〈28〉児童支援の難しさ
児童支援は、ただ子どもと遊ぶ、気にかけるという近所の大人程度のもの、放課後児童支援員や教師、習い事先の指導者が子どもの長所を伸ばして短所を引き上げるという導くもの、子どもの困難感に入り込んで助けようとするもの、というような数種類の程度・段階があるように感じます。
深く学んでいない分野なので、正しい認識かどうかは今後学ばねばいけませんが…
放課後児童クラブで子ども達と関わると、保育で十分育っていける子どももいれば、アセスメントして介入しなければ育っていけない子どももいます。
どこまでが保育で、どこからが支援なのか、線引きすることはとても難しいですし、それをする必要があるのかどうかとも思います。
誰も教えてくれないので、本当にわかりません。
というより、「ただ見ておけばいい、ただ遊んでおけばいい」という大人と、一生懸命介入しようとする大人が混在していて、何が正解でどうしたらよいのか、誰についていけばいいのか、さっぱりわからないのです。
保育ってこんなに曖昧な世界なのかと、驚愕する日々です。
そして、さらに難しいのは、保護者の存在です。
児童支援を考える時、中心として考えるのは子どもただ一人ですが、親の存在を切り離して考えることは出来ません。
いくら最終的には子どもの権利や保護を優先するとはいえ、必ず保護者支援もセットであり、当人達を取り巻く問題は一つではないことがほとんどです。
双方の発達や能力の問題、病気の有無、経済的問題、社会的地位、家族構成、離婚、死別、DV、虐待、不登校、いじめなどが、複雑に絡み合っていますし、それらの中には決して解決などできない問題もあります。
他者から見たら介入の必要性がある子どもや親でも、当人達は気にもかけていないなんてこともありますしね。
目に見えぬ所で窮地に追い込まれている場合もあります。
放課後児童クラブで働くと、本当によく見えるのですよ。家族というものを皆が必死に守ろうとする姿から地域社会の課題、日本の行く末まで。
そもそも放課後児童クラブや学童保育所は、放課後児童健全育成事業という育成支援であって、児童支援なのかという疑問も出ます。
私の感覚としては、上記のような背景課題を持った子ども達の放課後児童クラブの利用が多いという現実があるため、育成支援はすなわち児童支援であろうと思っています。
そうなると、いかに社会として子ども達を取り巻く課題に取り組めるかということになり、児童支援だけ頑張っても何も変わらないのです。
つまり放課後児童支援員の力だけではどうすることもできず、他機関との連携が必要になりますが、その連携が上手くできないので、結局手詰まりになってしまいます。
例えば親の再婚で、新しく親になる人との関係が構築されていない、虐待のリスクがあると支援員がアセスメントして、他にも憂慮すべき課題があって伝えても、行政の職員は「家庭のことだからねぇ…」で終わるわけです。
もちろん学校はそんな家庭とは気付いてもいませんし、放課後児童クラブと連携もできていませんから何も知りません。
転出するなら、その先の自治体や学校に提供しておいた方がよい情報があったとしても、我々にはその術がないのです。
他にも様々なことが現場で起きていて、それを打開し改善し、より良い学童保育を追い求めようと現場の支援員がどんなに頑張っても、必ず手詰まりになります。
必ず行政や国の施策で手詰まりになります。
おかしいですよね。旗振り役が手詰まりの原因なのですよ。
本当に変えたければ、地方議員の力を借りて、自治体の議員の力を借りて議会で議論してもらわねばいけないと助言されます。
それは途方もない労力を要します。
そこまでして頑張った先に何があるのでしょう。
正規雇用になるわけでもなく、給料が増えるわけでもなく、支援員が頭を抱えるような親子が変われるわけもない。
学童保育って何なのですか。
人のために働くって、こんなに虚しい仕事でしたかね…