無駄という混沌から生まれるもの
私は祖父、父と三代続いた江戸っ子である(母方も東京は東京だが板橋なので江戸ではない)。
江戸っ子にとって大事なのは「粋」かどうか。それはスピリットとして今も残っているように思う。生き方、判断の基準として「粋かどうか」それは「儲かるか儲からないか」よりも大事なことなのだ。粋という概念はこれまた伝えるのがむずかしい。なにしろ"スピリット"なのでDNAに刻まれているものであって、どんなものが粋でどんな選択が粋かって、そらぁ江戸っ子にいちいち聞いてもらうしかないってなもんだ(以上江戸ことば)。
敢えて定義づけするならば「粋とは無駄をいかに楽しむか=遊び心があるか」ということになろうか。
先日、友人の動画で、小学校低学年の息子が服の袖をぶらんぶらんさせて自分の顔をはたいたり、急激な動きで道路に飛び出したり、旋回したりというものを見た。それを題して「男子の動きの8割は無駄でできている」と友人。対して「女子は話の8割が無駄でできている」と私。
実際女性の相談を受けていると、じつに無駄な話が多い。核心にたどり着くまでに数時間を要することもある。その話だってあっちこっち飛ぶので、時系列を整理するのも大変であれば登場人物の把握も、発せられた言葉が誰のものであったかを理解するのも大変。そのわからなさと言ったら習得過程にある外国語の会話を理解した風を装って応じている時の緊張感に似ている。ただ、そのうちに時々打ち返せる球が飛んでくる。そこでようやく要約(駄洒落も江戸っ子DNA)を返すのだ。話をきくプロである私でさえそうなのだから素人の男性が女性の話についていくのは至難の技だろう。
ところが、無駄話という混沌の中にこそ本音や問題解決の糸口が隠されているのも事実。粋の話から始まって、これが粋かってぇとそれは違ぇんだが(再び江戸ことば)無駄という混沌の生み出す力は見逃せない。それは間違いのないことだ。