見出し画像

「ジャパンブルー」

歌川広重の『諸国六玉川 武蔵調布 衣叩き』は安政4年・1857年の作品。
六玉川は、歌枕に使用される全国の六つの玉川(野路の玉川(近江国)、三島の玉川(摂津国)、野田の玉川(陸奥国)、 調布たづくり の玉川(武蔵国)、井手の玉川(山城国)、 高野の玉川(紀伊国))の総称である。

この玉川は、かつての武蔵国の東京都などを流れる多摩川であり「調布(ちょうふ)」、または「調布(たづくり)」は、昔の税金である租庸調のうちの、その土地の特産物を納める「調」として官に納めた手織りの麻布である。

広重の作品の特徴の一つがこの作品にも見られるように広重ブルーと言われる青の美しさである。広重以外の浮世絵師にも青は大ブームとなったが、その中でも広重の青の使い方は抜き出た美しさであった。

時には大単に、繊細に青を使う、空や海、植物、物などあらゆるものに青を使い、青のグラデーションで描かれる風景は美しくゴッホやモネなどの海外の画家にも影響を与えた。

そしてもう一人広重ブルーとならんで北斎ブルーと呼ばれる作品で有名だったのが葛飾北斎である。江戸には「青屋」や「紺屋」と呼ばれる染め物屋が数多く誕生し、藍色は江戸で大流行した。

流行浮世絵師だった葛飾北斎(1760~1849)と歌川広重(1797~1858)は敏感に流行色を取り入れ、ともに江戸の呉服店や染め物屋街を藍色中心に描いた。流行浮世絵師が描く藍の絵が流行をさらに後押しし、
幕末の江戸は藍色の町になっていく。

2人の青の色遣いは「ホクサイブルー」「ヒロシゲブルー」と呼ばれてフランス印象派やアール・ヌーボーの芸術家たちに鮮烈な印象を与え、
「ジャポニズム」旋風の 牽引役となった。2人は当代一の浮世絵師の座を競い、北斎は70歳を超えてから『冨嶽三十六景』を出すと、広重は、それを数で上回る『東海道五十三次』を出して、互いに庶民が好みそうな題材を描いた浮世絵を量産し続けた。2人が取り入れた藍色は、18世紀初めにドイツ・ベルリンの塗料技師が、原料の調合を間違えて奇跡的に誕生した「ベルリン藍(ベロ藍)」という化学染料であった。

ベロ藍は奇跡的な誕生から約1世紀後にオランダ船で長崎に持ち込まれ版元から入荷の連絡を受けた北斎と広重は、新色をただちに自分の絵に取り入れた。それまで浮世絵の青色に使われていた植物由来の染料は色あせが激しく、明るい青を出す鉱物由来の顔料は希少・高価で、青色は庶民向けの浮世絵には使いたくても使えなかったが、ベロ藍は安価で濃淡もつけやすく、風景画の浮世絵版画にうってつけだった。ベロ藍を手にした北斎は、役者絵や美人画から風景画に作品の主軸を移し、国産の濃い藍も使って『冨嶽三十六景』を描いた。

広重も負けじと『東海道五十三次』にベロ藍を使い、ベロ藍は浮世絵の色彩を一変させた。実年齢で37才差と親子以上に歳の離れた両者であったがかつて名所絵と呼ばれた両者の風景版画は1830年代前半に実際に商品としてぶつかり合いその販売実績がその後の絵師たちの活動を左右したのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?