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日本の芸能 『江戸時代の歌舞伎、人形浄瑠璃』

仮名手本忠臣蔵と義経千本桜



仮名手本忠臣蔵


『仮名手本忠臣蔵』は人形浄瑠璃(文楽)のための作品として書かれたが、それぞれ直ぐに歌舞伎化され、人気作品となった。1701年京都御所からの天皇の使者をもてなす饗応が執り行われるというその日。江戸城中にて饗応役を務めることになっていた浅野内匠頭長矩が、儀式の監督役であった吉良上野介に斬りかかる事件が起きる。この事件は江戸の人々の関心を集め、早くも数年後には近松門左衛門が「碁盤太平記」という作品を書きその後、様々な作品を経過して、 1748年に「仮名手本忠臣蔵」が誕生する。江戸時代には同時代の事件をそのまま劇化するのは取り締まり対象である為、そのままでは芝居にできず、そこで「仮名手本忠臣蔵」では南北朝時代を舞台とした「太平記」の世界に事件を仮託している。浅野内匠頭は塩冶判官、吉良上野介は高師直、大石内蔵助は大星由良之助として登場し江戸時代の作者は非常に用意周到ですから、単に名前を借りた、というだけではない。実は「太平記」の中で、高師直は塩冶判官の妻に言い寄るものの断られ、その腹いせに讒言によって判官を失脚させ、最後には切腹に追い込むというエピソードがあるのです。「仮名手本忠臣蔵」の作者たちはこの話を上手に史実の赤穂義士事件と重ね合わせた。事件の発端を高師直(吉良上野介)の横恋慕に設定し、塩冶判官(浅野内匠頭)が謂れのない嫌がらせを受けたために刃傷に及んだ、とした。


義経千本桜

『義経千本桜』の原作は2世竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作で、諸説あるが、主たる作者は並木千柳だとするのが有力である。能の『船弁慶』など、先行する芸能諸作品の要素を取り入れながら魅力的な作品に仕上げられている。『義経千本桜』がはじめて上演されたのは今から約270年前の延享4年(1747)11月。8代将軍徳川吉宗が将軍位を息子の家重に譲り、その家重に仕えた田沼意次が徐々に出世の階段を上りはじめた頃である。この作品が、人形浄瑠璃の演目として大坂・竹本座で上演されると、大変な人気を呼び、当時の様子を記した『浄瑠璃譜』という書物にも「大当りにて大入なり」と記されている。この『義経千本桜』は、『菅原伝授手習鑑』『仮名手本忠臣蔵』とともに三大名作とされ、時代を経て演出などに工夫が加えられつつ、現在でも人形浄瑠璃(文楽)や歌舞伎などで大いに人気を博している。特に、知盛の壮絶な復讐劇である「渡海屋・大物浦(第二段)」、弥左衛門、権太父子のすれ違いを描いた「鮓屋(第三段)」、狐の化身の活躍が見ものの「河連法眼館(第四段)」などは単独の演目として演じられることも多いようである。一方で、通し上演の場合でもすべてが演じられるわけではなく、「吉野山(第五段)」が催されることなどはまずないのが現状である。演目の人気に差があるのは、オムニバス形式の合作であるがゆえの宿命と言えるかもしれない。史実を軸に、古くは軍記物語の『義経記』から人形浄瑠璃に歌舞伎、現代は大河ドラマや映画と、時代を超えて愛されるのは、ひとえに義経や平家の人々の活躍や悲哀に満ちた歴史に、人々が魅了され続けているからなのかもしれない。

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