうか。

全体的に気分は悪くないので、日中は近くのコンビニまで買い物したりもできますし、ベランダの枯れた植木を入れ替えたりもできます。でも、明け方にまた起こされるように熱が出るんだろうなぁと思うと憂鬱です。まだコロナに捕まっているんだと実感させられます。

下痢はおさまりました。緑黄色の鼻水は、退所して3日間、自己判断で抗生物質と去痰薬を服用したらきれいに改善されました。
味覚障害はあまり改善されていません。爆笑問題の田中さんが言われたように、半分程度、というのがわかります。味覚障害に効果があるというマッサージは入所中から行っていましたが、退所後は亜鉛のサプリを購入して毎日服用しています。食事も工夫し、牡蠣、ブロッコリー、牛肉、アーモンド、ゴマ、わかめなどを食べるようにしています。苦手だった鼻うがいもがんばっています。

あまりにも定期的に明け方の発熱が続くので、療養サポート窓口に電話をかけて相談してみました。発熱が高くはないこと、発症から10日以上経過しており感染はしないということを言われました。体調についての不安はかかりつけ医にと言われ、そもそも元が健康なので定期的に通っている病院はなかったし、地元の病院からはやんわりと断られている旨を伝えると、では不調の時は保健所にと言って頂きました。

神奈川県県の方針として、退所後にPCR検査などは行わないので、今、自分の体の中にウイルスがいるかどうかを知る手段がありません。しかし、症状としてひどくはないけれど、確実に残っていて、日常生活にそこそこ支障をきたしています。結局、まだ仕事に復帰することもできていません。
これから別の症状が現れた時に、それはコロナと関係しているのかどうか、誰に聞けばいいのでしょう。
多くの方が罹患し、大変ご不幸なことに逝去されていらっしゃる一方で、私のように軽症者として日常生活に戻られた方が多くいらっしゃるはずです。夫のように全く症状が残らずに日常生活を過ごしている方もいれば、息切れがする、頭痛薬が手放せない、疲れやすくて思考がまとまらない、といった症状が残っている方々も少なくないはずです。
その人たちの声は、どこに行っているの?
誰もまとめてくれないの?
統計も取ってもらえないの?
誰に相談したらいいの?
地域の病院はみんな「コロナだった人、うちの病院に来ないで」って思っているの?
軽症者、あるいは中等症者だった方で日常に戻った方の悩みをどこが引き受けてくれるのか。
私が、noteデビューしたのは、まさにこのためです。
知っている医療関係の方に、自分の体験を知ってほしい。
これが、軽症者のリアル。今、なお、苦しんでいる現実。不安。孤独感。

一方で、こうして日常に戻れていることは幸せなことであるのは、間違いがないのです。
これは多くの、県のご担当、保健所、病院関係の皆さまのおかげです。夫にPCR検査を実施して下さった医療機関にはとりわけ感謝申し上げます。普通だったら「抗生剤飲んで様子見てね」で済ませていたかもしれない。私が熱を出していても、2日で下がれば、また次の週には仕事に行っていたかもしれない。同僚の中には持病をお持ちの方もいらっしゃいます。考えると恐ろしいことです。
罹患して重症化し、ご不幸にもご逝去された多くの方にはご冥福を心よりお祈り申し上げます。亡くなられる時もご家族と一緒に過ごせないという、コロナならではの特性には胸が痛みます。入所期間中は、いつも、自分はあと一歩で向こうの世界なんだ、という不安が常にありました。そのことを一生忘れることはできません。
そして医療、介護、保育、最前線で働く方々に心からの敬意を表するとともに、皆様のご安全を心より願っております。長い、長い文章をお読み下さり、ありがとうございました。

追記:現在も毎日体温を記録しています。明け方に発熱する症状は罹患して26日目以降無くなりましたが、時々夕方に微熱が出る日があります。胸痛も続いています。結局、整形外科にもインフルエンザ予防接種にも罹患したことは言わずに通院しています。
味覚障害、嗅覚障害は10月1日に突然治りました。息子の靴下を直でかいで臭さに感激しました。

追記2:半年後、花粉症で鼻に炎症を起こしたことがきっかけなのか、嗅覚障害が再発しました。ガス臭、たばこ臭に悩まされています。いつもではなく、ワイングラスでワインを嗅ぐかのように、ふわっとガス臭が感じるのです。豚肉を炒めている時や、ガーデニングで土の香りがするところが、ガス臭。傷んだ肉の臭いも、パンを焼いた香りも、花の香りもわからない。スーパーJチャンネルの林美沙希アナウンサーの、今までとは違っているという「風味障害」に近いと思います。20年前に次男の担当医だった先生に紹介状を書いてもらい、大学病院のコロナ後遺症外来に通い始めました。

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ありがとうございました。なんらかの形で医療従事者の方へのお礼につなげたいと思います