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スラーの意志(楽譜のはなし)
作曲を始めてしばらくは、なんとかかんとかメロディーと和音をつなげて曲らしいものをつくるので精一杯だった。
左手の和音をどうやって配置しよう、とか、コード弾きでなくメロディーの一部となるような左手の動きはどうすればよいのだろうとか、そんなことを初心者なりに考えながら作っていた。
そのうち、ぱっと見ピアノ楽譜らしい楽譜になってきたなと思えるようになった頃、何かが足りなく見えた。
スラーだ。
スラーがない。
スラーってみんな書いてたっけ?
久石譲さんのピアノ楽譜を開いたら、書いてある。
メンデルスゾーンの無言歌の楽譜にも、ある。
では私も、とスラーをdoricoに打ち込もうとして気づいたのが、
「スラーをどこまで伸ばせばよいかわからない・・・」
ということだった。
ちょっと、いや、結構、衝撃的な気づきだった。
例えば、
ドレミファ|ソファミレ|ド
という3小節をつくったとして、私は
ドレミファソファミレド~と一息にしたいのか、
ドレミファ、ソファミレド~と2つに区切りたいのか。
自分の曲なのに、
「わからない」「どっちでもよい」と思ってしまった。
それがなんだか創作する者としての未熟さを思い知らされたようで、
素人だから実際に未熟者なのだけれど、ちょっとショックだった。
スラーをどこからどこまでにするのかって、難しい。
4歳から楽器に触れてきてこのかた、スラーは
「なめらかに弾く」
「弦楽器のボーイングの切り替え」
「フレーズの変わり目」
・・くらいの認識だけで、
「どんな理由でそこからそこまでがスラーで括られているのか?」
なんて考えたことがなかった。
ピアノの先生が教えてくれていたのかもしれないけれど、きっと私の耳の右から左へ抜け去っていたのだろう。現に今何も残っていない。
自分で作曲して、楽譜を書いてみてはじめて、スラーをつけるには
「ここから、ここまで」
という意志が必要なのか・・と気づいた。
それで、とにかく一度スラーをつけてみようと、一曲全体につけてみたことがあった。
全編スラーだらけになった楽譜をみたら、今度はそれがなんとも息苦しく感じてしまった。
「このように弾け」
という意志のオーラが楽譜から立ち昇ってくるイメージ。
なんなんだろう、スラーって。
自分しか弾かない楽譜だから、別にスラーがなくたってかまわない。
でも「楽譜」を作ることも楽しいので、いつかスラーに自分の気持ちを自然に込められるようになるのかならないのか、自分がどんな結論に至るのか、もう一つ楽しみができた。