婚活が始められないわたしの話2
これは本当は、1ヶ月ほど前に投稿しようとしていた内容だ。
ちょうど引っ越しして、うちにネット回線が来なくて投稿できないうちに色々考えが揺れてしまった。
ただ、その後も立ち戻ってくる地点なのでそのままコピペする。
* * *
知人が結婚したというニュースを遅ればせながら知って、この文章を書いている。
Pairsをまた消した話から書こうかと思ったけれど、書きたいときに時系列を追わずに書いた方がいい。
知人は大学の時の知人だが、出会った時、わたしと彼女の恋愛経験には大差がなかった。つまり、ほぼゼロということだ。それでも彼女は、まず大学時代に失恋をして、それから社会に出て恋をして、自然と結婚した。わたしは大学時代から何も変わっていない。
わたしが恋愛結婚をできないのは、恋愛をしないからだ。
まず、誰からもアタックを受けないというほうの問題がある。
現実問題として、人生で一度しかナンパされたことがないし、それも真っ暗な海のそばでだった。体形は今は普通だが、顔の骨格がゴリラっぽく、外見的スペックの劣り具合は隠しようがない。内面はどうかと言うと、ADHD傾向を持ち合わせるASDのグレーゾーンで、社会に対してだいぶこじれた感情を持っている。これまた好物件とはいいがたい。お部屋は北向き曇りのガラス、レベルである。
唯一、社会的には『高学歴』の肩書があって、それで何とか世間を渡ってはいるが、これは恋愛においてはそこまで意味をなさない。
一方、自分からアタックしたことがあるかと言うと、それもない。いわゆる「若い時に恋愛をしていない」人間だ。恋愛感情はあった。だが、上記のスペックの低さは幼い頃からなので、常日頃身の程を知るうちに「告白をしよう」等という思い上がりは自然と消えてしまった。
あげく、告白ができる人間はそれだけ立派な価値が自分にあると思っているのだ、と裏返しの邪推をするようになった。わたしが他人から好意を寄せられると腹が立つのは、そういう僻み、というか憎しみの感情からである。
そういう恋愛弱者にも、婚活の門戸は開かれているはずだ。ただつまりそれは、「婚活を始める時点で、自然と結婚できなかったことが確定する」ことと引き換えだ。
結婚したわたしの知人が、婚活をしていたという話は聞いたことがない。わたしと同年代で結婚している人全員、婚活ではなく自由恋愛で結婚している(婚活をしている人はまだ婚活をしている)。
とはいえ別に結婚ができるなら婚活でもよいではないか、と思う。結果的に、自分の満足する時期までに満足する相手に巡り合えれば、それでよいのだと。
それでもわたしは、それでよい、と思えない。つまり、わたしの目的は結婚ではないのだ。
そして気づく。
わたしは、『結婚ができる人』になりたいだけなのだ。
さらにいえば、自然と結婚ができる、『自然な人』になりたかったのだ。発達障害者的なぎこちなさと醜さを晒して、それでも何とか社会を生きている『不自然な人』ではなく。
だからわたしは、婚活を始めることができない。
「何とか社会を生きている」という点では、私はスペックの低さの割にどうにか頑張っている。というより、幸運をフルに生かしてここまで来ている。学歴だけは我ながら文句なし。論文もアクセプトされたし、就職も何とか体面を保てる職場に拾ってもらえて、収入も世間の平均を少し超える程度にはある。家族との関係も比較的良好。カタログスペックだけなら普通の人だ。
とはいえ、何とか生きてきて、やっとこれだ。発達障害的な特性と一人っ子気質と、おまけに人並み以下の外見が相まって、とにかく世間との折り合いに苦労してきた。どんな場にいても、会話が噛み合わず浮いてしまう。何をやっても不器用で、「まともなひと」には論理も感覚も及ばない。それでも不自然に足搔き、手を伸ばし、ときには「頭のおかしさ」を武器として振り回しさえして、どうにか人並みの人生らしいものに落ち着いた。
結婚でも、きっとその気になれば同じことは試せるだろう。いかんせんゴリラのようなこの顔なので上手く行くかははっきりしないが、『自分磨き』という名の擬態をし、就活の時のようにどうにか足搔いてみせることはできるだろう。
でも、それは本当に欲しいものではない。
わたしは、普通に恋愛ができる、普通の人になりたいのだ。
無理な努力をしなくても、自然と『既婚者の人生』に収まる人間になりたいのだ。
それはとうの昔に諦めて然るべきことだと、頭でわかってはいる。それは『身長があと10cmほしい』という切望と同じくらい無理な相談なのだ。私が望んでいるのは畢竟、「生まれつきの不自然さを捨てたい」ということ、つまり「自分以外の、よりスペックの高い人間に生まれ直してやり直したい」ということなのだから。
しかしわたしは、その願いの前で揺れつづけている。目の前の人に彼氏や彼女がいるとそれだけで深く傷つくのは、「あなたも私とは別の側にいる」という絶望のためだ。「あなたはまともな人間。世間に認められた自然な人間。血縁でもない他人を愛し愛されることを許された人間。私は喪女。恋愛対象とはろくにみなされない、劣った、不自然なジャンク品。あなたと私の間には、越えられない溝がある」。絶望し、傷つき、心を閉ざして、それでもまだ、溝のあちら側に行きたい。
だからこんな文章を書いている。思うに、「弱者男性論」と同じように「弱者女性論」も必要なのだ、とりあえず、ここには。
一方、『相手』そのものは、ほとんど欲してはいない。むしろいたらかなり鬱陶しいと思う。
婚活ができるできないについて言えば、こちらこそむしろ本命ともいえる大きな問題である。
それを内心では自分でも分かっていた。Pairsを始めて、表示される「いいね」に反射的に深い罪悪感を抱いてしまい、結局一つも「いいね」を返せなかったのは、つまりそれが原因だったのだと思う。
自分がアロマンティックやリスロマンティックであるという考えに度々引き付けられるのは、そうであればわたしは最初の問題(自然な恋愛一つ許されない『不自然な』劣位人間であるという痛み)から、多少放免されるからである。
そしてその傾向があるというのは、実際にも否定しがたいことではありそうだ。その話はまた書こうと思う。
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