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毒劇物管理体制は「悪意を持った部内者」に対して無力なのか

学生の頃に趣味で毒物劇物取扱者試験に合格したせいか、職場でやたらと毒性の高いものを扱わされております、くらどに屋です。信用されてるってことだと思うようにしています。

某大手製薬企業で、従業員による劇物を用いた殺人や毒劇物の紛失が起きたことを受け、勤務先でも毒劇物の管理に関する研修を受けよというお達しがありました。

しかし、その研修教材というのが、「鍵をかけましょう」「使用記録をつけましょう」みたいな教科書的な内容ばかり。それも大事なんですけど、某大手製薬企業の事件を受けて私が最も気になっていたのは、「企業内部の人間が悪意を持って毒劇物を盗もうとしていた場合、はたして防衛できるのか?」というポイントでした。

残念ながら、この「悪意を持った部内者」からの防衛について明確な指針は示されなかったので、「教育したという事実を作るための教育」の感は否めませんでした。

毒物や劇物(毒劇物)の紛失や窃盗が起きるたびに、メディアで繰り返される「管理体制に問題がなかったか調査」「管理を徹底する」といった言葉。言うは易く行うは難しの典型で、頻繁に実験に使う劇物 (メタノール、酢酸エチル、水酸化ナトリウムなど) を厳しく管理すると業務が滞ります。

他方、多少管理を厳しくしたところで、企業内部の人間が悪意を持って盗み出そうとすれば簡単に持ち出せるケースもあります。

業務上の利便性を保ちつつ、「悪意を持った部内者」からも毒劇物を防衛するという難しい課題について、この事件をきっかけに考えてみようと思いました。

D社メタノール事件

2022年9月、製薬大手D社に勤務していた研究員が、配偶者にメタノールを飲ませて死亡させた疑いで逮捕されました(同年10月に起訴)。

メタノールの入手経路や飲ませ方などに関しては不確定情報が多く出回っているようなので、テキトーなことは書きません。ただ、今回私の勤務先で実施された教育訓練では、「職場の毒劇物が盗難に遭ったと思われる事例」のひとつとして紹介されました。

同社では、後日毒物のアジ化ナトリウムの紛失も発覚しており、いずれのニュースもお約束の「管理体制に問題がなかったか」で締めくくられています。

メタノールで失明・死亡する仕組み

メタノールは酸化されるとホルムアルデヒドに変化し、さらに酸化されるとギ酸になります(酒に含まれるエタノールが酸化されて、アセトアルデヒドを経て酢酸になるのと本質は同じ)。

このホルムアルデヒドは、標本作製に使われる「ホルマリン」の成分であり、タンパク質を変性させる性質を持ちます。さらにギ酸は強力な酸であるため、血液のアシドーシスを引き起こします。

一般社団法人日本中毒学会によると、メタノールの致死傷は30〜100mL以上。10mL程度の摂取でも、失明の恐れがあるとされています。

特に、目はメタノールの影響を受けやすい器官です。メタノールの別名「メチルアルコール」をもじった「目散るアルコール」という俗称があるほどで、少量摂取しただけでも失明します。

眼球の周辺には、ビタミンAからレチナール(網膜の桿体細胞で光を感知するタンパク質である、ロドプシンの構成要素)を生合成する経路で使う酸化酵素が集中しているため、その酵素によってメタノールの酸化も進みやすく、眼球周辺でホルムアルデヒドやギ酸が生成されて眼球が被害を受けるのだと考えられます。

毒劇物管理の基本

鍵つきの保管庫は必須


毒劇物は鍵のかかる棚に保管し、鍵は部外者が手にできない場所で管理するのが全ての基本です。

肝心の鍵をどこに保管するかは、安全性と利便性の兼ね合いなので、絶対の正解はありません。ただ、最低でも部外者が入らず、複数人の目が届く場所を選ぶべきです。

たとえば、

  • 管理職が常に誰かしらデスクワークを行っている部屋の棚

  • 社員しか使用しない実験室の、見通しの良い一角

こういった場所に鍵を保管しておくだけでも、部外者が盗難する難易度は格段に上がります。

ちなみに、毒劇物を保管する棚は建物の敷地外から見えないように設置するよう指定されています。窓際にあからさまに毒劇物が並んでいたら、窓を割って盗難できてしまいますし、そもそも毒劇物の容器が見えることで部外者の興味を惹いてしまうためです。

在庫確認と使用記録


定期的な在庫確認によって、毒劇物が異常に減少していないか監視します。私の勤務先の場合、特に危険性の高い毒物や毒薬(※1)は、使用するたびに使用量と用途を記録するようルール化されています。

在庫確認と使用記録作成は毒劇物の管理上欠かせないものですが、あらゆる事業所で実際ちゃんと機能しているのか、私はかなり懐疑的です。

日常的に使うメタノールや酢酸エチルまで毎回毎回重さを正確に測っていては、工場などでは作業効率があまりにも悪化します。そのため、特に危険性の高い毒劇物だけは毎回使用記録を残すものの、それ以外は厳密に管理していない事業者や大学が圧倒的多数ではないかと思います。

そもそも「在庫を確認したら減っていた」では既に盗難・紛失が起きた後なので、警察や保健所に通報(※2)する役には立っても、盗難・紛失を「事前に防ぐための措置」とは言えません

※1 「毒物」は「毒物及び劇物取締法」で指定された「医薬部外品」であるのに対し、「毒薬」は「薬機法」に基づく「医薬品」のうち毒性の高いものを指します。

※2 毒劇物を取り扱う事業者は、毒劇物の盗難・紛失が起きた際は直ちに警察署に通報することが義務付けられています。

使わない毒劇物は買わない or 処分


保管や管理以前に、そもそも盗まれて悪用されるような代物はなるべく持たない方が良いです。

まず実験計画の段階で、毒劇物をなるべく使用しないように工程を組みます。また、実験が終わって使う目処が無くなった毒劇物を、もったいない精神で保存しておくのは推奨できません。使わないものをダラダラ持ち続けていても管理が疎かになるのがオチなので、定められた方法で速やかに処分します。

部内者による窃盗には無力

真に警戒すべきは「悪意を持った部内者」

上記の対策は毒劇物を取り扱う事業者が当然実施すべきものですが、あくまで外部の人間による盗難や、不注意による紛失を想定した措置です。

あまり想像したくないことですが、同じ事業所で働く同僚が悪意を持って毒劇物を盗み出そうとした時、上記の対策だけでは無力です。

どれだけ強固な鍵付きの棚に保管していても、部外者が立ち入れない場所に鍵を保管していても、内部の人間であれば何かしら口実を作ってアクセスできます。

部外者の侵入は金庫やSECOM等の物理的な対策で阻止できますが、真に警戒すべきは、こうした「悪意を持った部内者」なのかもしれません。

正常な減耗と窃盗の区別が難しいケース

毒劇物の保管量が減っていた場合、盗難ではなく正常な減耗という場合もあります。たとえば常温で蒸発する揮発性溶媒(メタノール、酢酸エチル、クロロホルム、エーテル類など)は、容器の開け閉めや配管内の移送、夏場の気温上昇などで、蒸発して目減りすることがあります。

特に工業用原料として大量に扱う場合は、蒸発でロスする量もバカになりません。メタノールの致死傷は30〜100mL以上らしいですが、メタノールをトン単位で扱う工場で数百mLのメタノールがなくなったとしても、蒸発等による「正常な減耗」で片付けられてしまう可能性が高いです。

毒劇物の窃盗犯が社内の人物であれば、数gオーダーで管理している研究部門ではなく、トン単位で扱う工場に侵入して少量くすねればバレない、と考えるでしょうね。

使用記録を偽造されればそれまで

使用記録を残すのは基本的な管理方法ではありますが、あくまで「従業員は正直に記録を残す善良な人々である」という前提のもと、毒劇物が異常に減っていた場合に速やかに対処するためのものです。

悪意を持った窃盗犯が社員の中におり、使用記録自体を偽造して毒劇物を盗む・・・という事態まで想定している事業者はほとんどいないのではないでしょうか。使用記録には「実験で5g使用」などと書いておき、実際は3gだけ使って2gを懐に入れてしまえばそれまでです。

使用記録を残す利点は、毒劇物が異常に減っていた場合に「いつの時点でなくなったか」を推定しやすくなることですが、使用記録自体が偽造されていればそれすら困難になるでしょう。

「悪意を持った部内者」に対して何ができるか

使用記録をつけるだけでは、悪意を持った部内者に対しては無力です。使った量をまじめに正直に記録するというのは基本ですが、所詮「善良な人」の理屈。世の中には一定数の悪人がいる(というより、誰でも条件次第で悪人になりうる)という前提に立って、いろいろな論点から考えるべきだと思います。

いくつか例を考えましたが、思いつくままに挙げただけなのでMECEにはなっていません。これ以外にもまだまだあるはずなので、ぜひ考えてみてください。

抑止力としての監視カメラ


毒劇物の保管場所に監視カメラを設置した上で、「撮られている」ことを意識させて窃盗への抑止力とする方法です。撮られていることを意識させる手法として、私は以下の2つを推します。

  1. 「撮影中」のステッカーを貼る。煽り運転への抑止力として、自動車の後方に「ドライブレコーダー撮影中」のステッカーを貼るのと同じ発想ですね。要は抑止力になればいいので、監視カメラはダミーでも構いません(従業員が本物だと思っていれば)。

  2. 毒劇物保管庫の中に小型モニターを設置して、監視カメラの映像を映し出す。これは、岐阜県に多い某ドラッグストアが実際に導入しているやり方です。店舗入り口に監視カメラを設置するだけでなく、その映像を店舗入り口のモニターに映すことで、入店した顧客は自分の姿が監視カメラに写っているのを見せられます。通常の顧客はスルーしてしまうギミックですが、万引きするつもりで周囲を警戒している人なら、「撮られている」というプレッシャーを感じずにはいられないでしょう。

抑止力としてのあいさつ・声かけ


「廊下で会ったらあいさつしましょう!」とか小学校みたいで小っ恥ずかしいですが、「あいさつ・声かけ」はコストゼロの犯罪抑止策です。

今から窃盗をはたらこうという人の気持ちになって、顔を見て「おはようございます!」とか「おつかれさまです!」とか声をかけられる状況を想像してください。

目を逸らして立ち去ると怪しまれますし、返事をすれば声や顔の特徴を相手に憶えられます。そもそも声をかけられた時点で、自分がその場にいたことを目撃されているわけです。窃盗のスリル自体を楽しむような人であれば別ですが、実行を躊躇う可能性が高いです。

毒劇物の保管場所周辺で他部署の従業員がうろうろしていたら、「何かお探しですか?」と、あくまで相手を気遣っている体で、積極的に声かけしてください。何もコストなんかかかりませんし、今日からできます。

あいさつや声がけの頻度を上げることで、副産物として職場の雰囲気改善も期待できるかもしれません。

社内通報窓口の設置


悪意を持って毒劇物を盗もうとする人物が社内にいた場合、以下のような何かしらの前兆が見られる可能性があります。

  • 精神的に不安定そうな言動が見られる

  • 周囲の目を気にするなど挙動不審な動きがある

  • 業務で使わないはずの毒劇物の保管場所をしきりに確認している

また、悪意がなくても、薬品の管理が杜撰だったり、危険性を理解していなかったり、根本的に粗暴な性格であったりと、毒劇物を扱う適性に欠けた人というのは世の中に一定数います。

「こんな不審行動が見られた」「この人に毒劇物を扱わせていいのか」といった不安や気づきがあったときに備えて、社内通報窓口を明確化しておくことも必要と思われます。

大仰な組織改変をしなくても、まずは部署内で傾聴力のある人や、毒劇物の管理責任者を窓口に指定するだけでも効果的でしょう。不審な動きは通報されるかもしれないという状況を作ること自体が、抑止力として機能するかもしれません。

人事配置での対応

結局最後は使う人間次第ということで、従業員の理解度やメンタルヘルスのチェックも毒劇物管理の一環と捉えるべきでしょう。

以前と比べて言動の異変が出てきたり、メンタルヘルスチェック等で異常が見つかったりした従業員は、毒劇物を入手できる業務から外すことも考えた方がいいのではないかと思います。

前述の社内通報窓口を通して、複数人から何度も通報があった従業員は、特に優先的に毒劇物から離すべきかもしれません。

おわりに

職場の毒劇物を盗んで犯罪に用いれば職も信用も失うわけですから、自分の仕事へのプライドなりエンゲージメントなりがあれば、そもそも職場の毒劇物で悪さをしようなんて発想にはならないはずです。しかし、そういったものを持ち合わせない人や、周囲を巻き込んで「自爆」してやろうという心理状態の人が世の中に存在するのも事実です。

「自分の職やキャリアがどうなっても構わない」という発想に陥った人が、悪意を持って自分の職場から毒劇物を盗み出して犯罪に用いる・・・。これこそ、毒劇物を扱う事業者や大学にとって最も防ぎにくい脅威ではないでしょうか。

「悪意を持った部内者」もいるかもしれないと想定すると、鍵つきの棚に入れるといったハード面の対応だけでは毒劇物を守りきれません。

他の人が何をしているか少し気にかけて周囲を見渡す。最低でも毒劇物を扱う施設の中では、あいさつ・声かけを徹底する。不審な動きは社内で通報できるようにする。そのような、ソフト面の対応も犯罪抑止に必須なんだという認識を、毒劇物取扱者として職場に普及していこうと思います。

えー、最後に。

文中で「正常な減耗に見せかける」とか「使用記録を偽造する」みたいなことを書きましたが、そういった行為を教唆する気は全くございません!あくまで「やったらアカン事例」「窃盗のパターンとして警戒すべき事例」です。自身のキャリアも勤務先の信用も破壊する行為ですので、絶対やったらダメですよ。


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