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大和の「亀の瀬」
【記録◆2024年12月18日】②
地形と同じく、「自己相似性(部分が全体と相似な形を有している)」が歴史にもあると感じます。
神話は普遍的で、どの地域の歴史とも響き合うようです。
『みむろ山(三輪山)』近くの古老も、「神話は、このあたりのできごと。スサノオもクシナダヒメも、ここに住んでいた」と語っています。
そこで、「出雲神話のヤマタノオロチ退治は、出雲(島根県)の歴史書に登場しない」という話を思い出し、
「では、ヤマタノオロチとは何か」と、一昨年に考えたのでした。
「大和国の民が畏怖するモノ」とは何かと。
一昨年、「桃尾の瀧(奈良県 天理市)」へ行きました。
ここには、【草薙の剣を持っていた八岐の大蛇が剣となって降臨した】という伝承があるのです。
「大和盆地は災害が少ない」とおもわれています。
大きな台風を、わたしは一度しか経験していません(このときに三輪山の樹木が多数倒れて山容が変わった)。
しかし、「大和川大水害」は遠い過去ではなく、
「仏壇が天井まで浮いた」と、34年前に義祖母から聞きました。
治水は、遠い昔から続けられてきたのでした。
「桃尾の瀧」の水は、山を下って布留川に流れ込んでいます。
大和の王が国見をしたなら、「盆地の南半分」だけで一級河川が北から、布留川、大和川、初瀬川、寺川、飛鳥川、曽我川、葛城川、高田川、葛下川と並び、8本の川が大和川となって西の山々の間から盆地を抜けます。
「盆地の北半分」からも大和川に10本の川が流れ込んでいます。
その後、大阪側でも9本の川が大和川に流れ込んで1本になります。
(大阪平野の北側は未確認。)
[注:以下の立体地図は、窓の近くの壁に展示されているため、太陽の熱で平野部が膨らんでしまったようです。]
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ヤマタノオロチの胴体は「大和湖」だったのか、と考えもしたけれど、
「昔、生駒山は乱伐によって荒れ、土が見える所もあった」という話から、
【頭が八つ、尾が八つ、谷を八つ渡るほどの大きな体で、その表面には苔や杉が生えて、腹は真っ赤にただれている】という神話を連想しました。
海につながる側を頭とするなら、布留川の上流が尾になります。それで、「スサノオがヤマタノオロチを退治したとき尾から出てきた草薙の剣」が、桃尾の瀧の言い伝えになったのかも、と考えもしたのでした。
「奈良には災害が少ない」とおもわれているのは、人家や田畑の多い所では治水が行き届き、文化遺産は水害の無い高台を選んで建てられているため。
2011年の「紀伊半島大水害」という名称に「奈良」という文字は含まれていませんが、天川村は水没し、高台に建てられた『天河大辨財天社』でさえ無事だったのは神殿だけです。
(地滑りで川が塞がり、下流から津波のように返ってきた水と、上流からの水がぶつかって水柱が立つのを、目撃された方がすばやく通報なさったため避難は30分で完了したそうです。)
「奈良には災害が少ない」とおもわれているのは、山間部の災害がほとんど報道されないためなのでした。
山間を巡ると、安全な時期を選んでいても、「生死(いきしに)の境」を進んでいるように感じます。
スサノオが高天原から追放される理由となった狼藉の数々は、自然災害の擬人化だと、どこかで読みました。
台風が通り過ぎた後は、スサノオが暴れた後と同じになります。
神話の伝え手は、ヤマタノオロチを退治するには同等以上の力が必要だと考えたのでしょうか。
出雲の伝承では、『古事記』を記した人物の名も明かされています。
「大和川」が西の山々から大阪へ抜けていく所を『畏(かしこ)の坂』と、万葉人は呼びました。畏怖は、現代でも失ってはいけないもの。
数十年にわたって行われた世界最大級の対策工事により、現在は地滑りが防がれています。
これまでの対策工事に、わたしは、「人間の力」を感じるのです。
昭和になっても、重機が無かった頃には、人力で土砂を除いていたので、現代の技術を持たなかった古代人の不屈の魂も感じます。
◇◇亀の瀬地すべり歴史資料室◇◇
この記事の写真や動画は、資料館で撮らせていただきました。営利目的でなければ、「他の方々の迷惑にならないよう撮影するのは可能」とのこと。
「COGY(足こぎ車いす)」で入館して、自由に動き回れたから楽でした。
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現地に立っても、いまは穏やかな風景が広がっているだけ。
地滑りを防ぐため300本も「100mの巨大な杭」が打ち込まれているのも、地上からは判りません(注:現在の本数は現地で確認してください。工事が進んだためか、記憶と照合できる情報を、投稿前に得られなかったので)。
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「亀の瀬」の過去と現在は、ジオラマで一望できるようになっています。
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山の向こう側に、いま居る資料館が小さく写っています(左上)。
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ふたつのトンネルが圧壊した後は、手前で汽車を降り、山の向こう側まで2キロを歩かなくてはならなかったそうです。
現代なら車で、別の峠を越えていけますが、当時はここを通るしかなく、
ジオラマの龍田古道を、着物姿のおかあさんが小さい子と歩いています。
家の前に止まっているのは、なつかしい「三輪トラック(ミゼット)」。
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斜面が広範囲にわたって崩壊しているのに、龍田古道は無事だったよう。
古代人には、危険な範囲を直感で知ることができたのでしょうか。
最後に大規模な地滑りがあったとき、避難は前もって完了していたため、人的被害は無かったそうです。でも、多くの物が失われました。奈良側は、海に繋がる唯一の川が塞がったため、数ヶ月に及ぶ浸水被害を受けました。
全て崩壊したとおもわれていたトンネルは、いまから16年前、対策工事の排水トンネル掘削作業中に、原型を一部とどめたまま発見されました。
汽車の煤が残るトンネルを、予約すれば見学もできるそうです。
関西本線は昭和7年7月に該当区間を放棄。地滑りのない対岸にトンネルを掘り、大和川を橋で渡る「新しい路線」が12月31日に開通しました。
それだけの工事を年内に終わらせたのです。心を尽くし、力を尽くして。
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斜めに架かる線路を、橋脚なしで支えています(写真の左上)。
通常は川の中に橋脚を並べるのですが、此処では流れを阻まないよう。
(比較にはならないにしろ、わたしは有る物で棚を作ったとき、こういった組み合わせによって強度を上げたことがあるので、親近感を覚えました。)
以下は、「COGY(足こぎ車いす)」から立ち上がって撮った動画です。
こちらの岸を走るのは、昭和の汽車。後半に現れるのが、現在の電車。
とはいえ、全国でも此処にしか残っていない型だから、鉄道好きの方々が実際の光景を撮るべく、橋のそばで電車を待ち構えているそうです。
大和川を撮った写真に、その橋が写っていると、帰宅後に気づきました。
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「亀石」の手前と向こうは地滑りで広範囲が崩れたのに、狭い範囲の地質が異なるのか、この亀石だけは川の中で同じ姿を保っているそうです。
(近くまで行かなかったので、亀に見える角度からは撮れませんでした。)
ここからは遠い『飛鳥』にも有名な「亀石(高市郡 明日香村)」があり、それが向きを変えると周囲は泥の海になると言われています。
大和川の亀石は、周囲が泥で埋まっても、向きを変えなかったのでした。
少し離れた所にある『亀の瀬 龍王社』が気になったので、山道を歩いて、お社に辿り着きました。
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ここから『明神山』を遙拝して、その背中側に(南へ)車で向かいます。
帰宅後に気づいたのですが、亀の瀬の次に向かったのは「鶴」という名の場所でした。そこは、予定通りの行き先です。
『亀の瀬』は、「数百万年前に、北側で起きた大きな火山活動」の1回目と2回目の溶岩の間が地中の滑り面となっていますが、次の行き先には地表に火山活動の跡があるのです。
長くなったので、つづきは次の記事にいたします。