育てる 育てられる 野菜を育てて自分が育つ
寒さの厳しい長野県筑北村の冬も姿を潜め、漸く春の気配。
春の訪れを一番に知らせるのは、私としてはあまり嬉しくない虫達。冬の間、生りを潜めていた虫達が家の中に姿を現し、最低気温はまだ氷点下だというのに、早々と外を飛び始めます。日中、やっと暖かくなって外の仕事ができると張り切って出るものの、顔の周りをうるさく飛び回る虫にうんざり。
春と言えば畑の準備で忙しくなります。寒冷地なので他の地域より出足が遅いですが、ずっと寒さで家に引きこもっていた人々がワラワラと出てくるのは虫と同じ。特に今冬は寒さが厳しく、雪の少ないこの地方も積雪が多かったせいで、なかなか外で仕事ができませんでした。今年から自然農の畑に力を入れようと考えていた私としては思うように土づくりが出来ず焦る日々。昨年末に立てた新しい畝は雪に覆われたまま年を越し、2月になってやっと糠を撒いて刈草で覆う「草マルチ」ができました。
自然農は除草や殺虫剤はもちろん、牛糞や鶏糞といった肥料も与えません。厳密な決まりがある訳ではありませんが、「持ち込まない、持ち出さない」が基本で、全てを畑や自分の生活環境の中で循環させます。「持ち出さない」と言っても野菜は収穫するので、その分の栄養として「補い」をします。多くは自分の所でとれた米糠や草木灰、落ち葉や残渣で作った堆肥、そして刈った雑草を敷いて草マルチにして肥料の代わりにします。
私は石油製品も使いたくないので、できるだけ支柱も竹や麻紐を使ったりしています。この辺は自然農と言っても、人によって様々です。共通しているのは農業としての手法と言うより、「自然な形で農業を行う」という考え方ではないかと思います。畑の中で自然の循環や営みを目にしながら野菜を育てていると、知らず知らず自分自身の在り方についても考えが向きます。自然界の中で自分はどういう存在なのか。畑という人工的な環境下で野菜の邪魔をせず、本来の成長をさせる為に自分は何ができるのか。害獣と呼ばれる野生動物達と折り合いをつけるには、人間としてどう対処すべきなのか。そもそも、私が生きていく上で本当に必要な物って何なのか。
ずっと都会で暮らしてきた私が、図らずもコロナによりこの地に移住し、これまた予想外に家に付いていた広い畑で自然農を始める事になったのが一昨年の8月。生活環境もガラリと変わりましたが、それ以上に大きく変わったのは私の価値観ではないかと思います。以前は生きていくにはお金が不可欠で、お金がある程便利な生活ができて、遊ぶ時間があって、好きな物に囲まれて幸せな生活ができると思いつつ、常にお金が足りなくなる不安に追いかけられていました。離婚してこの村で猫カフェを始めましたが、収入はほぼ無いも同然。確定申告も百万単位の赤字ですが、不思議な位、不安がありません。猫達と共に雨風を凌げるこの家があり、畑で作った野菜や野にでる山菜、野生動物達ですら食べる事ができるので餓死はしなくてすみそうですし、寒さが厳しいので凍死が心配ですが、石油は買えなくても薪はいくらでも山から取ってこられます。でも、そんな一つ一つの事柄より、ここでの暮らしは「何とかなるさ~」という不思議な安心感と幸福感に包まれています。
社会や未来は常に不安がつきまとい、特に今は世界的にもコロナや自然災害、戦争やインフレ、食糧危機といった不安要素が溢れています。そんな中で私が思うのは、「今ここ」という意識。今この瞬間、身の回りは平和で、自分は幸せに生きている。今この瞬間、自分に足りない物はなく、満ち足りている。こんな風に思いながら暮らせるようになったのは、自然農のお陰ではないかと思うのです。変わる事のない太陽と植物と動物と全ての自然の営みの中に身を置いている事で、私自身もその一部として立ち返れているのではないかと感じています。
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