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〈127〉認識の違いを受け入れる

本人や保護者にニーズが無いとしても、育成支援に必要なことはやる。

社会性を身に付けるために必要だと支援員が判断するなら、引き上げるための支援をする。

学童は学校に付随するもの。

学童での支援は学校生活を送るに通ずる。

学習支援は学校がやるものであるが、学童で学習機会を作ることで見える学習困難さを学校へフィードバックする。

育成支援には学習支援も含まれるから、学習の機会は作る。

子どもの困難さを学校へ伝えることで、学校を揺さぶる。支援へ繋げる判断材料を提供する。

それをすることで学校と学童を対等の関係にする。


他の自治体での経験者と、これまで記事にしてきた数々のモヤモヤについて意見を述べ合い、備忘録的に記してみました。

自己決定、自由意思の尊重も大事ではあるが、履き違えないようにしなくてはならない。

自由でいい。でも皆で取り組む、誰かのために何かする時間だけは頑張る、そういう機会を作る。


自分たちもまた、向いている方向は正しいけれど、少し軸がずれていた、ということなのでしょうか。

誰が導くかで育成支援の中身が変わってしまう。

支援員の知識技量で、志で、子どもたちをどうとでもしてしまえることを、現在進行形で体感しています。

有資格者が1人加わっただけで、学習をする時間を10分設けるだけで、もう昨年度までとは違う学童保育になっています。

正直怖いなとも思います。

だからこそ、支援員は全員、せめて"正しい大人"にならねばいけないのでしょうね。


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