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〈33〉子どもを見きれなかったら支援員の力量不足①

ここで筆者が言う"子どもを見る"というのは、ただ見ていて怪我さえせず保護者に子どもを返すことではありません。定型発達も含め、一人ひとりの発達の凸凹やそれらが形成する集団への適切な対応のことを指します。


筆者の自治体は、発達障がいや不登校といった支援を必要とし、介入が難しい児童を、申し込みがあったら見境なく入所させます。

ある日突然申し込みに来ると、次の日には面談、その次の日には入所させようとします。

情報収集もろくに出来ずに目の前に子どもがいる状態に置かれます。

突如現れた人物をそれからの日々でアセスメントしていく過程は学童保育も看護も似たようなものではありますが、子ども同士他者との関わりや特性を積極的に発揮してくれるので、看護より頭を抱えるかもしれません。

放課後児童支援員には保育士、教師だった者と、そうでない者がいます。

学童保育は保育であって、適切な"保育"が出来るのは保育士のみだと思います。教師が出来るのは教育です。

放課後児童クラブや学童保育所で保育と教育の両方を適切に提供出来たら最高ですよね。

前回の記事でも書きましたが、放課後児童クラブや学童保育所は定型発達児の受け入れを前提とした制度設計だと思います。

最近ようやく現状も踏まえて発達障がいなどがある児童の受け入れも積極的にするよう言われますが、それを前提としない基準では、後出しのように付け加えられるそれらにそもそも対応しきれません。

そして放課後児童クラブや学童保育所は、療育や不登校支援をする場ではないのです。

支援員のマインドだけでどうにかできる問題ではありません。

定型発達児が大多数の集団と発達課題を抱える児童が大多数の集団とではカオスの程度が違います。

定型発達児であっても、長時間親と離れ続けた乳幼児期を経て愛着形成不全状態で、寂しさや不安が子どものベースになっていることが多く、それに伴う問題行動が目立つ昨今。課題を抱えるのは発達障がいがある子どもだけではありません。

現場に入らない大人は「まだ1年生だから」「4月だから」と言いますが、それで済まない未来を支援員は知っています。

だからより適切な介入とは何か、小学生になってから学年が上がるにつれ露になる困難に対し、早期介入のために発達支援センターに相談が必要と考え、所属長に申し出る。

明らかに発達遅滞であれば相談できるが、そこまでじゃない、定型発達児の荒れよう、集団の困難感は相談できないと言われる。

挙げ句放課後児童支援員のやり方の問題じゃないかと言われる。

保育園幼稚園では特に問題なく保育できていたとでも言いたいのか。

学校では特に問題なく先生達が見ているとでも言いたいのか。

だったら、どんな保育をしたら、どんな躾をしたら挨拶できない、人を叩く蹴る、高圧的な言動、人の話を聞かない、友達のプライベートゾーンを触り合う、謝れない、認知の歪みのある状態で小学生になれるのか教えてほしい。


支援員が現場で子ども達への介入に困ったら、泣きわめく子どもを静められなかったら、毎日起きる揉め事や喧嘩に疲弊したら、支援員の力量不足で片付けられるのは、あまりに非情です。

無資格者の力量不足は明らかですから、筆者の力量不足は認めます。

でも、有資格者は、日々必死に子ども達に向き合う有資格者には、そんな言葉を使ってほしくありません。

力量不足と言うのなら、力量付けられるように放課後児童支援員を支援してほしい。

ちゃんと助言もらえる機関と連携させてほしい。

曖昧で不十分な基準を改めてほしい。制度設計から考え直してほしい。

それをしてから力量を指摘すべきです。




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