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冥獄界の戸愚呂の苦しみを想う

 憩室炎ブログ5回目、幼少時から堂々めぐりし続けてきたテーマ「苦痛と不快感」について考えます。

【バックナンバー】
*マガジン「私の腸の囁きと雄叫び」トップへ

*01 それは腸の囁きから始まる

*02 金竜飛は「食えなかった」が、力石徹は「食わなかった」

*03 「味」との邂逅

*04 大腸よ思い出せ、これがカレーだ。——孤独のグルメ・憩室炎篇

■ 痛い・辛い・苦しいカタログ

 何度散らしても、腸にポコポコできた憩室たちが繰り返し炎症を起こして私を苦しめる。これはキリがないぞと絶望しかけていたところ、いくつかの偶然が重なったおかげで出会えた医師が外科手術を提案してくれた。腸の一部をちょん切って奴らを一網打尽にしてはどうか、と。私は一も二もなく「それでお願いします」と頭を下げた。約4年前のことである。

 この3度目の入院、とりわけ手術前後に体験した様々な苦痛と不快感を、当時の写真と入院日記を紐解きながらざっと振り返ってみたい。

<注腸造影検査>

 手術前の苦痛と不快感といえば、各種わずらわしい検査にまつわるものばかりである。たとえばお尻からバリウムを注入し、大腸をあらゆる角度から撮影する「注腸造影検査」。イラストを見てもらえれば、とくにコメントは必要ないだろう。恥辱。大げさにいえばその一言に尽きる時間を、私は過ごした。

<経口腸管洗浄剤ニフレック>

 「注腸造影」の数日後、手術前日に内視鏡検査があって、今度はお尻からカメラを挿入するハメに。しかも検査前には、この「経口腸管洗浄剤ニフレック」を飲まねばならなかった。 要は絶食後のダメ押しの「下剤」である。どんな味かというと、一言でいえばうすーいポカリ。ひと口ふた口飲む分には「オエッ、まっず」で済むが、問題はこれを2時間かけて2リットル飲み干さねばならないということ。検査開始の時間から逆算して朝6時に一人起き上がって、約10分置きに200cc注いでは飲み、注いでは飲む。これがきつい。30分もすると腹はたぷたぷ、お尻はぎゅるぎゅる、口中に塩っぽくて甘っぽい嫌な感じの後味が残り、すべてを吐き出したくなる。2時間暇だからと用意しておいた文庫本が開かれることはなく、私の頭はこの液体に中途半端な味を付けたどこかの誰かへの呪詛でギュウ詰め状態。それでもなんとか飲み続け、3分の2ほどのニフレックが私の腸管を洗い流したあたりで、看護師が救いの手を差し伸べてくれた。

「便はどうですか」
「もはや黄色い水と泡しか出ません」
「それなら、ニフレックはもうそのへんで大丈夫ですよ」

 というわけで腸をきれいにして、いざ内視鏡検査へ。

<内視鏡検査>

 腸壁に問題がないかどうかを最終確認しがてら、切除予定箇所にクリップみたいなやつで印をつけるのがこの検査の目的だ。サラッと書いたものの「腸の壁にクリップ」……こわっ。

 とはいえ内視鏡検査は以前にも経験したことがあったので、注腸造影と同様恥の感覚以外とくに何の痛みも感じないものとタカをくくっていた。が、この時はなぜか超痛かった。後で調べたところによると、こういう検査は人によって上手下手の差が激しいらしい。この時検査を担当した若い医師の腕は相当悪かったようだ。彼は平然と「引っかかっちゃったんで、ちょっと揺らしますね」などと呟き、こちらがその意味を咀嚼する間もなく言葉通りのことを実行した。とたんに腹中に走る激痛、目の前のモニター画面いっぱいにぶるぶる揺れる私のピンク色の腸壁。「もう少し我慢してくださいねー」と医師はさらに手を動かし、画面の中で腸壁が揺れ、そのたびに痛い。痛い痛い痛いんだってば。叫びたくても痛すぎて喉がぐっと詰まってしまって声が出せない。痛いに決まってる。文字通り見たまんま、ハラワタをぶるぶる揺すぶられてるんだから。恥ずかしながら、私はこの時久々に「痛い」が原因ですこし泣いた。

<手術後の夜>

 その翌日、全身麻酔で腸の一部をチョン切る手術を受け、麻酔から覚めた私はこんなありさまだった。まず最初に感じたのは、肩と首がものすごく痛いということ。手術中、長時間同じ体勢を取り続けたための筋肉痛だそうだ。 腹が無感覚なのはまだ麻酔が効いてるから。ぼやけた頭でそういう説明を聞きながらふと見ると、妻がなんだか悲しげな顔でこっちを見ている。「管だらけですごく哀れでかわいそう」というのが彼女の素朴な感想だった。たしかに。私の体のあちこちからは管が出ていて、そのうちのひとつは尿道と直結し、末端には一時的に尿を貯めとく袋までついていた。「手術ってやっぱおおごとなんだなあ」——むにゃむにゃそんなことを考えながら、私はまた気絶するように眠った。

 次に目が覚めてからが地獄だった。あたりは暗く、妻も母も看護師もいない。同室のじいさんがうめき声をあげる。暑い。麻酔が完全に切れて腹が痛い。管が刺さってるちんぽこが痛い。管のせいでほとんど体を動かせない。全身だるくて不快で汗だくで喉はカラカラ。枕元の時計を見るとーー21時。背筋がゾッとした。どうすんだ朝まで。 苦痛と不快感を詰め込んだようなあの夜は、間違いなく私の入院体験のハイライトだ。ちなみに後からわかったところでは、看護師が痛み止めの存在を説明しそびれたことが、事態をより悪化させていた。手元のボタンを押せば、背中に刺さった管から痛み止めの薬がジワーと体内に流れる仕掛けになっていたのに、私はそれを知らぬまま苦しんでいたのだ。一番つらかったのが尿道の管。膀胱はカラッポなのだが、おしっこをしたくてたまらない感覚がずうっと消えなくて、一晩中、違和感と不快感が股ぐらを覆っていた……

■ 屈する人とかがんばる人とか

 驚くべきことに、それでも朝は来た。7時くらいだろうか、周囲の病人たちが目を覚まし起き上がり、看護師たちが忙しく動き回りはじめる気配を察して、私は感動した。どうやら世界が動き出したらしいぞ! 腹や尿道の痛みはややマシになっており、汗も乾いていた。でもそれより何より、世界が明るく活発に動いていることが私を元気づけてくれた。「明けない夜は、ない」——そんなセリフを、せっかくだからと試しに呟いてみる余裕すら生まれていた。

 以後、体が癒えるにつれて苦痛と不快感は少しずつ漸減していったが、この時期私が考え続けたのは、「あの夜のあれがもし拷問だったら、自分は30分ともたないのではないか」という一事である。実はこれ、私の子どもの頃からの強迫観念だった。楽しく仲良く友達と遊んでいる時でも、「無人島に取り残されて飢え死にしそうになって、どちらかが運よく食べ物を見つけたとしたら、彼はそれを自分に分けてくれるだろうか? 自分はそれを彼に分けてあげられるだろうか?」とか考えてしまうのだ。長じて、映画やマンガや小説の世界を通して「拷問」というものを知ってからは、ますますこの難題に悩まされるようになった。

▲ たとえば『1984』(ジョージ・オーウェル)の主人公ウィンストンは恋人のジュリアと「決してお互いを感情の上で裏切らない」と誓い合ったが、思想犯として捕まり、飢えたネズミがいる籠の中に顔を突っ込まれると「この拷問を自分ではなくジュリアにやってくれ!」と絶叫したのだった。

▲ 『ベルセルク』では、邪教徒として捕まった小娘が他人の拷問シーンにビビッて「爪一枚もはがされない内に全部しゃべっ」てしまった。

▲ 一方、ゴルゴ13はどんな拷問にも耐えるし、スキを見て脱出するのもお手のもの。時には敵のふところに入り込むため、わざとつかまって拷問を受けることすらある。

▲ 『007 カジノ・ロワイヤル』より。枠だけの椅子に座らせ、睾丸を荒縄の塊で思いっきり殴る、という恐ろしい拷問。ダニエル・クエイグ演じるジェームズ・ボンドは歯をくいしばって黙秘を貫き、「タマがかゆい、かいてくれ。もっと右だよ右」とタフネスをアピール。

▲ そして、思いつくかぎりいまだに一番衝撃的だったのが、『幽遊白書』のこのシーン。コエンマが「比較的軽い地獄」でいいといってくれてるのに、妖怪化して人間を殺しまくった戸愚呂(弟)は死後、生前の罪をつぐなおうとあえて「最も過酷な冥獄界」へ向かった。そこでは「あらゆる苦痛を一万年かけて与え続けそれを一万回繰り返す。その後に待っているのは完全な無」とのこと。気が遠くなりそうだ。『幽遊白書』は好きだけど、後半の仙水編や魔界編を読んでる間、ずっとこの戸愚呂の狂気の選択が頭から離れなくて困った。「みんながそうやって楽しそうに〝次の敵〟と戦ってる間にも、戸愚呂はあらゆる苦痛を与えられてるんだぞ、10000年×10000回なんだぞ」と。

■ 耐え抜くことと、通り過ぎること

 私は手術後の病褥で、今なお冥獄界にいる戸愚呂の苦しみを想った。そして自分は何かを「耐え抜いた」わけではまったくない、ということについてあらためて考えた。ほかに選択の余地がなかったから、仕方なくいろいろな苦痛や不快感を「通り過ぎた」だけであって、この辛い道からもし楽な道が分岐して伸びていたら、私はそちらを進んだに違いない。ならば。その逃げ道を選ぶにあたって、何か条件が付加されていたらどうだったろうか。たとえば医師から、「あなたが100倍の費用を払うなら痛みゼロの治療法がある」といわれたら、もしあの辛い夜にそんな条件付の選択肢を提示されたとしたら、私は「ぜひそれで!金は後でなんとでもします!」と即答したかもしれない。「実は、魔法でその痛みを誰かほかの人に移せるよ」という条件だったら、さすがに自らの痛みを我慢する道を選んだだろう、そう思いたい。あるいは重要機密を抱えた親友がどこかに潜伏中で自分はなぜかその場所を知っていて、「奴の居所を吐けば、いますぐその苦痛と不快感から解放してやる」といわれたらどうだったろうか。いや考えるまでもない、もちろん友のために耐えたはずだ。でもそれがあれより100倍くらい強烈な痛みで、しかも半年間続くものだったらどうか。隠れているのが親友というほどでもない奴だったらどうか。こんなふうに考え始めると、すべては「程度と場合の問題」なのではないかという気がしてしまう。そして実際にそうなのかもしれない、人間。思いだとか感情だとか結局はぜんぶ、「程度と場合」に尽きるものなのかもしれない。考えれば考えるほど気が滅入る話だが、そんな疑惑を確定させる出来事とたぶん同じくらいたくさん、疑惑を打ち消す素敵な出来事が世の中には日々起こっている。はず。

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