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「アフリカ・ニグロ美術の形成」


今世紀の初頭にフォーヴィスムやキュビスムの作家たちはアフリカの彫刻に目をとめ、熱心に収集を始める。アフリカの造形は、当時、オセアニアの造形と明確に区別されることなくアール・ネーグル、ニグロ美術と呼ばれていた。 このニグロ美術の発見には幾つかの説がある。アンドレ・ドランがモーリス・ド・ヴラマンクからガボン国の民族ファンの仮面を譲り受け、アンドレ・ドランのアトリでそれを見てパブロ・ピカソとアンリ・マティスが「ニグロ美術」を知ったという、モーリス・ド・ヴラマンクが広めた話。アンリ・マティスは、フランスのレンヌ街にある骨董品店で初めて買い求めたアフリカの彫像をアンリ・マティスがガートルード・スタインに見せている所にパブロ・ピカソが現れ、パブロ・ピカソはそれによってはじめて「ニグロ美術」を知ったとい話。パブロ・ピカソはのちにパリのトロカデロ民族誌博物館で「啓示」を受けたと強調し、それぞれの作家が、いずれも一九〇六年前後の出来事として、それぞれ語っている。事の真相は定かでないが民族学的資料としてのみ扱われていたアフリカの品々を「美術」という名でいっせいに呼び始めたことは、大きな出来事であり、その出来事が「モダンアート」の歴史にとって、どれほどの意をもっていたかは計り知れないし、「ニグロ美術の発見」が画期的な意義を有していたことは間違いない。と言うのも、アフリカで生み出されたモノの「美術」としての歴史が、まさにそこから始まるからである。モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、アンリ・マティス、パブロ・ピカソをはじめ多くの作家たちが、「ニグロ美術」の収集を始め、それに合わせて、ボール・ギョームやシャルル・ラトンといったパリの美術商も活動の範囲を広げ、「ニグロ美術」の市場はヨーロッパからアメリカへと急速に拡大されていく。そして、一九三四年、ギョーム、ラトンらのコレクションを集めた「アフリカ・ニグロ美術展」が開設後間もないニューヨーク近代美術館(MM)で開催され、「近代美術館で「ニグロ美術」の展覧会がはじめて聞かれた。




このように、アフリカの「美術」は、「ニグロ美術」「プリミティヴ・アート」「トライバル・アート」と総称を変えつつ、今世紀を通じて、美術家、美術商、美術収集家、美術史家、美術館などからなる、「美術」をめぐる一連のシステムのなかに絡めとられていった。元々美術、アー トという言葉はアフリカには存在しなかった。少なくとも、用語法のうえでは、アフリカの仮面や彫像は、美術作家によって賞賛され、美術商によって売買され、美術収集家によって収集され、 美術史家によって語られ、美術館に展示されることで「美術」に仕立て上げられてったとも言えるだろう。


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